第一話 悪夢再び
「――いきなり大声出したりしてえ……。カズマさん、どうしたん?」
不意に声をかけられて我に返った。背中にまでぐっしょりと汗をかいていて、息があがっている。
「ゆ、夢……なのか? 何だったんだ?」
周囲を見渡せば薄暗い貯蔵庫ではなく、明るい新幹線の車内。
記憶を辿る。
そうだ。おれは声をかけてきた女性――後輩の
「夢って……どんな夢見てたん?」
不安げな眼差しの奈津。彼女は大学の二つ下の後輩だ。関西――確か滋賀県出身で、丸顔の笑顔が可愛らしい。
今年入学してきた奈津は、おれが所属する歴史研究サークルの新入部員。いわゆる歴女である。奈津はどうしたことだか、やけにおれを気に入って懐いている。
気立てもよくルックスも人並み以上の奈津に、好意を寄せる男子部員は多い。
「あ、いや……大した夢じゃないよ」
とっさに誤魔化す。
「そうなん? ならええけど……。カズマさん、えらくうなされとったからなあ」
「そんなにうなされてた? うーん。あんまり思い出せないけど」
そう奈津には答えたものの、はっきりと思い出せる。奇妙な本能寺の変の夢。
おかしな夢をみた原因といえば、さきほど二人で京都の本能寺(京都市中京区)に行ったことだろうか。
奈津に思いを寄せられるのは、決して不快なものではなく、むしろかなりの心地良さを感じている。彼女とはメッセージアプリでのやり取りも頻繁にしていて、現在一番親しい女性といっていい。
『京都へ行くん? ウチも連れてってくれへん?』
『行く場所は、おれの好みかもしれないけど別に構わないよ』
だから夏休みに入って、奈津に京都に行くと伝えた際に、彼女の同行を二つ返事で承知している。京都の街を歩いた際も仲良くデートをしている風体だし、サークルの面々には、奈津との仲を
理由はうまく説明できないけれど、どうにも妹のような感覚が強くて、奈津と男女の深い仲になるイメージがどうしても湧かないんだ。彼女の好意を強く感じているだけに、申し訳ないところだけど。
男女の深い仲といえば、夢に出てきた少女は一体誰なんだろう。
「カズマさん、具合悪いん?」
ふと奈津に声をかけられた。
「あ、いや。今日の暑さで少しやられたかもね」
「そうなん? 本能寺に行ってからのカズマさん、普段とちゃうよ?」
自分では気づかなかったがおかしな夢といい、今日行った本能寺が原因なのか? 本能寺を訪れたのは、論文のテーマを最も興味のある戦国武将の織田信長にしたので、あやかる意味から信長終焉の地を詣でよう、と思ったため。
本能寺は変の後に移転しており、当時と場所は若干異なるけれど、不思議な力が働いて奇妙な夢を見たのだろうか。
「そうかい? あんまり変わらないと思うけどな。さあ、そろそろ名古屋だ。降りる準備をしよう」
「はーい」
京都から名古屋までは新幹線を使うと驚くほど早い。停車駅の少ないタイプを使えば、四〇分足らず。名古屋駅で降りたらアパートの最寄り駅までは地下鉄を利用する。名古屋駅から数駅のS駅付近で、奈津と夕食を食べている間も新幹線で見た本能寺の夢が気になっていた。
史実の本能寺の変は西暦
本能寺の変の際に、光秀は一万数千の軍勢で攻め寄せた。対して信長を守ったのは、一〇〇名にも満たず武装も貧弱な
信長の享年は数え年で四九歳。今のおれよりも、三〇歳近く年上だ。
――おれが信長だったなら。
途方もない妄想をしてしまう。いくら信頼がおける部下とはいえ、無警戒というわけにはいかない。身の安全を守るために、絶対忠誠を誓う親衛隊を組織すればいいだろう。完全武装の兵が一〇〇〇名ほどいたならば、血路を開いて本能寺から脱出できたかもしれない。
信長が生きてさえいれば、現代まで続く歴史とは大きくかけ離れた流れとなるのは間違いないだろう。商業を重視した信長の政策と、長きに渡って政権を担った江戸幕府の農業重視政策とは明らかに異なる。
それにしても夢の美少女は一体誰なんだろう。信長正妻の
夢の都合の良さで、『主人公のおれ』に合わせた年回りだったのだろうか。それにしても、気の強そうな凛とした瞳の少女が気になってしまう。いくら記憶を辿ろうと、少女と似た女性を思い浮かべることはできない。ひょっとすると、これから出会う女性の暗示なのだろうか?
本能寺の変のような最期はご勘弁だけれど、夢の少女とはかなり親密な間柄だったので、
「カズマさん! ✕✕に✕✕✕てかない?」
不意に奈津が問いかけた。
しまった。本能寺の夢に気を取られて、完璧に奈津の言葉を聞き逃していたぞ。
いまはイタリアンレストランで軽くパスタを食べた後、奈津の住むマンションのエントランスまで送ってきたところ。
「あ。ごめん……なんだって?」
仕方なく奈津に問い返す。
「ウチのそばにいてるのに、他のオンナの事考えとったやんか!」
まいった。女性の勘は鋭いというが、全くの図星じゃないか。困ったな。
「本能寺も行ったし、信長様の事を考えていたんだ」
「ほんまに、しゃあないなあ! 信長様信長様って、先輩がたが言うてたとおりや」
「は? あいつらが何を言ってたって?」
「カズマさんは信長が女やったら確実に惚れてる、って言うてたなあ」
「そんなバカな……。織田信長は四五〇年近く前の男だぞ」
奈津に言い返したものの、好意を示してくれている彼女に対するおれは、優柔不断そのもの。ズバっと拒絶して、嫌われたくない気持ちも充分ある。正直言ってかなりズルい。はっきりと物事を言わない悪い点は承知している。
「今日はもうええわ。ほなね!」
奈津が頬を大きく膨らませている。彼女は部屋でしばらく話そう、とでも言ったのだろうか。
「今日は暑さで少し調子が悪いみたいだ。ごめん……」
咄嗟に取り繕う。
「こないにウチがそばにおるのに……。カズマさんなんか、信長様と一緒になるがええわっ!」
奈津は怒気を含んだ口調で、ドンと肩を突き飛ばしてきた。
「うおっ!」
虚を突かれてバランスを崩してしまう。マンションのエントランスは、道路から数段の段差上にある。まずい!
「キャーッ!!」
受け身をうまく取らなくては――。
◇◇◇
強い衝撃を予期していたが、痛みは感じなかった。気づけば地べたに仰向けになっているようだ。
頭がクラクラとした感覚があったが、恐る恐る目を開けると、強烈な違和感があった。
夕刻だったはずが、まだ日中の青空。舗装されていたアスファルト道路は、土を踏み固めたような地面。セミがせわしく鳴いている。
待て。他にもいろいろおかしい。
奈津が住んでいたマンションの影すらなく、周囲は稲穂が風に揺れる田園風景。遠くに板葺きの家屋が数軒見てとれた。
またおかしな夢を見ているのだろうか。
いい加減にしてくれよ。起き上がって頭を抱え込もうとしたら、腰が重い。二本の刀を腰に差していて、薄茶色っぽい色の着物を着ているのに気づいた。
一体何なんだよ。悪い夢なら早く覚めてくれ。
頭のどこかを打ったのだろうか。善後策を立てようとするが、周囲の状況の激しい変化もあって、良い考えが全く浮かばない。
「困ったなあ……」
誰に言うともなく呟くと、背後から鋭い声が聞こえてくる。
「うわわわぁあーっ! どくのじゃあっ!!」
驚いて振り向くと、間近まで馬が一頭走り迫ってきている。まずい! 蹴られる!
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