第九七.五話 天下の赤備【飯富虎昌】

 ◆天文十七年(一五四八年)七月中旬 信濃国 諏訪湖付近 飯富おぶ虎昌とらまさ


 戦場いくさばで槍をふるっている最中なのに、亡き朋友の板垣駿河するが信方のぶかた甘利あまり虎泰とらやすを思い出す。

 お前たちはずるいな。後始末をわしに全て押し付けおって。


 大殿の信虎の治世では、御屋形(信玄)様は、まことにわしらの希望の星であったな。聡明であり心も優しく、みちの虫や蛙さえも避けて歩き、豊作を喜ぶ領民の笑顔を何よりも楽しみにしていらっしゃった。戦乱続きで貧しい甲斐を誰よりもうれいていたのは御屋形様だった。とてつもない大器の予感がした。


『御屋形様ならば甲斐を豊かにできる』

 そう感じ入ったので、三人で示し合わせて駿河へ大殿を追いやったのだ。

 御屋形様は、わしらの期待通り――いや期待以上の器であったな。大殿の時代より遥かにやりがいがあった。

 わしらだけでなく、配下にやる気を出させるのがうまい主君だった。この上なく素晴らしい大将だった。


『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』

 御屋形様は、わしらだけでなく甲斐の領民全てをも気にかけてくださった。

 わしも鍛え上げた赤備あかぞなえを率いて、常に先陣を任されて敵を打ち破ってきた。

飯富おぶ兵部ひょうぶの働き比類なし』や『兵部はワシの槍である』などと、幾度もわしの戦ぶりを褒めてくださった。


 御屋形様は、痩身で身体が弱いことを侮られぬためであろう。勇ましく見える白熊はぐまの兜ともいう諏訪法性兜すわほっしょうかぶとを好んで被られた。

 無理して政務をされていたのだろうな。しばしば体調を崩して、湯村ゆむら(山梨県甲府市)で湯治をされることも幾度となくあった。

 やがて体調が戻ると、御屋形様は強い武田のため強い甲斐のために、戦陣に立つ勇ましい姿を見せてくださった。


 しかし、わしらが甲斐の全てが、御屋形様に更なる強さを求めた。

 平地が少なく高い山に囲まれて、幾度となく飢饉に見舞われる。そんな貧しい甲斐が御屋形様に更なる強さを求めたのだ。

 御屋形様はわしらの希望を、綿が水を吸うように全て叶えようとした。


 本来であれば、御屋形様は治世の能臣なのかもしれぬ。

 しかし、わしらをはじめとした甲斐の全ての民が御屋形様の覇道を求めたのだ。

 御屋形様の器は、さらなる強さを吸い込み強大になっていった。

 わしらが甲斐が、御屋形様を強き獣にしてしまったのだ。


「後の統治にさわりあるゆえ、何とぞ寛大な処置を」

 佐久攻めの際のわしの諌言にも耳を貸さなかった。

「否。武田の強さを見せつければ、今後我が兵を失うことは少なくなるだろう」

 聡明で心優しき御屋形様であるゆえ、信濃の民の怨嗟えんさの的となるのは分かっていただろうし、心苦しかったであろう。甲斐のためを思っての苦渋の決断だったはずだ。


 聡明な御屋形様だから、此度こたびの織田との戦に勝ち目が一分もないことは分かっていただろう。目端めはしの利く、真田弾正(幸隆)は、上田原での負け戦で今日の敗戦まで見通したのであろうな。


 戦を前にして、数々の戦陣で無傷を誇る馬場美濃みの(信春)ですら、負傷を覚悟して「傷というものはいかように痛むのか」とこぼす有り様だ。

「織田の小娘など取るに足らぬ。我が武田の兵は日ノ本一の強さである。蹴散らしてやるわ。ワハハ」

 御屋形様はそう高笑いして今回の戦に臨んだが、わしらの甲斐のための優しさによる方便であろう。


 村上左衛門佐さえもんのすけ(義清)の槍衾やりぶすまには相当苦しめられたが、織田の長槍の強靭さや陣の厚さは想像を絶する。武田の精鋭中の精鋭の我が赤備あかぞなえですら、なかなか突き崩せない。


 しかも大量の種子島が厄介だ。轟音で馬が暴れるうえに、当たれば鎧などは全く役に立たない。槍を合わせる前に兵がみるみる減っていく。鬼美濃と称された原虎胤とらたねですら、あっけなく種子島で逝ってしまった。

 確かに織田は強い。圧倒的に強い。

 しかし、数に任せた実に面白みのない戦をする。

 どうせ死ぬのなら、面白い戦で死にたいものだ。


「赤いのつぶすよぉお! 覚悟はいいかぁああ!」

「オオオオオオオオオオーーッ!!」


 甲高い女子おなごの声が敵軍を叱咤して、一直線に向かってくる。まさか織田信長か?

 いや違う。あの旗印は越後の小娘、長尾景虎かげとらだ。

 これまた小娘であるが、大物であることには違いあるまい。

 白い頭巾をかぶった小娘景虎を先頭に、一団が横槍を入れに突撃してきた。


 なに、軍勢はこちらの方が圧倒的に多いぞ。負けるわけがない。

 織田との面白みのない戦とは違い熱く血がたぎった。戦はこうでなくてはな。

「右翼! 横槍がくるぞ! 押し返せええっ!」

 突撃してきた長尾の軍勢と我が赤備えがぶつかりあう。

 いいぞ。押し気味だ。大将首を獲ってやる。

 そう思ったのも束の間。

 我が赤備えが越後の小勢をなぜか押し返せない。一体どうなっているのだ。

「よーし! みんないい感じ! 敵は浮き足立ってるよおっ! 中央下がれ! 弥次郎、左翼から周りこんでもう一押しお願い!」

「うおおおおおおおおーっ!」

 まさか! わしが鍛えたあげた赤備があの程度の突撃に浮き足立つはずがない。

 じっとりと嫌な汗が流れる。

 数が多いし絶対にこちらが優勢なはずだ。


「小娘に負けるなああ! 押し返せぇえいい!」

 兵に気合を入れて、突撃を押し返して敵陣を突き崩すのだ。

「おおおおおおっ!」

 なに、士気は大丈夫だ。散発的に繰り返される長尾勢の突撃を、歴戦の兵たちはうまく受け止めている。


「弥三郎は右翼で踏ん張って! 三つ数えるまで止めたら勝ちだから頼むね!」

 は? 小娘は何を言っているのだ。戦況は互角ではないか。

「ふざけるな! 越後兵を押し返すのだあ!!」

「ひとーつ! ふたーつ! みーっつ! ――よーし! 崩れたああ! これで勝ちよ! みんな、よくがんばったねええーっ! 後でたっぷり飲むよーっ!」

 一気に陣が崩れて、長尾の軍勢が我が陣の横腹を食い破りつつある。

 まずいな。これでは全く戦にならぬではないか。


 なんなんだ? この小娘は。

 我らが優勢だったはずなのに……。いつのまに負けたのか。

 全く訳がわからない。

 だが我が赤備がもろくも崩れて、越後兵に蹂躙じゅうりんされているのは事実だ。


 負けだ。このまま崩れて、御屋形様が控える本陣を衝かれては大変なことになる。

 陣を一旦退いて組み直さなければ。

「本陣まで退けぇえいいい!」

 長尾の小娘はまさに戦の申し子、天賦てんぷの才があるとしか思えない。

 日ノ本一のつわものであろう。


 本陣に駆けて行き、甲斐への撤退を進言しようとした。

 ところが御屋形様は「戦は負けよ。右大将はワシを許すまいて」と、悟りを開いたように静かに微笑む。

「なれど……一旦ここは退いて」

「もうよい、兵部。ワシには織田右大将うだいしょう殿の首をもらう以外に道はないのだ。勘助(山本勘助)、美濃(馬場信春)、弾正だんじょう(高坂昌信)、ワシのともをせい。征くぞ!」

 いかん、御屋形様は死ぬ気だ。

 御屋形様が、圧倒的不利の状況をくつがえすべく、乾坤一擲けんこんいってきの勝負をしようとしている。

 いや、道はあった。織田信長が右近衛大将うこんえのだいしょうを任官した際に、普通に礼を尽くし恭順すれば、無体な扱いはなかったはずだ。その道をわしらが塞いでしまったのだ。御屋形様を強き獣にしてしまったわしらの責任だ。


「織田右大将殿ぉお覚悟ぉおおお!」

「おおおおおおおおおおーッ!!」

 御屋形様を中心に鋒矢ほうしの陣で鋭く本陣まで突き破るのだ。

 無理とはわかっていても、御屋形様に最後まで付き合わねばな。

 だが二十以上も年下で、子どもの様に可愛がった弟の源四郎(山県やまがた昌景まさかげ)まで、付き合わせるのは気がひける。身体は小さいが戦の才はわし以上である。

 ここでその才が失われるのは天下の損失であろう。素直な源四郎ならば、わしの言いつけは必ず聞くはずだ。源四郎に耳打ちをする。


 パパアン! バアアン! パアアンパパアンバアアアン!

 御屋形様の最後の突撃を、邪魔するのはやはり織田の大量の種子島だ。なんたる数だ。もうダメだ。

 馬場美濃(信春)は初めて負った傷が致命傷だ。腹に三発も弾を食らっている。

 弾正(高坂昌信こうさかまさのぶ)も倒れて動かない。楽な死に逃げたな。さすがは逃げ弾正だ。


 御屋形様も逝ってしまったようだ。織田の兵が群がっている。

(御屋形様、申し訳なし……)

 あの世とやらで深くお詫びすると言い訳しながら軽く黙礼する。

 勘助(山本勘助)も御屋形様の側にいたはずだが倒れたようだ。姿が見えない。

 わしも何発か弾を食らって落馬してしまった。身体が焼けるように熱い。そろそろ死ぬのであろう。


 周りにはもう誰もいない。

 だが武士もののふの意地で、刀を杖代わりに直立した。


 いつの間にか白頭巾を被ったあの越後の小娘がそばに佇んでいる。

「おぬしは……」

「あなた強いねえー。名前教えてくれない?」

 長尾景虎は屈託ない笑顔で訊いてくる。不思議な女子おなごだ。

「武田の赤備の飯富おぶ兵部ひょうぶ虎昌だ。最期に日ノ本一の兵とれて嬉しいぞ」

「ありがとう。武田の赤備ね。覚えとくわ。わたしは長尾虎よ。苦しそうだから、楽にしようか?」


 確かに、つらい。

「我が弟を遣わす。日ノ本一の兵の元で、天下の赤備に鍛えてやってくれ」

「わかった。約束するよ。天下の赤備だね。楽しみだなー」

 虎と名乗った小娘は、心底楽しみそうに素敵な笑顔を見せる。

「すまんが、もう苦しい。やってくれ」

 これで思い残すことはないか。武士もののふとしては悪くない人生だったな。

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