第九話 滝川左近の過去
◆天文十四年(一五四五年)七月上旬 近江国 今浜(滋賀県長浜市)
お奈津から聞く滝川
「左近が撃つと、まーいかい的の真ん中だったんや」
お奈津によれば、一益は近江国
一益にとって、お奈津は幼馴染で従妹にもあたる。同じく従弟で奈津の兄の新助とも、一益は幼馴染で仲がよかったという。
「ウチが近くにおるのに、おゆき、おゆき言うてな。ウチのこと、ちーっとも見てくれへんかったなあ」
お奈津が言い寄るにも関わらず、一益は彼女の親友で歳も同じ
たしかに横に座って過去語りをしているお奈津は、後輩の奈津と瓜二つの美形ではある。だが、どうしても妹のように思えて、恋愛対象として実感できないため、とても納得してしまった。
ただ一益出身の滝川家は、有力な
ともあれ六角家当主の定頼から、当時対抗していた北近江の戦国大名
そこで、寄合により甲賀一の鉄砲の名手の一益が、暗殺を担当することになったという。
そして、首尾よく暗殺に成功したとのこと。史実では、病死した浅井亮政だが、この世界ではおれ、滝川一益が暗殺したことになる。
当然、甲賀衆としても一益としても、大仕事を達成したわけ。ご褒美といってはなんだが、一益は多羅尾ゆきとの結婚が許された。
ところが、
もちろん甲賀衆の有力者で、一益の義兄になる予定の
だが、暗殺を担当した一益が『後からごたごた言うのだったら、褒美など要らぬわ』と主張する。
そのため、六角氏と甲賀衆にはしこりは残ったものの、とりあえずは事態は収拾したという。
当時一益と奈津の親戚にあたる
一益が多羅尾ゆきと結婚すると知り、男が無理にゆきに言い寄っていた。だが、まったくゆきに相手にされずに、強引に事を運んだとの事である。
『おれはゆきのことを好いているから、安心して養生いたせ』
一益も傷心のゆきを慰めたのだが、ゆきは苦にして自害してしまったそうだ。
なんとも酷い話だけれど、戦国の荒っぽい時代だから、そういうことがあっても不思議ではない。
一益の義兄になるはずだった多羅尾光俊も、さすがに激怒して六角義賢の居城に怒鳴り込んだ。もちろん、高安某の引渡しのため。
ところが、一益は『甲賀の名家の四郎衛門殿が、六角と事を構えてはいけない。甲賀衆と六角氏との関係が完全に悪くなる。おれがゆきの仇を討つので穏便に済ませ』と主張して、
「そのような事があったのだな……」
「左近はそれ以来、帰ってきいへんかったけど、高安の阿呆もおらなくなったから、左近がゆきの仇を討ってくれたんやね」
全く記憶がないけれど、一益は浅井亮政の暗殺といい、婚約者の自殺といい、婚約者の仇討ちといい、大学生だったおれが、考えもつかないような壮絶な人生を送っていたのだ。
史実の滝川一益は、織田家に仕官する以前は、何をしていたのか不明な男である。お奈津が話してくれたような過去があったとしてもおかしくない。
信長に仕えた一益は猛スピードの出世をして、織田四天王とも呼ばれる重臣中の重臣となる。そして、嫡男信忠の武田攻めの後見を任されるほど、信長からの厚い信頼も得る。
ところが、本能寺の変で信長が横死するを機に、転がり落ちるように一益は、不遇の一途を辿ってしまうのだ。
一益は信長の死後、後の天下人の羽柴秀吉(豊臣秀吉)に明確に敵対姿勢をとり兵を挙げる。
そして、盟友の柴田勝家が滅ぼされた後も、数か月も孤軍で篭城し、織田家を
結局秀吉に降伏した後の一益は、
本能寺の変の直前に、一益は
おれは、一益が故郷を捨てた自分を引き立て厚く信頼してくれた信長に、感謝とある種の愛情を感じていたと思うんだ。名物茶器の逸話は、一益が遠く離れた関東ではなく信長の近くで、一緒に天下を見たかっただけのように思えてならない。
そして、信長と共に天下を取れないのだったら、もう何も要らない、といったある種の諦めの境地で、一益は秀吉に降伏したのではないか。
そう考えると意図的ではないけれど、おれは一益の身体を、乗っ取ってしまったので、お詫びといってはなんだが、一益さんの見たかった信長の天下を見せてやりたくなった。
おれ自身の出世や身の安全のためにもなるだろうし。
ただ、この世界の信長は、のじゃ姫だから、『左近! 大儀であるのじゃ!』という有様だ。一益さんの見たかった信長の天下ではないかもしれないけれど、それは是非もなしだ。諦めてくれ。
信長ちゃんの口調を思い出してプッと吹き出してしまった。
それに、おれは信長ちゃんのことが好きになりつつもある。もちろん、十二歳だし上司なので、今すぐにあれこれしようとは考えてはいないけれど。
「左近、なに
「あ、いや、何でもないぞ」
「相変わらずいけずやなあー。左近がいけずやから、家に帰って左近によう似てる三つの可愛い息子の世話しよーっと」
ちょっと待った! おれ一益の子どもということか?
「え? おれに似てるって? おれと
「初めての男ではないと言うただけや」
奈津はにこりと笑って舌を出す。
「ちょ、ま、
「教えへーん、まったねー」
奈津は早歩きで行ってしまって、おれが父親かどうかは結局分からない。
だが、冗談めかしていたので、確信はもてないが、おれとの子どもの確率は低いだろう。少し安堵の息が漏れる。
それにしても、この時代は子どもを生む年齢が実に早い。十八歳で三歳の息子とはな。
もしおれがこの世界に来なければ、後輩の奈津と深い仲になっていたのだろうか。既に戦国時代に来て、半月以上経っている。もはや、本能寺の夢と同じ類の悪夢とも思えない。現代に戻る手段が見つかる可能性は低いだろう。
後輩の奈津の屈託ない笑顔を思い出して、胸がチクリと痛んだ。
『是非もなしなのじゃ』
信長ちゃんの口調が脳裏をよぎった。那古野でしっかり頑張っているだろうか。
そうだな。考えても仕方がないことはどうしようもない。おれがここでやれることをやるだけだ。
美少女姫の顔を思い出して、尾張へ向けて足を早めた。
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