第一〇二話 甲斐の仕置

 ■天文十七年(一五四八年)七月下旬 甲斐国かいのくに 躑躅ヶ崎館つつじがさきやかた


 二刻(四時間)ほどで、甲府に展開していた小山田信有のぶありの軍勢を掃討した佐久間信盛と森可成よしなりの軍勢が引き上げてきた。

 親友の森可成はさすが織田家を代表する猛将だけある。諏訪上原の合戦での軍神虎ちゃんの大活躍に触発されたわけではないだろうが、小山田信有を始めとして小山田勢の将を討ち取り、武田信玄の嫡男だった義信の首級を取り返す大活躍をみせる。


 敵兵を甲府から追い払ったので、城下町も落ち着きを取り戻すとみて、開城した躑躅ヶ崎館に信長ちゃんは入城した。

 裏切り者ともいえる、小山田信有らの首級と武田義信の首級を武田信繁に返すとともに、陣を構え、今後の統治方針を周知させるためだ。

 城内で無事だった信玄の側室で諏訪頼重の娘――通称諏訪御料人すわごりょうにんと息子の武田四郎勝頼については、諏訪郡の統治のために諏訪氏を継ぐことになる。

 彼らは諏訪上原の合戦以降に同行していた諏訪満隣みつちかとともに、諏訪上原城に向かう取り決めがされた。


 武田家の旧臣については帰農を希望するもの以外は、武官や文官として取り立てる、という方針が既に伝えていた。案の定、帰農を希望する者はごく少数で、殆どが織田家への士官を希望する。

 このときに取り立てられたのが有名どころでいえば、信玄の弟の武田信繁、同じく弟の武田信廉のぶかど、秋山信友のぶとも、原昌胤まさたね、横田高松たかとしなど。いずれも信玄に重用された者たちだ。

 なお、他の織田直轄領=公儀領(公領)でも同様の方針だが、これらの者は信長ちゃんの直臣となる。今後の甲斐の統治を担当する佐久間信盛の家臣ではなく、寄騎よりき扱いだ。だから、たとえば甲府から那古野への転属を願い出たり、武官から文官へ、文官から武官への配置換えなどの願い出が可能になる。


 信玄の妻妾さいしょうについては、基本的には侍女と一緒に実家に送り届ける方針。子女については那古野に送って、見込みのある者については、武官や文官として取り立てる方針だ。

 武田信玄の関係者について処罰や処刑をしないこれらの方針は、武田旧臣の心情を和らげるもだった。


 さらに信長ちゃんは一国一城制のため躑躅ヶ崎館と重要拠点以外の城についての開城と破却と甲府の城下町へ家臣の移住と今後の徴兵の際の戦闘経験者の優遇措置の実施。領内の検地と刀狩の実施と甲斐領内の三年間の年貢の減免措置などの統治の基本方針を伝えた。


「虎はどうしたのじゃ?」

 ひと仕事を終えた信長ちゃんが本陣に引き上げると、怪訝そうに集まる諸将に問いかける。

 おれも確かに気になっていた。彼女は飯富おぶ昌景まさかげ赤備あかぞなえ二〇〇を連れて『ちょっとオヤマダ討ってくるねー』と出かけたきりだ。既に小山田信有は、森勢により討ち取っており、小山田兵も逃亡している。


「はっ! 長尾殿は小山田信有が拙者の手の者に討たれていることがわかると『ちょっと谷村やむら落としてくるー。吉によろしく伝えておいて』と、谷村に向かいました」

 さすがの森可成も苦笑する。

 谷村とは、小山田氏の本拠地の谷村館のことだろう。十里(四〇キロ)ほどもここから距離があるはずで、行ってくるだけで半日ほどかかりそうだぞ。天才のやることは恐ろしい。そもそもたった二〇〇の兵で、しかも騎馬部隊の赤備あかぞなえで城攻めができるんだろうか?


「虎のことだから、間違いはないじゃろうが」

 信長ちゃんもそう言うものの、さすがに呆気にとられている。


「典厩(信繁)殿、永田ながた徳本とくほん先生は何処にいらっしゃるか?」

 おれは気になっていたことを武田信繁に聞いてみた。

 永田徳本は『甲斐の徳本』『医聖』ともいわれ、どのような治療でも十六文(約1600円)という安価で、治療を行なった医者だ。現代日本の医薬品メーカーに名前を残すこの名医を、今後のためにぜひとも那古野に呼びたい。

 信パパの死も防止したいし、総合技術研究所で次世代の医者の育成にもきっと役立はずだ。


「兄が父信虎を追放した以降、徳本先生は信濃にいらっしゃるとのことです」

「徳本先生を招聘しょうへいしたいのだ」

「徳本先生は兄も招聘しようとしていたのですが、金では動きませんよ」

 なるほど、金に動かないなら何で動くんだ。よし。


「おれは、甲斐の腹膨れ病(日本にほん住血吸虫症じゅうけつきゅうちゅうしょう)と、疱瘡ほうそう(天然痘)と 脚気かっけを防ぐ方法を知っている。徳本先生に伝授したいのだ。そう徳本先生に伝えてくれ」

 金で動かない医者ならば、医療知識で動くだろうか。いや、動いてくれ。

「なんと! 腹膨れ病と疱瘡と脚気とは……さすが織田家ですね。それならば徳本先生もあるいは…」


 徳本先生については、彼の難病に対する姿勢に賭けるしかない。おれは他にも数点、今後の甲斐での重要な施策への道筋をつけたい。

「別の話になるが、金堀衆かなほりしゅうと、竜王の堤防(信玄堤)を普請ふしんした者を呼んでくれ」

「はっ!」

「金掘衆は今後は甲斐の金山を直接治めるため。堤防普請をした者は、富士川ふじかわに舟を通すための普請をするためだ」

「なんと! 舟を。左様なことが可能ですか?」

「ああ。鰍沢かじかさわ(富士川町)から駿河まで舟で往来できるようにするのだ。陸路の駿州往還すんしゅうおうかんは難路で危険で効率が悪い。何十年掛かろうが、織田家が責任もって普請を行う」

 史実では、江戸時代に角倉すみのくら了以りょういが開削した富士川水運の先取りだ。

「なるほど! とてつもない話ですな」

 信繁はスケールの大きい話に驚愕の色を隠せない。


「甲斐での米の収穫は、さほど期待できないだろう。今後は蕎麦、小麦、ブドウ、木綿、紙の原料になるこうぞ三椏みつまたの栽培を奨励させろ。これらの作物を換金し、米はその金で買うのだ。養蚕もおおいに奨励するぞ。公領ではどれも高く売れるはずだ」

「兄上とは全く違う手法ですが、甲斐は豊かになるかもしれませんね。織田にまったく太刀打ちできなかったのが、分かったような気がします」

「かもしれないのではなく、確実に甲斐を豊かにするのだ。典厩殿も出羽(佐久間信盛)に助力を頼むぞ」

「はっ!」

 有能な武田信繁の補佐があれば、これから十年単位で苦労することになるだろう佐久間信盛の甲斐統治は少しは楽になるかと思った。

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