第九六話 進軍

 ◆天文十七年(一五四八年)七月上旬 尾張国 那古野城 


 名目上は信濃(長野県)トップである守護の小笠原長時から、予告があったとおりに、現在は武田信玄に実効支配されている諏訪地方の奪取を目指して、出陣したとの報せが入った。

 すぐさま信長ちゃんも織田軍の出陣の命を下す。


 今回の主力軍は尾張勢一二〇〇〇と美濃勢一〇〇〇〇に、ゲリラ戦に特化した川並衆かわなみしゅう一〇〇と狙撃が得意な鉄砲隊の根来衆ねごろしゅうが五〇〇だ。鉄砲の数も五〇〇〇と豊富に揃えてある主力部隊は、諏訪湖北側の塩尻しおじりへと進軍することになる。

 いっぽう高遠たかとおから諏訪湖の南側へと向かうルートにも、尾張勢三〇〇〇に伊勢勢二〇〇〇と三河勢四〇〇〇が合流して、合計九〇〇〇の別働隊が進軍する。

 合計三一〇〇〇余りを超える、昨年の足利将軍と対決した近江・伊勢平定戦以来の大規模遠征軍だ。


 対する信玄はといえば、史実で上杉謙信と対決した川中島の戦いでは二〇〇〇〇人を動員したと伝わるけれど、まず間違いなく兵員数には誇張があるだろう。それに現在の信玄の領地は川中島の合戦時点より遥かに少ない。現状でおよそ二五万石を領有している信玄の最大動員数は、八〇〇〇人前後のはずだ。とは言っても本拠地や様々な要地の守備にも兵を割かなくてはいけない。それに史実で小笠原長時と争った塩尻峠の戦いでも三〇〇〇と伝わっている。

 だから今回出陣してくる武田軍は、通常レベルで三〇〇〇から五〇〇〇人前後。最大でも七〇〇〇人前後のはずだ。


 おれ自身がすば抜けた個人的戦闘力を持っていないせいもあるけれど、とにかく合戦での方針は圧倒的大差の兵員を揃えること。そして何よりも、味方は当然としても、敵方の戦死者数をもできる限り減らしたい。

 決して生ぬるいヒューマニズムではない。文明の利器が未発達なこの時代は、国力は完全に人口に正比例している。

 たとえ合戦に勝ったとしても、戦後復興を行う多数の労働力が必要だ。そもそも人間は誕生したとしても、現代より医療が未熟だから死亡率は高いし、少なくとも十数年は労働力として期待できないじゃないか。


 敵方の戦死者を減らすためにも、圧倒的な兵力差を保つのは大事。戦なれした武将はともかくとして、平時は農民で臨時に徴用された兵たちは敵の『数の暴力』を目の当たりにして戦意を保つのは難しいからだ。常に敵方の数倍以上の兵員を用意して、圧倒的な大軍勢の威容によって、敵兵の逃亡や戦意喪失を誘うわけだ。

 もちろん今回の武田戦では武将への調略だけでなく、甲斐や諏訪の領民にも、圧倒的多数の織田軍が来襲するとの噂を広めている。


 今回の信濃遠征にあたって、今川義元マロには正式な援軍依頼はしていない。正室が信玄の姉のため、マロは信玄の義理の兄にあたる。その血縁関係を考慮したからだ。とはいうものの、信濃に武田攻めのために出陣する情報は伝えてはある。

 まさか武田側につくとも思えないが、あの強かなマロが今回の軍事行動の際に、どのような行動をするのか注目したい。今後の織田今川間の関係に、大きな影響を及ぼすはずだ。


 今回の信玄との決戦は、現状の織田家の最大動員数より、かなり少ない兵員で望むことになるけれど、もちろん意図してのことだ。現に安土城の信パパや美濃の斎藤道三、越前の朝倉宗滴の『爺ちゃんズ』からも出陣させろ、と強い強い催促があったのだが、彼らの扱いに慣れている信長ちゃん経由で丁重にお引き取り願っている。


 信濃への遠征は往復の道中が長いため、一か月以上に及ぶことが確実だ。しかも合戦の状況によっては、信玄の本拠地の甲府まで攻め込む可能性もある。そのため織田軍が全力で出陣したら、空き巣狙いをしたくなる勢力も出てくるかもしれない。

 史実の本能寺の変は、主力部隊が各地に出兵していて、守りの弱い場所で大将の信長を守る兵もごくごく少数。そういった大きな軍事的空白があったからこそ、光秀がクーデターを決意したのだろう。

 織田家の最重要拠点の那古野=安土=京都に軍事的な空白が発生しないように、要所の守備は万全にしている。逆に留守中に軍事行動を起こしてみるなら、起こしてみろとの思いだ。


「今こそおお! 天下に弓するうう! 武田大膳だいぜん(信玄)をおお! 討つううううっ! 出陣!!」

 主力軍を集めた那古野城での出陣式で、将兵を鼓舞する信長ちゃんは相変わらずの凛々しさで誇らしい。白い軽量の鎧に黒い陣羽織。髪をおろして白い鉢金鉢巻の出で立ちだ。温泉を楽しみにしているのか、とてもリラックスした笑顔だ。

「おおおおおおおーッ!!」

 総勢で応える兵たちもまた、歴戦の勇者が多いため士気は抜群だ。

「さすが織田ですね。壮観で心躍りますなあ。ははは、これでは武田も戦になりますまい」

 織田家に帰参したばかりの真田幸隆も大興奮だ。

 川並衆と根来衆以外の主力隊の殆どが、これまでの各地の平定戦を戦い抜いている将兵なので、最精鋭揃いの軍勢といえる。


 目新しいことといえば信長ちゃんの馬廻り衆として、河尻かわじり肥前守ひぜんのかみ秀隆ひでたかが出陣している。河尻秀隆はこれまで信パパの元で幾度となく出陣してきたベテランだ。

 史実の河尻秀隆は、信長嫡男の信忠(奇妙丸)に補佐役として付けられて『爺』ともいえる存在になる。秀隆は武田攻めの後に甲斐を所領としていた。だが本能寺の変後の混乱の際に、国人一揆に殺害される運命をたどる。秀隆にとってもおれと同じく因縁のある武田攻めだ。


 ◇◇◇


 主力軍と別働隊は山道をそれぞれ四日間かけて進軍して、東美濃恵那えな郡の岩村城(岐阜県恵那市)に到着して宿泊することにした。岩村城はさきに恵那郡知事に任命している遠山景前かげさきの居城だ。

 岩村城で一泊した後は、さらに山道を行軍していよいよ目的の信濃国だ。五日間の行軍の後に、木曽郡の福島城(長野県木曽町)に到着し小休止。

 城主の木曾きそ義康よしやすも、遠山景前と同じタイミングで木曽郡知事に任命されている。


 今回の進軍途中で宿泊した美濃の恵那郡と信濃の木曽郡は、ともに織田家の新領地ともいえる。巡回の意味と、仮に信玄に味方するなら、大軍勢によって鎧袖一触がいしゅういっしょくで捻り潰すとの威嚇の意味合いがあった。

 ここで佐久間信盛が率いる別働隊は、伊那郡の高遠城方面に進軍して、三河勢と合流後に諏訪湖南岸へ進軍することになっている。

 主力部隊は諏訪湖北側の塩尻経由で諏訪湖を目指す。


 ◆天文十七年(一五四八年)七月中旬 信濃国しなののくに 諏訪湖付近


 こうして二〇〇〇〇名を超える主力部隊が、木曽郡の福島城から四日の行程で諏訪方面へと進軍中に、甲府(甲斐府中)で情報収集中の諜報衆の忍びから報せが入った。武田信玄が出陣準備をしており、兵数は二〇〇〇から四〇〇〇の見込みとのこと。

 予想はしていたが、武田信玄には降伏の意思はなく、一戦を交えるのは確実だ。

 合戦になるならば――二度と戦う気が起こらなくなるほど完膚なくまで打ち破ってやる。

 現代でも信玄を戦国最強武将と論じる向きもあるだけに、いやおうでも武者震いがしてくる。

 だからといって負ける気は全くしていない。おれが戦国時代に来てから丸三年。幾度となく合戦も経験しているし、数多の歴戦の将兵や武田軍には存在しない強力な鉄砲も多数揃えてある。

 戦国時代でも甲斐の強兵は有名だが、それを完勝で打ち破り『最強織田軍』の看板を背負って、今後のスムーズな天下統一へつなげたい。

 負けるのはもちろん、辛勝すら許されないぞ。


 そんな気負いがあったのだろうか。

 諏訪への温泉旅行気分のリラックスした笑顔の信長ちゃんが声を掛けてきた。

「未来が見えるさこんの目には此度の戦はいかがに映っておるのじゃ?」

 そうだ。まずは戦の勝ち負けよりも、おれと信長ちゃんが無事に戻るのが最優先だった。

「もちろん、我が織田のぶいですぞ!」

 史実とは思い切り乖離しているだけに、正直なところ自信はない。とはいえ、やれることはやってきたので、生死に関わるようなボロ負けはないはずだ。

 少しぎこちない笑顔かもしれないけれど、精一杯に微笑んで右手でVサインを作った。

 戦国最強ともいわれる武田信玄との決戦はいよいよだ。

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