ムラサキエンシュウリツ その6

 あれからクラス内に数多くの謀略策略が飛び交った。クラスの円周率暗記指数はじわじわ一桁ずつ更新され、今では俺も10桁どころか15桁の円周率をそらで言える。そろそろ忘れるのが得意なやつが優位に立つ本来のシステムに戻り始めているのではないかとすら思うくらいだ。


「教科係は早くプリント集めろよ、何してんだ!」

「うるせえ、どうせ円周率が書いてあんだろうが! 勝手に教卓に置け!」


 クラスにムラサキエンシュウリツ改がもたらされて今日で29日。明日にせまったXデーに、クラスの緊張感は最高潮に達していた。加速度的に拡大するソーシャルディスタンス。より攻撃力の高まる円周率アーマー。教え子全員に無視される担任。


 思えば、40発弾倉のリボルバーの時はまだ平和だった。あの時は物々しい超常現象に皆が恐怖していたが、大半の人間は怪談の詳細を知らなかったし、知ったとしても抗う術を持たなかっただろう。奇妙な話だが、迫り来る死に対してという事実がかえって物事を平和にしていたのである。


 それを人が生き死にをコントロールできるとなった途端に世にも苛烈な椅子取りゲームがスタートする。いや、自分が椅子を目指すゲームならまだ良かっただろう。このゲームにおいて自身の安全というものは、誰かの椅子をめちゃめちゃに壊す事によって初めて得られるものなのだ。


 唯一他人に干渉しない防御手段が記憶の忘却という不確かなものである以上、いくら努力しようが自分自身を安全圏に動かす事はできない。できるのはただ他人を死地へと追いやる事だけなのである。



 クラスメートが教卓に置いていくプリントに目を向けると、そのほとんどはやはり円周率のスクロールと化している。置く側もそれがわかっているので目を逸らしながら雑に置く。自然、机の上は汚らしくなる。俺達の教室は荒んでいく。


「おーっす、先生だぞー! 今日もホームルーム始めるかー!」

 わざとらしくテンションを上げながら担任教師が入ってくる。教室のムードが死んでいくのに反比例して陽気さを出していくようになったが、それがかえって生徒達の神経を逆撫でしている。正直毎朝のこの空気は耐えられたもんじゃないので、生徒とは別枠で担任教師も死んでくれないだろうか。


「今日はなー! 皆が喜ぶビッグなニュースがあるぞー!」

 事情を汲めない担任が更にしょうもない事を言いだす。そのニュースが『どんな怪談でも粉砕できる超絶霊能力者を呼んだ』とかでないのなら大人しく口を閉じるべきだ。そもそも誰も彼の言葉を真に受けていないだろう事が不幸中の幸いだったが。


「なんと転校生だ! このクラスに転校生が来てくれたーー!」

 案の定死ぬほどどうでもいい話だったので、クラスメート達は溜息を大合唱し始める。音楽の授業で歌う時は合間にこっそり円周率を唱えたりと碌なことをしない生徒達も、共通の敵に対しては息が合うのだろう。教師にも円周率参戦権があったら本当に悲惨な事になっていたかもしれない。


 これ以上何を言っても生徒の反応を引き出せないと気付いたのか、担任教師は能書きを切り上げ、廊下で待機中らしい転校生に呼び掛ける。現物を見せれば盛り上がるだろうと考えてか、ウキウキ顔はまだ継続中だ。


「さあさあ入った入った! 自己紹介して!」

 担任がドアを開けると、そこにはやや小太りの背の低い男子生徒がいた。彼は姿勢良く教壇へと歩き、教師の隣に立つ。


「どうも初めましてー! 千賀せんが 増男ますおって言いまーす!」

 妙に高い声でハキハキと自己紹介する転校生。お約束として、名前の漢字は自分で黒板に書いている。


「えーと、埼玉から家庭の事情で転校してきててー! 前の学校は東栄和高校って所だったんですけど、知らないですよね! 結構ラグビーとかが強いらしくて~。県内5位とかだったりしてて~」


 遠くの知らない高校の話を聞き流しながら欠伸を噛み殺す。単に転校生と言うだけで長々と喋らせるから、こういう埋め草みたいな話が出てくる事になる。


「今回転校が決まった時はすっごく不安だったんですけどー! でもこの樽宮って所は皆さん凄く仲が良さそうで平和で良かったですー! これからこの学校でどんな事が起こるのか楽しみにしていまーす!」


 悪気は無いのだろうが転校生の無神経な物言いに、クラスメート達の幾人かが鬼の形相を作り始める。仮に樽宮が本当に仲良しで平和だったとしても、彼が見てきたのはこのクラスではない。誰かがその場所の平和さを褒める時、その恩恵に預かれない人間達は歯ぎしりをしている。


「今日もちょっと職員室の場所がわからなかったんだけどー! 近くにいた先輩に教室の場所を親切に教えてもらいましたー! すっごく良い高校ですねここは! 皆さん、環境に恵まれてて幸せですねー! これから仲良くしていきましょー!」


 こいつは無意識に地雷を踏みまくる天才か何かなのか。もうクラスメート達の様子をわざわざ確認したくもないくらい、限界間近まで空気が張り詰めている。隣の光汰は必死に笑いをこらえている。


「えーと千賀君、あのー……なんか面白い……得意な事とかはあるか? 隠し芸とか……」

 生徒達が一切ウケてない事を察した教師が、苦し紛れか教師と思えぬような無茶振りをかます。それを受けた転校生はちょっと考えるように口に手を当てて「うーん」とうなり始めた。


「あ! ありますよー! 皆があっと驚くようなスペシャルな隠し芸!」

 あるらしい。あるから何だという話だが、教師はよくやったとばかりに一気に顔を明るくさせる。何故たかが転校生の隠し芸に対してそこまでの期待を寄せる事ができるのか。この重苦しい空気を打破するようなウルトラCを一介の高校生が見せてくれるとでも本気で思っているのだろうか。


「実はなんと僕……円周率がも言えるんですよお!!」





        え????????????????





 その瞬間、クラス全員の目が点になった。先程まで張り詰めに張り詰めていた緊張感も肩透かしをくらったように行き場を失い、変わらないのは転校生の陽気な態度だけとなる。


「あー、円周率かー……じゃあ千賀くん、言ってみて」

「はい、わかりました!」

 もっと派手なものを期待していたらしい担任は露骨にがっかりした態度だが、転校生の千賀君は気にせずに一呼吸整え始める。



「行きますよー! せーの……


3.141592653589793238462643383279502884197169399375105820974944592307816406286208998628034825342117! ふう、このくらいで良いですかね!」


 立て板に水とはこの事か、やけにこなれた調子の早口で滑舌良く数字を唱えていく千賀君。確認できる範囲では全ての数字が合っている。円周率に詳しいクラスメート達が誰も異を唱えない。本当に100桁言えている。


「まあ見ての通りちょっと地味な特技ですけど、これ系の事は自信あります! あとはパソコンの機材とかも詳しいかな? あとはネット文化とか……えーとあとそれか……ら……!?」


 言っている途中で千賀君がぎょっとした様子でこちらを向く。

 クラスメート達の様子がおかしい。


 目を見開き、顔をこわばらせ、壇上の彼を凝視する30以上の目。

 どれだけ鈍い人間でも気付かざるを得ない、鬼気迫るオーラ漂う異様な空気。


 彼の態度に今日初めての動揺が滲み出る。『何かやってしまったのか?』わざとらしくキョロキョロと首を動かしてクラスメート達の反応を伺うが、刮目したクラスメート達はそれに反応を返さない。反応も無いままにただ視線だけが壮絶に集中し、それが余計に彼の混乱を加速させていた。

 そしていよいよ泣きそうな顔になった彼がおずおずと口を開き、なんとか一声を発しようとしたところで






 ━━━━突如、爆発的な大振動が教室を震わせた。


 喝采だ。





 バラバラだった全てのクラスメートが、今一斉に一つの方を向いて声を張り上げていた。机を倒さんばかりの勢いで立ち上がり、拍手、声援、指笛、思い思いの方法でそれぞれの気持ちを一人の転校生にぶつけていく。中には授業中である事を忘れて握手を求めに行く者、妙な工作物をビリビリに破いて紙吹雪にする者、感極まって抱き合う者達までおり、クラス全体が一つの巨大な喜びと化したかのようだった。


 初めは唖然としていた転校生も自分が受け入れられている状況に気付き、心の底から破顔する。そして両手を上げてその声援を受け入れていく。

 新しい学校での生活に当然不安もあっただろう。クラスメート達が受け入れてくれるかどうか内心では心配していたのだろう。それが杞憂であるとわかった瞬間の彼の笑顔は、今日見せた中でも一番の輝きを放っていた。そしてその笑顔が更にクラスメート達の声援を巨大なものにしていく。


 樽宮高校1-C始まって以来の好循環だった。一人が皆のために、皆が皆のために。笑顔が笑顔を呼び、尊重が尊重を生む。


 呆然とする担任教師をそっちのけで、ついにはクラスメート達による胴上げが始まった。少し困った顔をしつつも誇らしげな転校生と、今日の巡り会わせに感謝する周りの生徒達。その明るいムードは何者にも止められず、その日一日中は笑顔に彩られた平穏なクラスが続いたのであった。








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