第九四話 諏訪といえば温泉でしょ
■天文十七年(一五四八年)四月下旬 尾張国 那古野城
「さこん、これでいかがじゃ?」
いたずらっ子のように、目をキラキラさせている信長ちゃんが文を差し出してきた。
『武家の頭領たる織田
即刻、信濃国の全ての兵を退き矛を収めて、今後は信長の許可なく軍を動かすな。
武田大膳は天下の道理に背き、諏訪と佐久を侵し民の安寧を乱すだけでなく、諏訪大社神領をも我が物とした。
天下の道理に背いたために、天罰が下って上田原で大敗をしたのである。そもそも国主たる素養もないので、天下の道理に背いてしまい天罰が下るのだ。
当主は武田
素直に降服して隠居し、典厩や太郎に後を任せれば命までは取らない。信長の命に背いて軍を動かすのならば、不敗で天下布武の実行者たる織田軍が不届き者を成敗するぞ。
攻めるのは織田だけではないぞ。北条や今川も隙をみて加勢するのだ。万に一つも勝ち目はない。
真田弾正(幸隆)、
心得があるものは、不届き者の武田大膳に同心せずに織田に降れ。
天罰も下らず本領も安堵されて、将来の繁栄が約束されるだろう。
織田右近衛大将信長 天下布武(印)』
「姫は最高です!」
我が信長ちゃんは武田家との合戦を前にして、武田信玄あてに降服勧告の書状を
とはいうものの、本来は降服勧告の意味合いではない。
もちろんおれと相談して決めたことだが、信玄を挑発して武田家中の混乱を招いて家臣の離反を促すための書状なのだ。この書状を信玄に送るだけでなく、岡崎の一刻攻めと同じように、大量に印刷して武田家の主だった家臣を始めとして、甲斐や信濃の武田領国にばら撒くつもり。
また武田家譜代の重臣で、嫡男義信の
名指しをしているもう一人の小山田
飯富虎昌も小山田信有も、現在は織田家の調略に応じていない。だが信玄や周囲からの彼らに対する疑いの目は、かなり強くなるはずだ。
今川家と織田家は、特に交易が盛んになった親密な関係で、安全保障条約のような同盟関係にある。だが、信玄の姉の
いっぽう北条氏は、織田家とは敵対関係ではないが、かといって積極的に協力姿勢も見せてはいない。
書面の今川や北条が加勢するという文言は、両家とは約束も通知も全くしていないため、はったりとも言える。だが今川義元には、武田家を滅亡させた後には、甲斐を任せようと考えている、との書状を既に送っている。いわば『踏み絵』をさせている状態だ。
北条家当主の
「獣どもを相手にするのは文を書くのにも疲れるのじゃ。疲れたときには甘いものに限る」
織田焼きを片手にニコニコとしている信長ちゃんだが、これまでも足利将軍や天皇、百戦錬磨の武将などとやり合っているだけあって、凄まじい外交能力をもっている。
史実の信長が信玄との直接対決を避けに避けたというのに、信長ちゃんは甲斐の虎を真正面から打ち破ると、堂々と宣言しているのだ。けしかけたのはおれだけれど、挑発の具合が半端なくてほとんど宣戦布告状態だ。我がヨメちゃんながら実に誇らしいぜ。
もちろん、史実の信長よりもはるかに有利な点が数多くあるのは確かだけど、それにしても素晴らしい。
素晴らしいといえば、帰参したばかりの真田幸隆がさっそく武田配下の調略に成功した。信濃伊那郡
さらに幸隆は、信玄の従弟で一族の重鎮でもある
「いやあ。
真田幸隆は悪びれもせず、人の良さそうな笑みを浮かべているので逆に怖くなるぞ。さすが、真田三代のトップバッターだけあって、改めて味方にしておいて良かったぞ。
「
地図を睨んでいた信長ちゃんが尋ねる。
信玄は史実どおりに、北信濃の村上よりかなり弱敵の小笠原攻めを行なう可能性が強い。織田家が小笠原救援をするとなれば、信玄との合戦は諏訪から松本盆地近辺になるだろう。
「そうですね。諏訪といえば良き温泉がありますよ」
合戦が間近に控えている大事な時期に、またもや大蛇やナマズ探しに行かれると困るので、信長ちゃんの大好きキーワードをぶつけてみよう。
「なんと! 諏訪には温泉が湧くのであるな。虎にも温泉でともぽかぽかしようぞ、と伝えておくのじゃ。南蛮菓子も仕入れて、持っていくと虎も喜ぶであろうな。ワハハ」
現代で、戦国最強と評価されることもある武田信玄との合戦が不可避なのに、まるで友だちと温泉旅行に行くのを楽しみにしているような表情の信長ちゃんだ。
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