第七〇.五話 一人と一匹の反乱軍【太田資正】

 ◆天文十六年(一五四七年) 八月下旬 上野国こうずけのくに 太田資正すけまさ


 話は二年前にさかのぼる。

 当時、亡き妻の実家の難波田なんばだ憲重のりしげ殿の松山城(埼玉県吉見町)で無聊ぶりょうかこっていた。わたしはかつて、武蔵岩付いわつき(さいたま市岩槻区)城主だった太田資頼すけよりの次男である。

 だが、父から十年ほど前に家督を継いだ兄の資顕すけあきとは、非常に折り合いが悪かった。嘘つきで調子がいい。そんな兄が牛耳る岩付城に居たくなかったので、妻の実家の松山城に転がり込んだ。

 ところが、妻も不甲斐ないわたしに愛想が尽きたか知らぬが、病を得るや亡くなってしまった。


「婿殿、人生うまくいかないときもあるさ。気分なおしにどれか可愛がってみろ。ちと生まれ過ぎてしまったのでな」

 優しく声を掛けてくれたのは義父憲重のりしげ殿である。

 妻が亡くなっていて縁も切れているのに、我が子の如く気を掛けてくれる義父殿が好きだった。何かと兄に比べられて、できの悪い弟だ、とさげすまれていたわたしを、認めてくれたのは義父殿だけだった。

『婿殿は、曽祖父そうそふ道灌どうかん殿に負けぬほどの名将になるぞ』


 我が曽祖父の太田道灌は、鎌倉五山や足利学校で学び足軽戦法を編み出した。扇谷おうぎがやつ上杉家の家老として辣腕をふるい、江戸城を築城したり三十数度の合戦をほぼ負けなし。主家の勢力を大きくすることに多大な功があった、世に聞こえた名将である。


「婿殿の気晴らしになるだろうよ。なかなかいやつどもだ」

 はにかんだ義父殿の視線の先には、一月ほど前に生まれた子犬たちがいる。

 選んだのは、一匹だけ毛色が黒い子犬である。岩付を一人追い出されるように、逃げ出した自分の境遇に似ていると思って、兄弟と様相が異なる黒い犬を選んだのだ。


 源太と名づけ、妻を亡くしたばかりで寂しくもあったため、どこへ行くにも連れて行くほど可愛がった。源太は賢い犬で、所用で渋々ながら岩付に行った帰り道のどこで放しても、いつの間にやら松山の城に戻っている。城の入口で、源太はちぎれんばかりに尻尾を振って出迎えてくれた。


「ははは、源太。お前はすごいな」

「わんっ!」

 きっと犬は人智の及ばない能力ちからを持っているのだろう。その不思議な能力を戦に使えまいか。


 当時、同じ武蔵の河越かわごえ城(埼玉県川越市)で、主君の扇谷おうぎがやつ上杉家を含む古河公方こがくぼう殿を盟主とする連合軍と、相模小田原(神奈川県小田原市)の北条ほうじょう氏康うじやすが合戦を行なう気運が高まっていた。わが連合軍が北条一族の猛将、北条綱成つなしげこもる河越城の奪回を試みたのだ。


 もちろん北条氏康は、河越城の後詰ごづめ(救援)のために軍勢を率いてくる。

 わたしの兄資顕すけあきは、旧恩を忘れたかのように、一貫して勢いのある北条に寝返るように主張する。もちろん、わたしも父上と共に猛反対する。

 北条では名分が立たぬ。いずれ我らも飲み込まれると――。


 だが、家督を継いで十年以上経っている兄の発言力は、太田家中では非常に大きい。悲しいかな。親しい重臣らも全て北条派に鞍替えする。

 さすがに家を割るわけもいかず、太田家は北条に寝返ることになった。そして尊敬する父上は、北条への寝返りを恥ずべき行為として、自害してしまった。

 こうしてわたしは、当然のように義父殿と同じく、主君の扇谷上杉家に同心することにして、北条に奪われた河越城を攻める合戦に加わったのだ。


 河越城の合戦では、兄上が寝返ったせいではあるまいが、扇谷上杉家を含む連合軍は寡兵の北条氏康にもろくも大敗する。あろうことか、わたしを可愛がってくれた義父難波田憲重なんばだのりしげ殿までもが『婿殿、わしには子がおらぬ。血は繋がっておらぬが婿殿こそわしの子である。松山を頼むぞ』と言い残し、討ち死にしてしまった。


 河越城の防衛に成功した北条氏康の勢いは凄まじく、実家の岩付城はもはや北条の支城と化した。

 さらには、わたしが身を寄せている松山城にも北条の大軍勢が迫りくる。城主不在の城は脆弱である。

『われらの総意です。婿殿の気持ちは分かりますし、われらも本意ではありません。しかし強大な北条の軍勢にはあらがえませぬ。城を開きましょう』

 義父殿の配下だった城将らが異口同音に主張する。


 いくら義父の願いであろうとも、この有様では戦はできない。だが、わたしは北条の配下などやっていられるか。夜闇に紛れて逃亡した。

 松山城を出ると北に向かった。南は北条の勢力範囲だからだ。

 北条はわたしから何もかも奪うのだな。父上も、義父殿も、実家の岩付城も、義父殿の松山城も――。

 

 一つだけ奪われずに残っていた。とぼとぼと北へ向かうわたしの横には、いつの間にか黒犬の源太がいた。少しだけ勇気が出てくる。

 今に見ていろ。いずれ北条から取り戻してやろうじゃないか。臥薪嘗胆がしんしょうたんだ。

 曽祖父道灌の伝手を利用して、上野こうずけ(群馬県)の由良ゆら殿を頼った。


 史記によれば、かのえつ勾践こうせんきもめること二十余年耐え忍んだとのことだが、わたしの雪辱の機会は意外と早く訪れた。

 二年前に武蔵を席巻した北条氏康が、いま安房(千葉県南部)の里見義堯よしたかを攻めようとしている。当然本拠地の小田原から、上総かずさ(千葉県中部)方面に氏康の軍勢は向かうであろう。

 氏康が武蔵に後詰するには、渡河もあるので時間もかかるはずだ。


 ――松山城を取り戻すこの上ない好機。

 やってやろうじゃないか。義父の言う通り、名将太田道灌の素質を受け継いでいるのならば。

 今はたとえ一人でもやれるはず。一人きりの反乱軍だ。


「わんっ! わんっ! わんっ!」

 源太がわたしの顔を見ながら、盛んに尻尾を振っている。

「源太、どうした?」

「わんっ!」


 なんとなく源太の言わんとしていることが分かった。

「そうか。おまえはついてきてくれるのだな」

「わんっ!」


 一人きりではなかった。訂正する。一人と一匹の反乱軍だ。

「源太! まずは義父殿の松山の城を落すぞ!」

「わんっ! わんっ!」

 実に頼もしい。

 ――さあ、出陣だ。征くぞ!

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