第九三話 風雲信濃戦線

 ◆天文十七年(一五四八年)四月上旬 尾張国 那古城


 ほぼ三か月ぶりに本拠地の那古野に帰って参りました。

「安土もよいが那古野はやはり落ち着くのじゃ」

 生粋の那古野っ子の信長ちゃんもご機嫌である。

「那古野はまさに天下の台所ですな」

 安土から那古野に同行してきた真田幸隆の言葉だが、この世界では将来『商都』は大阪ではなく那古野になるのかもしれない。

 これから幸隆は、一族を秘かに那古野に呼び寄せる困難なミッションを実行予定。だが東国平定が落ち着いたら、幸隆には信濃小県ちいさがた(長野県上田市周辺)や上野こうずけ(群馬県)の本領周辺を、統治してもらう形が自然だろうな。


 軍神長尾虎ちゃんの臣従、真田幸隆の帰参、なまずの成敗(かば焼き化)による近江の地震防止(?)。さらには、奇妙くんを含めた可愛い次世代を担うだろう子どもたちの様子が見られるなど、実りが多かった今回の安土行きだったが、やはり気になるのは甲斐の武田信玄(晴信はるのぶ)の動向だ。


 史実の武田信玄は、信長の天下布武の大きな障壁になったのは確実だ。ただし、当初から信玄が天下統一を目指していたか、といえばそれも違うと思う。現代の戦国ゲームなどでは、数多あまたの戦国武将が天下統一を目指した印象があるけれど、実際はだいぶ異なる。それまでの天下人ともいえる三好長慶が死去した一五六四年以降に、次の天下を狙ったのはやはり信長だけではないか。

 その信長にしても、当初から天下統一の野望があったかといえば、それもかなり疑問が残る。尾張統一後に豊かな土地の美濃を手中に収めて、日本を代表する大大名になったからこそ、政治の中心地の畿内に軍を進める意思を固めたに違いない。


 武田信玄も、十三歳も年下の信長の躍進を目の当たりにして『あの若造ができるなら、ワシができて当然だろう』と天下取りに名乗りを上げたのだろう。もちろん反信長の姿勢を明確にした将軍足利義昭の信長包囲網の呼びかけが、きっかけではある。だが、長年の織田家との友好関係を破棄して、信玄が外交戦略を西上作戦に切り替えた裏には、信長が天下を手中に収める勢いになった現実が大きいはずだ。


 ともすれば、若造どころか娘の信長ちゃんが実質的な天下人である現状を、信玄は苦々しく思っているに違いない。大人しく織田家の傘下になればよいのだが……どう考えても可能性は極々低い。今まで続いていた武田家からの新年の挨拶すらも、今年は一切なかった。やはり早々に武田家との軍事衝突は避けられないだろう。


 史実の武田信玄は、およそ二十万石程度の甲斐国から、信濃制圧を完了させて大大名となった。いっぽう現在の信玄は、信濃南東部の諏訪すわ郡と佐久さく郡を領有している状態。信濃全体のおよそ四分の一程度の収穫が見込める土地だ。

 真田幸隆を引き抜くための予言にも使用した上田原の戦いは、史実と同樣の信濃平定戦略によって生起したのに他ならない

「もう一度村上を攻めるか、小笠原攻めでしょうな」とは真田幸隆の言だ。

 史実で信玄は小笠原攻め、村上攻めの順に信濃平定を成し遂げたが、この世界での武田信玄はどのような動きをするのだろう。


 来たる武田家との合戦に備えて、安土に滞在中に信長ちゃんはいくつか手を打っている。

 松永久秀の畿内平定戦が順調で、三好長慶ながよしの弟たちを含め優秀な将を取り込んでいるので、畿内に多数の軍勢を留め置く必要はない。

 そこで畿内は松永久秀と明智光秀に任せ、予備戦力として二条城に駐屯させていた、那古野一万貫時代からの精鋭中の精鋭ともいえる森三左可成よしなりと橋本一杷いっぱの軍勢を那古野に戻した。

 また近江統治のために、昨年秋からしばらく観音寺城に駐屯していた柴田勝家も、可成と同樣に那古野に戻す。現状での織田家最強の布陣を整えるわけだ。

 勝家と交代する形で、近江では佐久間盛重が、恭順していない国人勢力の制圧に当たることになる。


 既存戦力の配置換だけでなく新戦力の増強も行っている。対武田戦では、信濃や甲斐などの山岳部での戦闘が増えることを考慮して、坪内つぼうち勝定かつさだを頭領とした木曽川流域の国人衆からなる『川並かわなみ衆』を組織化させた。諜報衆や鉄砲の得意な根来衆と同様に特殊部隊の役割がある。

 蜂須賀はちすか小六ころく正勝まさかつ)や前野まえの長康ながやすなど、史実でも活躍した武将によるゲリラ戦闘力を期待したものだ。


 あわせて外交面でも、東美濃の恵那えな郡岩村城の遠山景前かげさきを郡知事として任命して、分散していた遠山家の旗頭として東美濃の掌握をさせる。同時に、信濃の木曽郡の木曾福島城にる木曾義康も郡知事に任命した。

 東美濃と木曽地域の掌握を図って、信濃へのルートを確保するための施策である。もともと美濃方面との関係が強いので、遠山景前も木曾義康にしても、地域統治の名分を得られるとあって、まさに渡りに船の歓迎ムードだった。


 武田信玄が狙っている信濃国は山がちで平地が少ない。数個の盆地が険しい山によって隔てられていて、交通の便も悪い。そのため長野盆地、松本盆地、諏訪盆地、上田盆地、佐久盆地、伊那盆地などの平地を、それぞれ別個の小国と考えたほうが分かりやすい。

 現時点では諏訪盆地と佐久盆地を、武田信玄が領国化している。


 やはり幸隆の意見や史実どおり、信玄の次なる攻略目標は上田盆地至近の葛尾かつらお城の村上義清と、松本盆地の林城を居城とする小笠原長時のどちらかだろう。

 そこで既に信長ちゃんは『武田信玄が攻めてくるならば援軍の用意がある』と村上義清と小笠原長時宛に援助の約束をしている。


 武田信玄は、七年前の天文十年(一五四一年)に重臣の協力を得て、父親の信虎を駿河の今川家へ追放して家督を相続している。その後の信玄は、征服戦争により諏訪と佐久の領国化に成功して『強い領主』として自身の政治的立場を固めてきた。


 家督相続からさほど年月を経ていないため、今年二月の上田平の大敗によって、磐石とはいえない信玄の政治的立場は必ずや揺らいでいるはず。

 信玄は合戦で勝利して強い領主が健在なことを、喧伝けんでんしなくてはならない。早ければ今年の秋の稲刈り後、遅くとも来年春田植え前に、信玄の信濃出兵が行なわれるだろう。

 織田家としては、これ以上武田を太らせるわけにはいかない。

 史実でおれ滝川一益が活躍した、因縁の対武田戦が始まろうとしている。この世界でも武田戦が順調なことを祈ろう。

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