第九七話 軍神虎ちゃんの大活躍

 ◆天文十七年(一五四八年)七月中旬 信濃国 諏訪湖付近


 諜報衆の忍びから報告を受けた武田軍の兵数、二〇〇〇から四〇〇〇は国力からすれば若干少なめ。もう少し揃えて来ると思っていたが、上田原の大敗の影響や、これまでの調略により軍勢を集められなかったとみていい。武田軍は本拠地の甲府で軍勢を集結させた後、一気に諏訪に進軍するとして、どの程度で到着するだろう。距離は約七〇キロだから三日といったところか。


 我が織田軍は那古野から休みなく進軍してきたので、武田軍の襲来までに時間の余裕ができたのは嬉しい。

 そこで信長ちゃんは、諏訪湖近くの諏訪大社すわたいしゃ下社しもしゃ付近(長野県下諏訪町)で、越後の長尾虎ちゃんの軍勢と合流するために、しばらく陣を構えた。虎ちゃんは越後から六〇〇〇の軍勢を率いてくれてるとのこと。実に頼もしい友軍だ。

 ここで信長ちゃんは、高遠たかとお城に集合している佐久間信盛が率いる別働隊に対し、諏訪方面へ向かう街道筋で諏訪盆地を望む杖突峠つえつきとうげ(長野県茅野ちの市)近辺までの出陣を命じる。いざ戦闘が始まったらタイミングを見計らって、峠から駆け下りて、武田軍に横槍を入れる布陣だ。


 陣を構えた諏訪大社では、信長ちゃんは、既に調略済みだった諏訪満隣みつちかと重要な会談を行った。諏訪満隣は諏訪大社の神官一族の重鎮。信長ちゃんは満隣に対して、数え三歳となる武田四郎勝頼かつよりの救出と、将来の諏訪郡知事への任命を誓約をしたのだ。武田勝頼は、元諏訪大社の大祝おおほうりで晴信に自害を強要された諏訪頼重よりしげの娘――通称諏訪御料人すわごりょうにんと晴信との息子だ。

 あわせて勝頼救出後には、諏訪満隣に勝頼を後見をさせることと、暫定的なの諏訪郡知事に任命する誓約をした。

 これらの誓約によって、尾張から進軍してきた織田軍が、諏訪地方の統治を武田信玄から諏訪一族へと戻す『解放軍』という性格になり、諏訪郡一帯は一気に織田方に旗幟きしを鮮明にするのである。


 ◇◇◇


 こうした諏訪情勢の変化に対して武田信玄も放置できず、先に小笠原長時に奪われた諏訪湖に近い上原城(長野県茅野市)を奪回すべく進軍してきた。

 当初の狙い通りに武田勢を平地におびき出した形となる。

 やったぞ、これでまず負けはないはずだ。


権六ごんろく頼むぞっ!」

「殿っ! お任せあれえ。ワッハッハ」

 武田軍の動きに対し信長ちゃんも未明から、柴田勝家を先鋒として上原城方面に進軍して信玄との決戦を求める。あわせてゲリラ戦の得意な川並衆には、武田軍の後方に存在する可能性が高い小荷駄隊を襲撃するように命令を下した。

 そして虎ちゃん率いる越後勢については、織田主力軍の後方から進軍し、機を見て迂回攻撃をするように取り決めがされた。


 正午ごろ、柴田勝家と武田家の原美濃守みののかみ虎胤とらたねとの陣が衝突した。後に『諏訪上原の戦い』と呼ばれる合戦の開始である。


「さこん、ワシは勝てるか?」

 信長ちゃんも少々緊張した面持おももちだ。

「姫、長尾弾正(景虎)殿も精強ですしブイです!」

 幸いなことに天候にも恵まれて、織田軍の大量の火縄銃が威力を発揮できるだろう。笑顔でぱしっとVサインを返す。

「うむ。ぶいじゃな」

 ヨメちゃんも晴れやかな笑顔を見せる。そうだ。大将がいい笑顔だと将兵も安心して戦える。


 ここまでの調略や状況から、信玄はこの合戦で織田軍を撃破しなければ、諏訪地域の奪還は当然ならない。さらには織田軍に敗北したら、一気に求心力が低まって、クーデターの恐れすらある。

 かといって甲府への撤退策は、追撃を受けて現在の軍勢が壊滅する恐れがあるだけでなく、一気に本拠地で守備力がいまひとつな躑躅ヶ崎つつじがさき館まで押し込まれる可能性もある。武田方の戦術としては論外といえるだろう。


 武田軍の主力の吊り出しに成功し、野戦での決戦と当初の目論見どおり推移している。負ける要素は見当たらない。

 織田軍の基本戦闘は、三間半の長槍陣を押し出していき、長槍陣の隙間から鉄砲を射手と助手三名を組合わせた形の三段撃ちで、敵兵を殲滅していく手法だ。

 歴戦の勝家だけあって、精強な武田の軍勢を相手に優勢に進めている。とはいえ武田勢はさすがに強靭で、一気に突き崩すことはできない。


 ――森三左さんざ(可成)は、左翼から横槍を入れよ。

 ――杖突峠の佐久間出羽(信盛)は、山から駆け下り敵右翼に押し出せ。

 戦況を眺めていた信長ちゃんが新たな命令を下す。

 左翼からの迂回攻撃で敵先陣を崩し、別働隊の投入も行って兵の数量を生かして一気に押しつぶす策。

 冷静な采配だ。素晴らしいぞ。


「吉ぅう~っ! いよいよ戦が始まったねえー」

 フリーダムな虎ちゃんが本陣にやってきた。大好きな合戦が始まってテンションが上ったのか、軽い調子の声を掛けてくる。彼女は行人ぎょうにん包みと呼ばれる白い布を頭巾のように巻いている。

「うむ。虎もしかと頼むのじゃ」

「戦の前にかすていらがほしいなー」

「長門、かすていらを」

 信長ちゃんが岩室重休いわむろしげやすに命じて、カステーラを受け取ると景虎ちゃんに渡す。


「ありがとう。これでやっと戦をする気になるわー」

 なんだ。虎ちゃんは打ち合わせに来たのではなく、おやつを食べにきただけかよ。思わずプッと吹き出してしまう。おれ個人的には、軍神様と名高くなるであろう虎ちゃんの戦ぶりを是非とも見てみたい。史実の戦闘経過を読み取ると、上杉謙信こそが戦国史上最強だと思えるし、女子の虎ちゃんも同様に戦上手なのか、興味は尽きない。


 そんな思いをよそに、色っぽい軍神様はカステーラをもぐもぐと頬張っている。

「虎は何ゆえ、兜を被らないのじゃ?」

 信長ちゃんが思い出したように虎ちゃんに尋ねる。

 おれも気になっていた。さすがに布を頭に巻いただけでは危なすぎるだろう。

「んー。日に当たると赤くなるから」

 白布を頭巾のようにしていたのは、日焼け防止だったのかよ。確かに雪国育ちで色白の虎ちゃんは、強い日差しには弱そうな感じだけど。


「で、あるか。だが危いぞ?」

「わたしには戦の神様が付いているので、絶対に負けないんだよ」

 そういえば謙信は毘沙門天びしゃもんてん信仰で有名だったな。真顔でさらりとこういうことを言い出すのが、天才の天才たる所以だよな、と大いに納得してしまう。

「フン! ワシには左近が付いているので絶対負けないのじゃ」

 あーあ。信長ちゃんが微妙なライバル心を出してきた。

 嫌な雰囲気になるので、おれを引き合いに出さないでほしい。


「ふふっ。ごちそうさま。わたしは、あの赤いやつ潰してくるよ。そうすれば戦は勝ちだから」

 ニコっと虎ちゃんが笑って行ってしまった。

 戦況を見ると、左翼へと迂回攻撃をしようとした森可成の軍勢を、朱色の軍勢が阻んでいる。

 ひときわ目立つ朱色の一軍は、おそらく武田の赤備あかぞなえ。現代では、武田四名臣の山県やまがた昌景まさかげが有名だけれど、この時期は武田軍の中核でもあり筆頭重臣ともいえる飯富おぶ兵部少輔ひょうぶしょうゆう虎昌とらまさが率いているはずだ。

 後方に布陣していた越後勢から、騎乗の虎ちゃんが一隊の軍勢を率いて戦場に急ぎ向かう。どうやら、武田の赤備を叩こうとしているらしい。だが、虎ちゃんの率いる軍勢は一〇〇にも満たないように見える。やけに少人数だが大丈夫だろうか?

 ところが、虎ちゃんを阻もうとした軍勢は、全てたおされて、無人の原野を駆けるように敵軍を切り裂いていく。


 そして、森可成隊の猛攻に頑強に抵抗していた武田の赤備も、虎ちゃんの軍勢と当たるや、やがて陣形が乱れて後方に撤退していった。

 まるで草食動物の群れに、腹を空かせた猛獣が混じっているようだ。軍神様は伊達ではない。当たる軍勢を全てたおし突き破る。

 まさに敵兵が溶けるようだ。凄いものを見た気がする。

「あれはなんじゃ? 虎が味方でよかったのじゃ」

 流石のヨメちゃんも呆気に取られて、空いた口が塞がらない。


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