第九五話 決戦間近

 ◆天文十七年(一五四八年)六月下旬 尾張国 那古野城


 信長ちゃんが挑発まがいの降服勧告の書状を、甲斐と信濃にばら撒いてから二か月ほど経つ。だが、当然のように武田家からはなんら回答がなかった。もちろん、書状が無視されるのは想定済みだ。

 こちらの要望の信玄の隠居を、武田家が無条件に飲むとは考えにくいが、何らかのアクションがあれば融和策の用意もあった。だが、ここに至っては全面対決以外の選択肢は存在しないので、本拠地の那古野城でも着々と合戦への準備が進んでいる。


 話は変わるが、未来からフィードバックしたモールス信号もどきを、今年の春に実用化にこぎつけた。以前から総技研にて、諜報衆を中心にホイッスルを利用した情報伝達を研究させていたのだ。

 那古野から武田領国の甲斐や信濃(山梨・長野県)、そして長尾虎ちゃんの本拠地越後(新潟県)は、三〇〇キロほどと相当な距離なので、情報伝達スピードが速くなるのは実にありがたい。

 ただ外交上の重要文書を送るときには、以前から諜報衆の忍びによって手渡しをお願いしている。対武田戦に備えて、越後の長尾虎ちゃんとのやり取りも多くなったので、越後に手紙を送るのにどのくらい時間が掛かるのか気になり、多羅尾光俊に聞いてみた。


「左様ですね。脚が達者な専門の者なら、一日二十五里ないし三十里(一〇〇キロから一二〇キロ)ぐらいは走りますな。春日山(新潟県上越市)までなら早くて二日、通常は三日あれば届けられます」

 光俊が相変わらずの仏像スマイルで、さらりと恐ろしいことを言い始める。

 一二〇キロといったら、フルマラソンほぼ三回分だぜ。


 最近はモールス信号もどきの活用で、単なる情報の伝達ならば全ての距離を走らないで済むように工夫しているようだが、忍び衆は信じられないことをするもんだ。近場ともいえる六〇キロほどの安土までの騎乗の移動ですら、慣れないと疲労困憊ひろうこんぱいしてしまうぞ。

 恐ろしさすら感じる忍び衆の特殊技術は、織田家で活用するだけでなく、敵対大名に活用されないためにも放置はできない。


 多羅尾光俊の配下によって、既に武田の忍び衆は相当数引き抜いてくれたようだけれど、まだまだ手を抜くわけにはいかない。

 忍び衆の引き抜きによるメンバー増強を新たに厳命しよう。

 この時期には、忍びの技術を有効活用している大名勢力はまだまだ少ないはずだ。真田幸隆が知っているはずの後の真田忍群――信濃戸隠とがくし修験者しゅげんじゃの流れを組む者や、北条家に仕える風魔ふうま一族などなど。

 じっくりと予算をかけて諸国の忍びの引抜きをかけていこう。


 ちなみに、重要度が低い用件の手紙を諸国に送る場合には、那古野に来ている商人に預けて届けるのが殆どだ。費用は掛からず、諜報衆のプロフェッショナルの手を借りなくて済むけれど、宛先にいつ届くかまったく分からないデメリットがある。確実に届けてくれるルートを利用しているけれど、商人たちは、途中で仕入れや商売してたりするからな。

 相手に瞬時に届いたメールやメッセージアプリが懐かしいぞ。再度IT技術を使う機会が訪れる気は全くしないけれど、信長ちゃんが未来テクノロジー使用したら、どのような反応を見せるのだろうか。もしも信長ちゃんとメッセージアプリのやり取りができたら、すごく盛り上がって面白がるだろうな。たまにこのような詮無い妄想をしてしまう。

 おれが生きているうちに、郵便制度までは無理かもしれないけれど、せめて飛脚制度は、国内統一して平和になったら整備したいぞ。


 総技研といえば、最近那古野でに需要が増えている油の安定供給についても研究をさせる予定だ。油とは照明用の灯油のこと。さほど高給とはいえない兵卒までにも、灯油はかなり広まっているみたいで、値段が高騰していたりもする。

 もちろん現代の電気照明に比べれば、薄暗く頼りないけれども、夜に明かりがあるのとないのでは大違い。安心感が雲泥の差だ。

 暗い夜になっても寝るだけでなく、家族の団欒だんらんがあるのは、素晴らしいことだぞ。

 既にこの時代に実現されているのか分からないけれど、水車や石臼を使う油絞りの方法を確めないとな。アブラナを利用した菜種油の状況についても確認しよう。アブラナは春に黄色い花を咲かせる菜の花のことだから、きっと米の裏作で栽培できるはずだ。


 まだまだ高級品の油の供給が安定してきたら、炒め料理や揚げ物にも菜種油が利用しやすくなって夢が広がるな。

 こういった細かな雑務は、岩室いわむろ長門守ながとのかみ重休しげやすに頼んでおくと、先輩秘書の丹羽長秀に負けず劣らずの仕事ぶりで、きめ細かく手配してくれる。


 話がだいぶ逸れてしまったけれど、松本盆地の林城(長野県松本市)の小笠原おがさわら長時ながときから文が届いた。『武田家は今年初めの敗戦で弱体化したはずだから兵をまとめて諏訪を攻め取る予定だ』と、非常に勇ましい文面だ。

 だが史実では、小笠原長時は諏訪を一応は占拠するものの、すぐに信玄から手痛い反撃をくらって奪還されてしまう。諏訪を取り返されるだけでなく、小笠原長時は信玄には連戦連敗で本拠地の林城まで落とされて、松本盆地までもが武田家の領国になってしまうのだ。対小笠原戦の快勝によって武田信玄は、上田原の大敗によって悪化した政治的なマイナスのイメージの完全な払拭に成功する。


 小笠原長時は、名目上信濃国トップの守護の家柄。小笠原流弓馬術として現代まで続く弓術馬術のルーツでもあり、個人的な武勇は相当に高く実に勇猛だ。

 だがしかし、悲しいことに合戦にはめっぽう弱い。人柄も名門意識を振りかざして、家臣の言うことをあまり聞かず微妙な感じだったらしい。

 諏訪湖近くの塩尻峠の合戦では、全員が鎧をはずして寝ていた際に、武田軍の朝駆けを喰らったはずだ。兵力差ではかなりの優勢だったから、言い訳の仕様のないボロボロの敗戦状況だな。その後の小笠原長時は、本拠地落城後も奪還を試みるも果たせず、泣きながら越後の景虎ちゃんを頼ることになる。


 そこで織田家としては、小笠原長時がボロ負けをして、信玄を勢いを付かせないように、これから出兵する必要があるわけ。

 戦略目標としては、武田軍を敗北させて将兵を潰し継戦能力を低め、諏訪を再度武田家から奪回して晴信の政治的立場をさらに悪くするのが第一。

 けれど戦の状況によっては、一気に武田本拠地の甲府まで攻め込むこともあり得るので、準備周到な大掛かりな遠征となる。もちろん、すでに越後の長尾虎ちゃんには援軍依頼をしている。


 対武田戦の後に甲斐を領国化しても、復興にはかなり時間が掛かるだろうし、実入りも少ない。さらには、風土病の原因になる日本住血吸虫という寄生虫が非常に厄介だ。

 正直をいえば、金山以外は駿河の今川義元マロに任せてしまいたい。

『富士川をうまく掘削すれば駿河まで船が使えるよ』とか『ブドウを作ると高値で売れるよ』って囁いてみようか。

 強かで優秀なマロには暗い悪企みは通じなさそうだけれど、『マロの息子の氏真うじまさに任せてみるでおじゃる』と、間違えて言い出してくれると嬉しいぞ。

 いずれにしろ、武田戦後の処理は攻め取ってから信長ちゃんやマロとも相談だな。まず負けはしないだろうが、獲らぬ狸をあれこれ言ってもしょうがない。


「虎から文が届いたのじゃ。ほら」

 信長ちゃんが手紙を差し出してきた。きっと援軍依頼の回答だろう。


『越後では手に入らないから、今度会うときにかすていらを持ってきてね。

 もし忘れたらむちゃくちゃ怒っちゃうよ?


 諏訪の温泉は楽しみだね。吉と一緒にぽかぽかしよう。

 最近はだいぶ暑くなってきたから、諏訪湖で水練するのも気持ちがいいかもね。

 私は水着を持って行くつもり。 虎』


 越後の長尾家とのやり取りは、重要度特Aの緊急扱いだから、諜報衆のスペシャリストが、二日か三日間ぶっ通しで走ってきたんだろう。 いやはや、こんな内容で申し訳ない。

 信長ちゃんと虎ちゃんとの仲が親密なのは実に結構なのだが、戦関連の内容が皆無じゃないか。さっそくヨメちゃんも現代のメール好き女子のように、楽しそうな笑顔で返信をつらつらとしたためている。


 現代の武田信玄の実績や強力な軍事力を知っているだけに、武田との決戦に対しておれはかなりの緊張感を覚えるけれど、信長ちゃんや虎ちゃんは拍子抜けするほどリラックスモード。

 知らぬが仏といったところだろうか。何はともあれ、心強い越後からの援軍は期待できるみたい。

 小笠原長時の諏訪出兵の報せが入ったら信濃へ出陣予定。那古野城以外の織田家の重要拠点では、既に出兵する将兵が待機している。

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