第九八話 織田軍は甲斐へ
◆天文十七年(一五四八年)七月中旬 信濃国 諏訪湖付近
圧倒的な大軍を擁しているのに、武田兵の精強さに攻めあぐねていた織田軍だったが、軍神様が赤備を突き破り後退させたため均衡が一気に崩れた。
柴田勝家、森可成、稲葉
こうなったら、戦線の維持もあったものじゃない。
我が織田軍の勝利は確実だ。
武田勢から五十名ほどの騎馬が向かってきたが、おそらく意地を見せるだけの突撃だろう。突き破られる恐れはまったくない。もしかすると、信玄も一団のなかにいるのかもしれない。
対する我が織田軍は、鉄砲の斉射と長槍陣を組んで軽く対応する。
この一隊の突撃で組織だった抵抗は止んだ。
「ぶいじゃな!」
キリリと真剣な眼差しだった信長ちゃんも、ようやく満足そうな笑みをみせる。
「ええ、ブイです!」
こちらの損害は、当然皆無ではないが決して多くはない。主だった将の戦死もなく継戦は充分可能だ。
しばらくするうちに、本陣に武田の将たちの首級が運ばれてくる。
武田信玄、
虎ちゃんも
武田家の主力部隊を率いる名だたる将を討ち取る大勝利だ。
「えいっ! えいっ!」
「おおおおおおおおーッ!!」
「えいっ! えいっ!」
「おおおおおおおおーッ!!」
信長ちゃんの勝どきに、織田長尾連合軍の将兵が強く応じる。
後世で戦国最強とも謳われた武田軍の主力と真っ向勝負をして、鮮やかに撃破したため高揚感と充実感を非常に強く覚える。
ただ戦国最強は、やはり軍神様の虎ちゃんなのは確実だ。史実で信長と謙信は長期に渡って友好関係を結んでいたが、謙信の晩年に一戦を交える運命を辿る。
この世界では、できることならば彼女との直接対決は避けたいぞ。
◆天文十七年(一五四八年)七月中旬 信濃国 諏訪上原城
こうして、二月の上田原の敗戦によって低下した政治的立場を払拭するために、諏訪の奪回を目指した武田信玄(晴信)が率いる武田軍の主力を、上原城(長野県茅野市)付近で撃破した我が織田軍は上原城に軍を進めた。
武田軍に占拠されていた上原城は、既に無人となっていたため、信長ちゃんは上原城内に陣を構え、首実検などの戦後処理に忙しい。
「領民に銭をやり、手伝わせるのじゃ」
おりしも暑い真っ盛りで、敵味方の死体はすぐに腐敗してしまう。放置すれば大量の蝿が発生するうえ、疫病発生の危険もあるので早急に穴を掘って埋めないといけない。
尾張や美濃から従軍している補給隊に所属している工兵のほうが、手慣れているために迅速な処理ができるのだが、敢えて日当を払って領民に手伝わせるのは領民慰撫のため。
日銭を稼げるうえに鎧や刀などの武具を売ると、若干の銭になるため手伝いたがる領民は数多く、驚くほど短時間で処理ができそうだ。
もちろん戦死した織田兵の武具は、遺髪とともに持ち帰ることになる。
「温泉や水練の前に、甲斐府中(甲府)に行かねばなるまい……」
諏訪での温泉をずっと楽しみにしていたため、あからさまにしょげ返る信長ちゃんだが、やるときはやるのだ。
武田家当主の信玄を討ち取ったので、迅速に武田本拠地の甲斐に軍を進めて、戦後の統治を決定しなくてはいけない。趣味ともいえる温泉のために、この状況での諏訪逗留はすっぱり諦めている。
とはいうものの、上司兼ヨメちゃんのモチベーションを高めるのはおれの役目。
「姫、甲斐府中にもよき湯が湧いておりますぞ。さらには日ノ本一の富士の山が間近に見えます」
信長ちゃんが好みそうなワードをぶつけてみる。
「ほーっ!? 甲斐府中でも温泉が湧くのじゃな。日ノ本一の山は楽しみなのじゃ」
やっぱりだ。
彼女は目をキラキラさせて、まだ見ぬ甲斐への期待を膨らませはじめた。
機嫌の直った信長ちゃんは戦後処理をいつもの慣れた調子で行う。各所あての戦勝報告をさらさら自筆で認めたり、てきぱきと太田牛一に任せる手紙の内容指示などなど。
そうしたなか、別働隊を率いていた佐久間信盛が、伊那郡の
「保科弾正
槍弾正こと保科正俊は、今年の初夏に真田幸隆が調略をしていたのだ。
「助力忝し。ヌシの槍働きは聞こえておる。いずれ働いてもらうだろうが、しばし伊那郡を治め力を蓄えよ」
「はっ!」
あいにく別働隊のため武勲を得る事はできなかったが、信長ちゃんは諏訪郡の武田四郎勝頼
この時期の信濃は、松本盆地の林城を本拠としている、守護の小笠原長時が名目上トップ。だが現実として長時は、松本盆地周辺のみを支配しているに過ぎないので、この武田攻めを機に信濃の新秩序を構築する狙いがある。
信濃は山を隔てて、小国が数か国あるといっても過言ではないため、一か所で統治するまでもないとの判断だ。実際に現代の長野県も、地域ブロックごとに経済的な独立性が強かったため、この措置は妥当なものに思えた。
「伊勢勢と三河勢は、明日には国元へ戻らせるのじゃ。出羽(佐久間信盛)は甲斐府中(甲府)へともに参るぞ」
別働隊として、三河からは水野信元と松平家次、伊勢からは
こうして当初の目論見どおりに武田信玄を撃破したけれど、思うところも多くある。史実で徳川家康に大勝した三方ヶ原の戦いや、上杉謙信と渡り合った川中島のイメージが強く、現代でも信玄は戦国最強という意見があるが、後付けのイメージがかなり強い気がする。
史実の信玄の戦略や戦術を検討してみると、まず第一に敵よりも多い兵力を集め、調略や謀略を用いて敵を寝返らせたり兵力や士気を削るという、極めてオーソドックスな合戦をしている。決して弱兵というわけではないが、寡兵の村上義清や上杉謙信に敗戦したりと、決して戦術が最強とは思えない。
特に三方ヶ原の戦いでは、重厚な武田の布陣に寡兵で挑もうとした時点で、徳川家康のボロ負けは、相手が武田でなくても決定的だったのではないか。
『精強な我が徳川勢を散々に打ち破った武田は最強である』というお得意の徳川史観によるイメージの後付が大きいと思う。
信玄には金山というボーナスがあったにしろ、約二十万石の貧しい甲斐を本拠地としていながら、三〇〇〇〇以上の兵を遠征できるほどに統治の難しい甲斐と信濃を始めとした自領の国力を高めた。この統治能力が戦国時代最強レベルなのは確実だろう。
そういう意味でこれからの甲斐の統治は、しっかりと腰を据えて行なわなくてはいけないな。
織田信清を
信玄をうまく恭順させて、最強レベルの政治能力を発揮してもらう手はなかったか、とは思うけれど覚悟の突撃をしてきた以上は是非もなしだ。
とりあえずは甲府へ急行して、信玄死後の甲斐の仕置きを早急に決定しなくてはな。
「吉ぅう〜、おめでとぉおー。わたしもがんばったのよー」
大勝利の立役者の虎ちゃんが、戦闘前と同じくふらっと本陣にやってきた。既に一杯ひっかけているらしく上機嫌だ。
「うむ。虎は強いな。おかげで助かったのじゃ」
「弾正殿の強さには助かりました。さすが毘沙門天の化身ですね」
「長門くーん! わたしにご褒美のお酒とかすていら、よろしくねぇー」
「はっ!」
虎ちゃんが勝手に岩室重休に指示をして、カステーラをつまみに酒を飲み始めている。天才のやることはむちゃくちゃだ。
「こら虎! 勝手に長門を使うでない」
そういいつつも、信長ちゃんも気の利く重休から、自分の分のカステーラを手渡されご満悦顔である。
「明日、甲斐府中へ向かうんでしょ? 温泉や水練は楽しみしてたんだけど、残念だなー」
「うむ。甲斐府中にて仕置きしてから、当地で温泉を楽しむつもりなのじゃ」
「吉だけずるいぞー。わたしも甲斐府中へ行って、温泉に入ることにするよ。赤いおっちゃんに頼まれた事もあるし」
なんだかんだいって、信長ちゃんと軍神虎ちゃんはウマがあっているようだし、女大名という立場も同じためだろう。微妙なライバル心を燃やすこともあるけれど、仲良くしていていて微笑ましい。
赤いおっちゃんとは、
「弾正殿、赤いおっちゃんとは飯富
「ダンジョーなんて固いこといわずに、と、ら、と呼んで。そう! オブヒョーブとか言ってた。何を頼まれたんだっけ? 思い出せないー」
軍神様がかなり酔っ払っているな。史実で上杉謙信は、味噌や梅干など塩辛いものをつまみにして、酒を浴びるほど飲んでいたと伝わっているから、そのうち注意してあげよう。高血圧で卒中コースは避けないとな。
「虎! 左近に色目使うな」
「わたしは独り者で寂しいんだから、少しぐらい良いじゃない。ふうーっ。長門くん、もう一杯頼むねー」
「はっ!」
強敵を打ち破って賑やかな諏訪の夜である。明日からいよいよ甲斐へ進軍だ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます