ムラサキエンシュウリツ その5

「よう久しぶり」

「よう」


 家庭科の調理実習で自由にグループを組めたので、なんだか久しぶりに塔哉、光汰と一緒になった。


「て、久しぶりっておかしいだろ。毎日会ってるっつーの」

 光汰が即座に前言撤回して笑う。確かに席も近いし、毎朝顔は合わせてはいる。だが今みたいに教師の目が光っている授業中でも無ければ、気軽に言葉を交わせないというのもまた事実だ。


「分量多目で作るか? どうせ誰も弁当は持ってないだろう」

 塔哉の提案に頷く。調理実習では弁当持参の生徒でも支障をきたさない程度の量を作るのが定番だが、最近はクラス中がパンを買っているのでリミットを掛ける必要も無い。作るのがほうれん草のお浸しなので、流石にそればかりで腹を満たしはしないが。


「そういえばさ、俺達が円周率の暗記数トップになったらどうなるんだろう」

 俺の切り出した話題に二人は少し周りを伺うように見る。


 俺達は神の加護によってあらゆる害から守られている。なので、もしもそんな俺達が暗記数トップになったとすれば、その時はクラスメートの誰も死ななくて済むのではないかと考えていたのだ。


「まあ誰も死なないかもしれねーが、どうだろうな実際。単にもう一つ下のやつが繰り上がり当選するだけかもしれねーぞ」

 確かにその可能性も否定できない。


 ただ、それってださくないか? トップのやつに手を出せないからって仕方なくその下のやつを標的にするなんて怪談はめちゃくちゃださいと思う。「誰も殺さないよりは……」と魔が差してしまったが最後、もうその時点で怪異としての神秘性は残らず粉々に砕け散ってしまう事だろう。


「てかクラスメートの誰か一人が死ぬとして、それを助ける価値なんてあるか? それで泣いて感謝して立派な人間になるような事もどうせねーんだろ? 中高生なんてもう根本的に倫理観の欠如した獣でしかないと思うね」


 光汰のヘイトスピーチは聞き流すにしても、大したメリットが無いというのはその通りだ。俺も10桁くらいまでなら覚えてやろうかとも思っていたが、実際やろうとすると眠くて仕方がない。まして今の感触でいくとトップ円周率ァーになるためには10桁程度では済まなそうだ。


 俺も鬼ではないし、救える命があるならそのために円周率を覚えてもいい。だがそれも7、8桁程度の話であり、それ以上になるとどうしても頭が働かなくなる。人の命を救うという事は常に面倒くささとのトレードオフなのだ。



◇◇◇◇



 結局、多少分量の多いほうれん草を食べたくらいでは食べ盛りの男子学生には足りないらしい。小腹が空いたのを誤魔化すように昼食時の校内をうろうろしていた俺は、気付けば購買でパンを買っていた。そしてその流れでいつもの憩いの場探しを開始する事となる。


 廊下を歩けばクラスや学年の違う多くの学生とすれ違うが、その中でも同じクラスの生徒は一際異彩を放っており一目で区別できた。傷を負った獣のような面差しでギョロギョロと周囲を見渡しているし、なにより他者に向けて誇示するように体に謎の数字を貼り付けているからだ。


 あれは円周率アーマー。円周率をでかでかと書いた紙を制服にまとわせる事によって、クラスメートを寄り付かなくさせる最も基本的な防具の一つだ。アーマーに書かれているのは実際の円周率だったり、途中からデタラメな数値だったり様々である。


 ポピュラーなのは自分が覚えている限りの円周率を書いた後にそれっぽい適当な数字を並べる製法だ。大半の人間はアーマーが目に入った時点で目を逸らすので、偽の円周率である事はそんなにばれない。ただし別のクラスの人間が「ここ間違ってるよ」と無慈悲に指摘する場合もあるので、その時は泣いて逃げ去るしかない。


 また主な材料が紙である関係上、物理攻撃にはもろいという弱点がある。コピー紙を繋ぎ合わせて作った程度の代物なら、過激派円周率戦士によって速攻で手で引き裂かれてしまう事だろう。制服に直接刺繡して書き込んだ猛者もいたが、すぐに教師に指導されて着られなくなった。


 さて変に思いを馳せていたからか、今日はいつにも増して円周率戦士たちとすれ違う。食事時にまでクラスの戦争に巻き込まれるのは勘弁願いたいので、屋外を目指して昇降口へと向かう事にした。先客が靴を履き終わり出て行ったのを確認した後、俺も下駄箱から無造作に靴を取り出す。靴と一緒に大量の円周率ペーパーがわさっと出てきて地面へと落ちていった。



『産医師異国に向こう~♪ 産医師異国に向こう~♪』



 放送テロが起こって以来、昼食時のスピーカーからは意味不明な歌ばかり流れている。一時間で作ったような合成音声の雑な歌で、同じ文言を違う調子で繰り返し歌い続けるという謎の構成をしている。いくら意味不明でも円周率を流されるよりはマシという事で大半の生徒は飽き飽きしながらも黙認しているし、あれが円周率の語呂合わせだと知っている人間はそれを黙っている。


 平和を求めて外を歩いている訳だが、それでもそこかしこで円周率小競り合いが起こっているのが見て取れる。人もまばらな昼食時の校舎外で何故引き付けられるように戦士同士の衝突が起こってしまうのかというと、その理由の一つが先程触れた円周率アーマーである。


 先程言った通り、円周率アーマーは敵を遠ざける圧倒的な威圧感を放つ。だが同時に遠目でも簡単に1-Cのクラスメートである事がわかってしまうため、かえって遠距離攻撃やトラップの標的になりやすくなる諸刃の剣でもあるのだ。命を守るのに気が急いた生徒はついついアーマーを装備してしまいがちだが、実はその扱いはむずかしく、とりあえずで装備できるほど素人向きの防具とは言えないのである。防御力の低いアーマーを付けるくらいなら、俺のようにノーガードで歩いた方がかえって安全なくらいだ。



「オタクくーん、円周率覚えてきたかな~?」

「俺ら、覚えてくれるまで何日でも来っからさ~!」

 少しでも人のいない場所を求めて校舎裏まで歩いてきた所、聞き覚えのある声が耳に届く。いつかのように運動部グループがヒョロガリの生徒を囲み、円周率の習得を迫っているようだ。


「そうそう、こういうので良いんだよなあ」

 変わらないオタクと不良運動部を確認したのち、俺はパンを食べ始めた。

 最近の円周率戦争の狡猾さはかつてない程に増し、日々飛び交う謀略は人の心を疲れさせている。そんな中で愚直に脅しの直球勝負に走る運動部グループの面々は、どこかほっとするような懐かしさを感じさせてくれる存在であった。


「俺らもそう気の長い方じゃねえからさあ、そろそろ覚えてほしんだよなあ」

「オタク君も痛い目見たくねーよな? ほんと8桁でいいからさあ」

 運動部達も余裕が無いのか、この前よりも少し怖い顔で凄む。実際ここまでこの策一本でやってきたとすれば、そろそろ成果の無さに焦りを覚える頃だろう。


「ああ、今日は覚えてきたさ……」

 ヒョロガリがぽつりと呟いたその言葉に、運動部達の顔は一瞬で明るくなる。もはや自分達が頼るものはこのオタクしかない。それがとうとう自分達に振り向いてくれたとなれば、これまでの蛮行も報われるというものだろう。だが彼らのそのにやけ顔が続いたのもオタクの次の言葉を聞くまでの事だった。


「覚えてきた……の円周率をな……!」

 運動部達が息を飲む。円周率20桁……言うまでも無く圧倒的危険域である。このヒョロガリはその死の淵に立ち、深淵を臨んでいると言うのだ。


「20……! 桁ッ……!?」

「何言ってんだこいつッ……!?」

「何故ッ! 何故20!? 8桁で良いものをッ……!」


 運動部達は明らかに動揺していた。


 8桁くらいなら死にはしないという彼らの言、実際半分くらいは本気で言っていたのだろう。目の前のオタクが死ぬ可能性を極力低く見積もる事により、自らの行いから目を逸らす欺瞞。8桁は死なないだろうと言い訳しながら、その8桁で自身の安全を確保するという矛盾。

 彼らはオタクに20桁も覚えてほしくはなかった。クラスメートへの殺人行為命のカツアゲをただヘラヘラと笑って済ませていたかったのである。



「さあ、僕は覚えた……。それで、君らはどうする」

「はあ? な、何がよ」

 確信めいた態度で問いを返すオタク。それに対して運動部たちは明らかにピンと来ていない様子だ。


か……のか……どちらにするのかと言っているんだよ……!」

 前とは打って変わった鋭い貌で決断を迫るオタクに、運動部達は絶句する。明らかにこちらに対して敵意を向けているオタクの態度に、ピンと来ないままではいられない。


「な、何言ってんだお前!?」

「正気か!? そんな、脅すようなの……通る訳ないだろ! 学校だぞ!」

「てかハッタリだろ! 20桁なんて自殺行為じゃねーか!」


 彼らの吠えたてるその内容はそのほとんどが『そうであったらいいな』の願望に等しい。こうして文句を言っていれば目の前の問題がなんとかなっていればいいと、そう思いながらとりあえず口だけを動かしている状態である。


「ハッタリ……?  自殺行為……? この期に及んで君達は随分と浅い所にいるつもりのようじゃないか……」

 ヒョロガリオタクは運動部達の逃避行動を嘲笑う。


「今のこの樽宮高校で他人に円周率を覚えさせるって事はッ! に身を投じるって事ッ! そんなのは最初から解っていたはずなんじゃあないのかッ!?」

 汗を垂れ流しぐっと押し黙る運動部達。鬼気迫るオタクは次の瞬間にはもう円周率を唱えだしていてもおかしくない。何か言わなければヤバイのに何も言葉が見つからない焦りで、四人はただ池の鯉のように口をパクパクさせている。


「だ、だったら何か言おうとしたら殴ってやる! お前、お前が喧嘩売ったんだから文句言うなよ! 殴られても文句言うなよ!」

 ようやく運動部の一人が言った言葉は、ここに来ての更なる脅しだった。無策に手っ取り早そうな方法に全賭けしてきた彼らが土壇場で他の案を思いつける訳もない。


「殴って口を塞ぐだって!? なるほど良い案だな! だがいつまで殴り続けているつもりだ!?  これから何週間もずっとか!? 先生が来ても警察が来てもずっと僕を殴り続けるのかッ!?」

 振り絞った脅しを歯牙にも掛けないオタクの勢いに、運動部は更に怯まされる。


「口を塞ぎ続けるのが無理なら、喉を潰すか舌を切り取るか!? いっそ僕の事を殺してしまうか!? どれもできないくせに口だけで吠えるんじゃあないッ!!」

「グッ……! ウウッ……!」

 運動部たちの口からこぼれ出るのはもうずっと苦し気な呻き声だけだ。


 円周率20桁という領域崖っぷちにおいて、暴力による解決というのは一切現実的ではない。この場で唯一有効な暴力といえば相手を殺害して無力化する事だけなのだが、だとしてもデメリットが大きすぎるし、その覚悟が無い事も既に看破されている。


「さあ選べ! 服従君たちが持っている全ての財産を僕によこすかッ! それとも今ここで僕に20桁を教えてもらうのかッ! そうやってタイムリミットの六月までずっと馬鹿みたいに唸り声をあげ続けているつもりかッ!?」


「ウウッ……! ウウウッ……!」


 勝敗は決した。覚悟を決めて円周率へと飛び込んだオタクと、いつまでも安全圏にいるつもりでヘラヘラしていた運動部。その違いは明確に表れていた。


 今この学校の力関係は円周率の名の下に再構築されていた。誰でも「円周率を言うぞ」と迫る相手には慎重にならざるを得ないし、それを力づくで防ぐのも難しい。もしもこの状況下で自由に動ける者がいるとすれば、それは自分が一番覚えているという『覚悟』を持った者だけだろう。


 円周率を覚えてるやつが一番死に近いのに、なぜか一番強くなる。奇妙な話だった。パン食べ終わったし、このあと教室まで帰った。








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