第八話 女忍びのお奈津

 ◆天文十四年(一五四五年)七月上旬 近江国おうみのくに 国友くにとも(滋賀県長浜市)


善兵衛ぜんべえ殿、もう一つ頼みたい。筋のよい銃で試し撃ちさせてくれないか」

「なんでえ、そんなことかい。ちょっと待ってろや」

 史実で一益さんが火縄銃の腕を買われて、信長に仕えたことを思い出して、鉄砲の試射をさせてもらうことにする。


 試し撃ちの場所で、善兵衛から銃一式を受け取ったところ、自然に手が動いた。

 想像通り身体で覚える系の技術は大丈夫みたい。

 玉薬たまぐすりと弾丸を押し込み、㮶杖カルカでしっかりと押し込め……火蓋を切り火皿に口薬くちぐすりを載せる。火蓋を閉じ……火縄に点火して、火ばさみにセットする。――呼吸を整えながら、銃口を半町(五五メートル)ほど先の的に向ける。静かに引き金を引く。


 ズバアアン!

 轟音。白煙が立ち込め、硝煙の香りが鼻腔を刺激する。

 よし! 命中だ。

 心の奥底から込み上げてくる高揚感。


「まったく、惚れ惚れする腕前だねえ」

 善兵衛がしきりと頷いている。

 おれの過去の身体は、やっぱり鉄砲の名手なのだろうか。気になることは気になる……。

『是非もなしなのじゃ』

 ふと信長ちゃんの顔がよぎる。

 そうだな。おれが鉄砲の名手なら、戦国時代で生き抜くためには悪いことではないはずだ。


  ◆天文十四年(一五四五年)七月上旬 近江国おうみのくに 今浜いまはま(滋賀県長浜市)


 森三左可成よしなりの勧誘と、火縄銃の製造に目途をつけた後、国友にほど近い今浜の茶屋で一服することにした。

 幸いにも天候に恵まれたので、現代日本で馴染み深かった琵琶湖を見渡したくなったのだ。

 ふうーっ、と大きく息を吐きながら背筋を伸ばす。


 ここまでは、まず順調といっていい。今後どのように情勢が動くのだろう。やはり、西三河みかわ(愛知県東部)がきな臭いだろうか。

 松平まつだいら広忠ひろただ(徳川家康の父)領との境にある安祥あんじょう城は、信長ちゃんの庶兄しょけい三郎五郎さぶろうごろう信広のぶひろが守備している。


 史実でも現実でも、三河に勢力を伸ばそうとする信パパに対して、松平広忠は強硬路線を貫いていて、小競り合いが起きている。広忠は信パパの勢いに対抗するために、駿河するが(静岡県東部)の今川義元マロ寄りの姿勢だ。


 現在のところマロは、関東方面に手一杯。だが、今川=松平が強力に連携するとなったら、織田家にとってかなりの脅威だ。

 三河の松平広忠に対して、効果的な手を打つためにも、早く信長ちゃんの軍事力を高めていきたい。


「さーこーんー!」

 出された茶をすすりながら、考えにふけっていたら、女性の呼ぶ声がした。

「ん?」

 ニコニコしながら若い女性が近づいてくる。美形といっていい。どこかで見た覚えがするが……。

「ウチが、さっきから呼んどるのに。はああー、全く左近はつれないなあ」

 彼女はおれの脇にストンと腰掛けた。


 着物を着ているので、まったく分からなかったが、話し掛けられた声で気づいた。おれにとても懐いていて、彼女になりそうだった後輩の奈津なつに間違いないだろう。

 まさか奈津も戦国世界に来ていたのか?

 現代日本で、奈津には煮え切らない態度をしてしまって、申し訳ないと思っていた。ぜひとも謝りたい。


「も、もしかして……奈津殿か?」

「ウチが初めてちぎったオトコなのに、『奈津殿』なんて呼ぶんか? まったくうー!」

 契ったっていうと、いたしたということだ。

「契った!?」

 後輩の奈津とはかなり親密だったものの、致した覚えはなく絶賛混乱中。それに奈津だったら『カズマさん』と呼ぶのに、『左近』と呼んでいるな。あれれ?


「初めて契ったってのは、冗談やけどな。三年振りだから、ウチが色っぽくなって、わからんかったんかねえ。ふふふ」

 この親しい感じは、やっぱり後輩の奈津なのか?

「んー」

四郎右衛門しろうえもん殿には会ったん? 随分心配しとったからねえ。まあ、織田の侍をやっとるとは聞いとったけどなあ」

 四郎右衛門という知り合いはいない。とすると、後輩の奈津ではないな。するとこの娘は?


「四郎右衛門殿……ですか?」

「へ? おゆきの兄者あにじゃに決まってるやない」

 知らない人物名が、更に出てくるので、ますます混乱してしまう。

「おゆき……殿ですか? んー」

「何言うてるん? アンタ、滝川左近一益だよねえ? 左近だよねえ?」

 彼女はすがるような目つきでにらむ。


 なるほど、分かった。

 現代日本から戦国時代に来る前に、この身体が彼女と知り合いだったんだな。

 池田恒興つねおき咄嗟とっさに名付けた『滝川一益』という名前。偶然の一致か風の噂で聞いていたのかは知らないけれど、身体の持ち主の名も『滝川一益』だったというわけ。辻褄合うな。


「いかにも、滝川左近です。ただ……おれは先日事故に遭ったので、申し訳ないが昔の出来事は思い出せないのだ」

 この身体の過去、滝川一益の過去を知ることは、きっとこれからの行動に役立つだろう。事故といえば事故だし、咄嗟とっさに取りつくろう。


「そうなんや……。怪我は大丈夫なん?」

「ええ、怪我は問題ありません。けれど、過去の出来事をはっきりとは思い出せないのです。奈津殿にも申し訳ないのですが」

 奈津は顔をそむけ、琵琶湖の方を見ながら呟く。

「ウチの知ってる左近ではなくなったんやね……ただ……思い出せない方がええこともあるんかも……」

「奈津殿、誠に申し訳ない……」

 涙を流し始めた奈津に、かける言葉が見つからない。


「…………」

「…………」

 沈黙が辺りを支配する。

 だが一拍置いて奈津が、懐から懐紙かいしを取り出し、涙をぬぐうや、くるりとおれの方に振り向いた。

 かなり無理をしているが、心を和ませる素敵な笑顔だ。


「ウチは奈津殿でなく、お、な、つ、やで! それになあ、ウチの名前覚えとってくれたんやろう? 昔のこと思い出せんっていうたけど、思い出せてるやんか。

 アンタは、やっぱりウチの知ってる左近や。そのうち、ぜーんぶ思い出すかもしれんね。

 しかもなあ、ウチはいま兄者の指示で忍びやっとるし、左近の役立つコトもあるかもしれんよお?」


 気まずい空気を一掃するように、お奈津は早口でまくし立てる。

 なんてこった。後輩の奈津と同様に、すごく性格がいい娘じゃないか。

「お奈津、かたじけない!」

 精一杯の笑顔で返す。

「せや! その表情は変わらんなあ」

「お奈津、おれの過去を教えてくれないか?」


「もちろん、かまへんよ。どっから話せばええか、わからんけどなあ……」

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