第一〇三話 甲斐からの帰還

 ■天文十七年(一五四八年)七月下旬 甲斐国 躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた


「予想はしていたが、甲斐は治めるのが難しい地であるな。とはいうものの、仕置も一段落ついたことである。長門、祝勝会の準備を頼む。あさあども忘れずにな。武田の臣にも、もちろん振舞うのじゃ。武田の臣も、いまや我が臣である」

 信長ちゃんが岩室重休しげやすに指示をして、織田軍の将兵がお待ちかねの飲み放題、食べ放題の祝勝会が始まった。信長ちゃんも育ち盛りらしく豪快な肉料理のアサードが気に入ったようで、予め重休に指示してあったのだろう。大きな猪が五頭も運ばれてきた。当然ながら初体験の武田旧臣は、当初は呆気にとられている顔も多かったが、しだいに酒やぜんざいやアサードなどの『織田流振る舞い』をそれぞれ楽しみ始める。


 これまでと勝手が違うことだらけだろうが、なかでも武田旧臣を驚かせたのは、織田軍に女性兵が多いことだ。女性兵の多くは補給隊に配属されているが、鉄砲隊をはじめとした戦闘部隊にも腕自慢の女性が数多くいる。

 武田旧臣のなかには、即座に織田軍の女性兵士と意気投合して、どこぞに消えるものもちらほら。

 さすがに「早速ですが那古野への転属をお願いいたす」と言い出す輩は、周囲を苦笑させていた。

 確かに莫大な費用がかかるけれど、このような賑やかな祝勝会は、これからの甲斐の統治や、将兵のモチベーションを高めるために非常に大事だと思う。


「わたしと源四郎のあさあどもあるよねー?」

 織田・武田の将兵が盛り上がっているさなかに、ようやく軍神虎ちゃんと赤備あかぞなえ飯富おぶ源四郎げんしろう昌景まさかげが戻ってきた。

「虎、よくぞ戻ったのじゃ」

谷村やむら落としてきたから、お腹すいちゃって」

 たった二〇〇の兵で小山田氏の本拠地の谷村館を落としてきたらしい。

「源四郎くんが大活躍だったのよー」

 さすが軍神と赤備のコラボだ。この大戦果にはおれだけでなく、武田の旧臣たちも呆気にとられるほど。

 昌景は小山田の味方のフリをしてまんまと開城させた後は、城内で無双をして小山田一族を殲滅したらしい。もちろん軍神虎ちゃんも大活躍だったようだ。

 だまし討ちともいえる卑怯な振る舞いをした小山田氏が殲滅されたとあって、武田旧臣も『よくやってくれた』と拍手喝采だ。


「これでやっとぽかぽかできるのじゃ」

 近江・伊勢平定戦の安土城での戦勝会のような湯殿振る舞いは当然できないけれど、信長ちゃんは『信玄公の隠し湯』として知られる、躑躅ヶ崎館にほど近い湯村温泉の湯治場を侍大将以上が、順番に入浴できる手配を準備していたようだ。さすがヨメちゃん、グッジョブだ。おれも約半月振りの入浴を楽しめてすっきりさっぱり気分爽快。


「吉、温泉は比類ない心地よさだったねー」

「うむ。肌や怪我にも良いらしいし格別であるな」

 信長ちゃんは虎ちゃんと一緒に温泉を楽しんできたらしく、湯上がりで少し頬を染めつつのご満悦顔。いいぞ。戦勝後の大将がご機嫌な笑顔を周囲に見せていると、様々な物事がスムーズに進むはずだ。


 こうして武田主力に快勝し、甲斐を直接統治することになったけれど、主に外交関連の懸念材料は山積みだ。甲斐を領国化したことで、未だ織田に対する姿勢が明確になっていない相模小田原城の北条氏康、信濃葛尾かつらお城(長野県坂城さかき町)の村上義清、上野こうずけ箕輪みのわ城(群馬県高崎市)の長野業正なりまさと領地を接することになった。この三者に対し、それぞれの外交戦略を定めなければいけない。

 甲斐の統治も方針は既に決定しているし、佐久間信盛をこのまま甲斐に貼り付ける形にしても、いざ実行する段階ではきっと様々な困難な事柄が噴出するだろう。


「わしは今後のために、このまま一月ほど信濃・上野で調略をしてから、那古野に戻りたいと思います。ははは」

 真田弾正だんじょう幸隆が、しばらくの期間の工作活動を志願してきた。今回の従軍では軍勢を率いていないので、当然ながら彼の槍働きを全く期待していなかったけれど、幸隆は早く勲功を重ねたいと思ったのだろう。本拠地に近い信濃・上野の国境周辺を調略するつもりのようだ。これまでの働きの様子から、今回も大いに期待できるだろう。


「うむ! 弾正にとっては、庭の様なものじゃな」


 甲斐から那古野までは、六十里(二四〇キロ)以上と、相当な長距離の移動になる。補給隊を伴うスピードアップが望めない行軍なので、行きと同様に二週間前後かかる行程だ。

 計画中の富士川の掘削工事が終われば、那古野から甲斐までは今川領の駿府まで船で移動し、そこから富士川水運を利用するルートだ。きっとかなりの時間短縮になるだろう。


 「源四郎くんは、しっかり鍛えるからわたしに任せといて!」

 そう胸を張る虎ちゃんと、深々とお辞儀をする昌景と諏訪で別れた後も那古野までの長い道のりが続く。


 ■天文十七年(一五四八年)八月中旬 尾張国 那古野城


 甲府から十六日間という長距離行軍を終えた我が尾張勢が、那古野に到着したときには、すっかり空気も秋の雰囲気だった。結局一か月半近く留守にしていたため、久しぶりの那古野は実に落ち着く。

 一度、甲府の湯村の温泉に入ったけれど、なかなか入浴ができなかったので、毎日屋敷の湯殿に入れて、リラックスできるのが本拠地のいいところ。

 そしてやはり格別の嬉しさは、ヨメちゃんと気兼ねなくいちゃいちゃできること。


「さこーん、やっと二人きりであるなあ」

 行軍中はおれも信長ちゃんも周囲の目や士気の兼ね合いで、控えていた分を取り戻すように、いちゃいちゃ生活も楽しめる久しぶりの休息だ。今後の関東情勢、畿内や西国情勢により、また忙しくなる可能性も高いけど。

「口惜しいことであるが、虎に戦と乳では勝てぬ。つい温泉で見比べてしまったのじゃ」

「大きければ良いというものではありませんよ」

「……真か?」

「ええ。姫の乳だから良いのです」

「左様なもの……であるか」

「左様なものです。せっかく那古野に戻って来たのだから織田屋食堂にひつまぶしを届けてもらいますか」

 信長ちゃんがちょっとしたライバル心を虎ちゃんに燃やして、口を尖らせる仕草も嫉妬と思えば可愛いもんだ。だけど変に意識するのもまずい。

 強引に話題を変えるために食事を届けてもらおう。

 一か月以上の甲斐への出兵中の食事は、殆どが行軍食だったので、食事情が改善されるのは非常にありがたい。

 せっかくならば、しばらくの休息期間のうちに新しい料理を開発しようか。岩室重休しげやすも、前任者の長秀と同様に料理の腕が期待できるから、難易度が少し高くてもきっと美味しく仕上げてくれるはずだ。

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