第六九.五話 虎と安土城【織田信秀】
◆天文十六年(一五四七年) 八月中旬 尾張国 清洲城 織田信秀
長年の腹心である平手
「殿! お久しゅうございます」
「
「吉姫様は、京へ近江へと忙しく出陣していらっしゃいました。そのため、北近江攻めの準備が整うまで、しばし那古野にいらっしゃるとのことです」
「なぜ、吉はワシに近江攻めの際に、出陣してくれと言わなんだか?」
「父上は若い頃から働きすぎゆえ、ぽっくり逝かれても困る、と仰せでした」
近頃の吉といえば、ワシを年寄り扱いして些か癪であるな。
「ワシは三十八ゆえ、戦でもまだまだ働けるぞ?」
「相変わらず、父思いの優しい吉姫様ではないですか」
「しかも、吉は
中務を呼んだ理由のひとつだ。吉は養子の奇妙丸を嫡子に定めたので、ワシに家督を譲るように要望してきている。
「吉姫様の嫡は、あの祥姫様の奇妙様で?」
「うむ。吉の幼きころによく似ている。吉の実子かと見違えたぞ」
「ええ。吉姫様に目元などが特によく似てますな」
「
「どうやら、そのようですな」
やはり父親は左近か。本当にそれで吉は納得しているのだろうか。
ワシには理解できぬがな。
「吉と左近との仲はいかがなのだ?」
「左近が三河より戻って以降も、相変わらず仲睦まじき様子です」
「それでよく子ができぬものよ」
「示し合わせて、子ができぬようにしているのではないかと」
「ワシなら歯止めが効かないぞ」
「プ……大殿なら、歯止めが効かないでしょうな」
「中務、
「滅相もございません」
「まあ、子ができるかはともかく……吉はとんでもないことを言ってきおったぞ」
「はて。吉姫様がなんと仰せに?」
「ワシに隠居して岐阜で
中務を呼んだ本題が、このワシの隠居に関してだ。
「答えは
「蝮と世間話では間が持たぬし、岐阜は山登りが難儀だ。選ぶ余地がないではないか」
「大殿はご不満ですか?」
「いや、不満というわけではないのだが」
「では、良いではないですか」
「なにやら選ぶ余地をなくしたうえで、問うてくるところなど
「戦わずして勝つ。いつもの吉姫様でしょう」
「うむ……。やはり吉の成長を喜ぶべきであろうかな」
ワシがおらずとも吉は、戦も政も大過なく行えてるのは間違いはない。しかし四十にもならぬうちに隠居とは、どうにも納得がいかない。
「して、吉姫様はどこに城を建てると仰せに?」
「なにやら、
「尾張からは離れますが楽しみですな」
中務は、すでに吉に懐柔されているのかもしれんが、ワシの隠居には全く異議を唱えないのも癪だ。
「こたつと湯殿も造ってくれるそうだ」
「ようやくこたつの許しが出ましたな」
「まだ暑い時分ゆえ不要であるが、暮れにはようやくぽかぽかできるかな」
「心優しい吉姫様でありますな」
「吉は左近の影響か知らぬが、抜け道のないような手を打ってくるのが、実に腹立たしい。ゆえに、督は譲るが隠居はせぬようしたいのだ。まだまだ、戦場での駆け引きは引けを取らぬぞ」
「良きお考えかと。京に近い近江に大殿が構えていれば、吉姫様も安んじることでしょう」
「おお、中務も左様に思うか? ならばやはり隠居はやめよう。ところで城普請はいかがなのだ?」
「丹羽五郎左(長秀)に城普請を任せるとのこと。二、三年は掛かるそうです」
「なんと! 普請に二、三年にかかるとは、どれだけ広き城なのであろうか」
「なにやら、天主なる巨大な矢倉を建てるそうです。十七間(三〇.六メートル)余りの高さであるそうです」
十七間もの矢倉など見たことも聞いたこともない。
「なんと! さぞ眺めもよいであろうな」
「ええ。心躍りますな」
「しかし、五郎左はうなぎ料理だけでなく、城の普請もできるのであるな」
「まこと器用な男でありますな。最近は織田焼きなる菓子をも作りあげたそうで。吉姫様の好物だそうです」
「ワシに織田焼きは献上されていないのだが」
「大殿が甘き菓子を食べ過ぎると、めたぼになり早死にするゆえ食べさせてはならぬ、と吉姫様は仰せでした」
「話が見えぬが……また吉はワシの楽しみを奪っておるのであろう?」
「大殿の身体を労る優しい吉姫様ではないですか」
「優しくは聞こえぬぞ」
「吉姫様は幼きころより父上を早く助けたい、と仰せでしたよ」
「しかし、最近はワシの楽しみを禁じることが多くてな。側室の数を減らせなどとも言うてるぞ」
「ああ、それは……やむを得ぬ仕儀かと」
「中務までワシの楽しみを禁じるのか」
「わしは吉姫様の忠臣でございますれば」
「くっ」
「ともあれ、吉姫様は二、三年経たずとも、暮れまでには御殿の一部が完成するゆえ近江に移られたし、と仰せでした」
「しかし、奇妙は幼きころの吉が、男子になったように思えるな」
「大殿の『吉が男であればよかった』という口癖を叶えたのでしょう。心優しき姫様でありませんか」
「だが側室は許してくれぬぞ」
「側室の数はやむを得ぬ仕儀かと」
「面白うない! 下がってよい」
お気に入りの側室以外の数を減らすのは致し方ないか。かくなるうえは、厳選せねばな。だが、吉は湯殿とこたつも造ってくれるとのことだから、安土の城が楽しみであるぞ。
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