第八五話 寺社統制と琵琶湖の大なまず

 ◆天文十七年(一五四八年)一月下旬 尾張国 那古野城


 現在の織田家の方針としては、史実でも『信長包囲網』に加わっている甲斐(山梨県)の武田信玄を仮想敵国としている。だが、史実の包囲網で信長を苦しめた勢力は武田家以外にも数多くある。

 包囲網の一角の近江(滋賀県)の六角と浅井は既に滅亡していて、越前(福井県)の朝倉はこの世界では友好勢力だ。三好一族も長慶死去後は、松永久秀の尽力もあって骨抜きになっている。


 その他の包囲網の勢力では、本願寺ほんがんじ延暦寺えんりゃくじが史実の信長を相当に苦しめている。この時代の寺社勢力は強大な武力を持っていて、中規模の大名を凌駕する実力を持っている場合すらある。延暦寺には僧兵が四〇〇〇人いたとも伝わっているほど。

 また寺社勢力同士の戦いも、たびたび発生している。たとえば十二年前の天文五年(一五三六年)に起きた天文法華てんぶんほっけの乱と呼ばれる、法華宗(日蓮宗)と延暦寺の抗争は非常に激しいものだった。延暦寺が京の法華宗の二十一本山を焼き払い、死者が一万人も出たといわれている。また下京しもぎょう(都の南部)が全域、上京かみぎょう(都の北部)も三分の一が焼き払われて、応仁の乱以上の被害が発生したほどだ。


 このように強大な寺社勢力は抵抗されると厄介な敵にもなるし、抗争による治安悪化も、健全な統治する側にとっては見過ごすことはできない。

 そこで信長ちゃんが行なった寺社統制策は、いわばアメとムチ作戦だ。公領での信教の自由の保証し弾圧をしない代わりに、武装解除・僧兵の退去・不法行為で取得した領地の没収・戒律の厳守・寺社奉行への届出・宗論の禁止といった武力を背景にした行動の制限を行うわけ。

 これらの施策を帝からの勅命として、各寺社勢力に対し統制を行なったのだ。


 史実の信長がおおいに苦しんだ本願寺勢力については、この世界では織田家と戦う理由が存在しない。

 本願寺とは一向いっこう宗の総本山のこと。一向宗は新興仏教で、旧来の宗教勢力のボスともいえる比叡山延暦寺と、激しく対立中。延暦寺と近しい立場で武力で本願寺を苦しめた細川晴元や六角定頼を、昨年信長ちゃんは滅ぼしている。

 そのため本願寺は、織田家に好意的ですらある。

 そこで一向宗の聖地でもあり、延暦寺や法華宗との抗争により、廃墟となっている京都の大谷本願寺と山科本願寺の復興への協力をする。また、伊勢の長島などで見られる本願寺の高度な治水技術を利用するため、公領での治水工事を請け負わせる融和策をとることにした。


 そして、織田家が本願寺に対して退去と移転の賠償金を支払うことにより、石山(大坂)本願寺を退去し織田領とすることと、加賀と越中の一向一揆を停止させる旨の誓約が交わされた。

 現当主の証如しょうにょが退去した後の石山本願寺には、松永久秀が入城して、京二条城とともに畿内統治の要の役割を期待している。


 いっぽう本願寺以外の勢力でも、寺社統制策によって恭順した場合は、武装解除の際に鉄くずとして武器を買い上げる、行き場のなくなる僧兵の就職斡旋などの宥和策を取ることに決定している。

 そして恭順しない寺社勢力については、取引する商人に対して公領での活動禁止から始まり、武力制圧の通告・武力制圧および本山の破却・宗徒の処罰・公領での禁教という厳しい措置を予定している。

 だが実際の武力制圧を行なう前に、関連商人への活動制限の段階で、恭順するケースが多いはずだ。この時期の畿内の商人は、当然ながら公領でも広く商売をしている。強硬派の寺社勢力と付き合いがあると、旨味のある公領での商売ができなくなるので、商人はよほどのことがなければ、心中をしたくないからだ。


 このようないわば経済制裁は、地味ながらも確実に有効な策だ。強硬派の寺社勢力は、付き合う商人が存在しなくなるので、ありとあらゆる物品が殆ど手に入らなくなる。抗戦する以前に人を集められない、仮に人を集められても逃げてしまうので抗戦する手段がなくなるわけだ。


 今回の寺社勢力の武装解除の際に、鉄砲の傭兵として名高い紀伊国(和歌山県)の根来衆ねごろしゅう頭領の津田算長さんちょうが、織田家への恭順を決定している。また津田算長の伝手で、雑賀衆さいかしゅうからも鈴木孫一などの優秀な人材、鉄砲職人の芝辻清右衛門しばつじせいえもんも尾張へ招聘することになった。

 津田算長は諜報衆の多羅尾光俊と同様に、一種の特殊部隊の頭領として活躍することだろう。


『坊主は経を読んでいればよいのじゃ』とは信長ちゃんの言だが、まったくもってその通り。

 史実の信長は比叡山の焼き討ちや、長い間の石山合戦という多数の流血で、対立する宗教勢力の武装解除を行なった。

 だがこの世界では権威と経済力により、信長よりはるかに容易に宗教勢力の武装解除に成功できる見込み。

 寺社奉行には、既に京で外交と内政を担当していた村井民部少輔みんぶしょうゆう貞勝さだかつが就任している。

 

 また今年は、畿内制圧戦などの軍事行動が今後想定されるため、岡崎城攻めで織田家に帰参した石川数正と酒井忠次が、新たに京二条城へ赴くことになり、既に京で活動している明智光秀と森可成に合流予定だ。



 がたっがたっ……だーんっ! ばたんっ!

 ――この騒々しい登場は嫌な予感がするぞ。

「さこん! 淡海おうみ(琵琶湖)には大鯰おおなまずがおるそうじゃな」

 ヨメちゃんが大きな目をキラキラさせながら、おれの着物の袖を引っ張る勢いだ。

「へ? 大ナマズですか?」

 午前中はおれと一緒に、今後の方針を真剣に検討していた信長ちゃんに、一体何が起きたんだろう。さっぱり分からない。

 誰かが余計な情報を伝えたんだろうが、佐々成政が大本命だろうな。

 大鯰といえば、全長一二〇センチ以上成長し、琵琶湖固有種で日本最大の淡水魚のビワコオオナマズのことだろうか。

「大鯰というからには、六尺(一八〇センチ)ぐらいあるかな? 食味はいかがであろうか?」

 もはや信長ちゃんのワクワク状態が止まらない。彼女の目を見れば、琵琶湖直行パターンが決定事項だ。比良の大蛇捕獲作戦については、寒さを理由にとりあえず収めたけれど、ヘビの次はナマズかよ。この寒い季節に勘弁してほしいぞ。


 琵琶湖に行くとなれば安土に泊まるはずだから、湯殿とこたつがあるのでぽかぽかには事欠かないけれど、まだまだ苦手な信パパと平手爺がいるのは少し気が重い。

 だが正月だし、身内への挨拶は必要だろうな。

 暖かくなって軍勢が動かせるようになれば、そのまま安土から畿内平定戦に助勢する可能性も高い。

 久しぶりに奇妙くんと遊ぶのもいいな。安土築城中の長秀にも、新しい料理のレシピを作って渡してあげよう。

 

 ――ということで、那古野を信光叔父に任せて、馬廻りと近習をお供にまだ寒い季節だけれど、信長ちゃん一行は安土城に向かうことになった。

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