八四.五話 真田幸隆の憂鬱【真田幸隆】
◆天文十七年(一五四八年)一月中旬
差出人は織田の今士元こと滝川
わずか二年半で尾張半国守護代奉行の小娘を、天下人にのし上げた恐るべき手腕の持ち主だ。恐ろしいという気持ちと同時に、うらやましさを感じてしまう。
わしも時と場所に恵まれれば、との思いは正直いえばかなりある。
だが、織田家の滝川左近が何を企んでいるのだ。
『村上
調略なのだろうか? しかし命に注意しろとは、どういう意味なのだ。全く意味が分からぬ。
『戦では村上に十中八九負けるはずだが、お前が命を落すのは天下のために惜しい』
武田家の信濃制圧に立ちはだかる村上との合戦は、既に秒読み段階だ。敵大将の村上義清は、真田の
来る村上との合戦でわしが大きな功をあげれば、小県の本貫を回復できるかもしれない。今年は並々ならぬ意欲で、義清との戦に望もうとしていた。その頃合いで滝川左近からの文である。
村上との合戦が上田で起こり、武田が敗れてわしの命が危うくなるとでもいうのか。しかしそれが分かったとして、天下のために惜しいとは、やはり調略だろうな。
正直言えば、調略だったとしても、織田家の重臣中の重臣とも言える滝川左近からの文は嬉しくもある。
わしの実力が世に知られている証とも言えるだろう。
『おまえと、おまえに勝るとも劣らない
なれど、この一文を左近が
嫡子で数え十二歳の
遠く尾張の滝川左近が赤子の源五郎の知謀を、見抜いていることなどあり得るのだろうか?
いったい何を考えているのだ。まったく底知れぬ男だな。
それに武田が道を誤るとは、どういう意味なのだろう。
「織田
織田信清か。なるほどそういうことか。何度か見かけたことがあるが、信清は恨みを秘めた嫌な目つきをしている。女将軍信長に尾張から追放されて甲斐まで逃げてきた男だ。
織田信清は『女将軍などというが、うつけの
全く……真のうつけとは、自分がうつけとは分からぬ者のことだ。哀れなものよ。織田信清のような者は匿うべきではない、と御屋形様に進言しているのだが、聞き入れられてはいただけない。
それこそ信清を匿っていることを理由に、女将軍が甲斐に攻め入って来る可能性すらあるのだ。
わしはこれまでの織田右大将の戦を、詳しく調査している。まず負ける戦はせぬ女だ。圧倒的な兵力差で攻め込むだけでなく、巧妙な
それこそ信長をうつけと侮る織田信清は、信長の軍勢に包囲されたらすぐに落城の憂き目を見たではないか。しかも部下の全てに見限られて捕縛されたと聞くぞ。
仮に信長が甲斐に攻め込むとしたら、織田軍だけでなく、駿河今川・越前朝倉・武蔵北条・信濃村上・上野長野・越後長尾らの軍勢を集めるのではなかろうか。しかも同時に多方面から、甲斐に攻め込む策を巡らせる可能性は充分あるぞ。
また甲斐国中の米を、買い占めてしまうことすらやりかねない財力もある。武田家御用商人の坂田屋や友野屋も逃げ出すだろう。
――十五にも至らぬ小娘にできたことがワシにできぬわけがなかろう。
そう御屋形様はおっしゃるが無理だ。今は絶対に織田に勝てるわけがない。
――我が武田の風林火山の旗の前には、尾張の弱兵などは残らずひれ伏すであろう。
重臣までもが
まさに虎の尾。踏むには危険過ぎる。
『
昨年の志賀城を陥落させた時はわしもさすがに気が滅入った。生き残った城兵は全て奴隷として女子供に至るまで。果ては城主の妻までもが売り払われた。見せしめの意味もあるが、武田は信濃の民にとって
『そうだ。脅すばかりでは能がない。
病の原因は目に見えぬ小虫であるぞ。小虫が田の水の中にいるのだ。田の水に手足が浸かると腹膨れ病になる。発症すれば完治は不可能だ。
死ぬことになるゆえ、田や水路や池に入ってはならぬ。小虫は米粒ほどの貝を利用して生きている。ゆえに貝を根切りにせよ。田や水路や池に、膨大な数の貝が生息しているはずだ。
貝を掬うだけでなく水路に石灰を撒け。地道だが数十年程度で貝を根切りにできるはずだ。貝がいなくなれば、腹膨れ病には
百年後の甲斐の民のためになるはずだ。然るべき人と金をかけて貝を根切りにすべし』
腹膨れ病の噂は聞いたことがあるが……滝川左近がなぜここまで分かって、わしに伝えるのだ。百年先だと?
源五郎の知謀の件といい、まったく恐ろしき男よ。
わしは時と場所を得れば、と言う気持ちが十二分にあった。だが、滝川左近を相手取るのは無理だな。最初から勝負になる気がしない。
『おれの言うことを聞いて、うまく上田で命を拾ったならば、源五郎を連れて安土や那古野に来るとよい。おれと右大将様の子である奇妙と同じ歳であるゆえ、源五郎と良き友になれるかもしれぬ。おまえも数万の軍勢を率いる織田の力を見れば、必ずや天下のためになるぞ』
ふううっ。ついため息が出てしまった。
信長と滝川左近の子だと?
話が違うではないか。信長は妹の子を養子とした、と伝わってきている。武田の
それこそ信長と滝川左近の子など、まともに成長したらいかなる力を持つのか計り知れぬ。手がつけられぬわ。
――近頃、
透波の頭が言っていたな。
下らぬ。条件の良い織田に引き抜かれたか、自ら織田に行ったかに決まっている。
それにしても数万の軍勢か。さぞ壮観であろうな。わしはようやく三百の兵を任されるようになったばかり。
天下か……そうだな。山のない平たい景色を、たまには見るのも良いかもしれない。
まずは上田で合戦が起こるのか。そして我が武田が左近の言葉どおり負けるのか。はたまた彼の地に、膨大な数の小貝が棲んでいるのか。よくよく見極めてみようぞ。
いずれにしろ身の回りにはくれぐれも注意せねばな。
再びふぅううっ、と大きくため息が出てしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます