ムラサキエンシュウリツ その3

 朝の一件以来、クラスメート達は目に見えてピリピリしている。本来ならば授業からの開放感と食の楽しみで話が弾んでいるはずの昼休みだが、今日はお互いの顔色を伺うかのように当たり障りのないやり取りしか交わされていない。殺伐とした空気の中、スピーカーから流れるラジオ放送だけが元気に教室に響き渡っている。


『それでですねー、私最近はまってるものがありまして! 完全栄養食品のゴールデンフードっていう商品があるんですが、それがまたおいしくて! いえ流石にお店で食べるよりは味も落ちますけどね! ただ、これがまた一袋で一食分の栄養が取れるパンとか、あるいはおにぎりとか、とにかく健康面でのコスパが……』


 いつもは聞き流しているラジオ番組も、こう静かだと変に頭に入ってきてしまう。俺達三人には関係が無いのだから気にせず談笑すればいいと思うかもしれないが、この静かな教室でわずか三人だけが喋っているとなれば、それはもはや俺達の個人的な雑談ではなく、それこそラジオのようなものだ。俺達が気兼ねなく雑談するには今の教室の雑談指数は低すぎるのだ。


『で、それはもうあかんだろうと! 先月、オフで一回シオリちゃんにもハッキリと言ってやったんですよ、自炊くらいしろと! あ、いやまあ自炊しなくてもいいんですけど、別に外食派とかを否定するつもりじゃなくて、それはそれでいいんですけど、ただもう少し栄養面を考えてねって話を……』


 ぼそぼそと暗い声が横行する教室の中において、妙にコミカルな口調で喋り倒すラジオパーソナリティーだけが希望の星だった。友達のシオリちゃんの話も、自炊がどうとかの話もその辺の高校生の興味を引く要素などは特に無いが。


『それでね、やっぱり私は値段的なコスパもそうだけど、それ以上に時間的なコスパが大事だと常々思ってるんですね! 昨日だって、私が放送の準備してる時にどうも外が騒がしいな~と思ったら……あ、ヨシオさんスパチャありがとうございまーす!』


「ん?」

 なんだか今、ラジオ番組に似つかわしくない単語が飛び出してきたような。ぼーっと聞いていて特に気にしていなかったが、これは何のラジオだ? いや、ラジオ番組というよりはむしろ……。


『て、うおお! よく見たら10000円の赤スパチャじゃないですかー! ヨシオさんありがとうございます! それでスパチャしてくれた方からはセリフとかリクエスト受け付けてるんですけど……あ、了解でーす! よーし、では心を込めてASMRするので聞いてくださーい!』


「なんだ? ASMR?」

「なにそれ?」

「これ何の放送だ?」

「はああ?? おいおい、Autonomous Sensory Meridian Response略してASMRを飯時に流す学校とか都市伝説じゃなかったのかぁ!? これだから中高生ってのはしょーもねーんだよな!」


 クラスメート達も今流されているのがラジオ番組ではなさそうだという事に気付き、ざわつき始める。最後の光汰だけは変に理解度が高そうにも見えたが、とにかく大体の人間は不思議そうな顔をしていた。


『おっと、切り抜き用にBGMは切っておいてと! では行きますよー! ……さあ、ゆっくりと肩の力を抜いて……。私の声に耳を傾けて……ふふ、緊張しなくていいから……』


 何かの開始の合図と共に、先程までコミカルだったはずのラジオパーソナリティーの声が一変、やけに距離が近めで吐息を多く含んだ声がスピーカーから流され始める。唐突に展開される淫靡な空気に先程とは別の意味で空気がギクシャクしていく。


『だってそうでしょう、先生に任せれば安心なんだから……。え、なに? 円周率がわからないの? 仕方ないわね、ゆっくり教えてあげる……いい、円周率はね……3.141592653589793238462643383279502884……』


 怒号と悲鳴が教室内に吹き荒れ、机が一斉にガタガタと音を立てた。


「ああああふざけやがって!」「誰がやりやがった誰が!」「放送部!このクラスの放送部は誰だ!」と、先程の空気はなんだったのかと思うほどの騒音が教室を支配し、クラスに渦巻いていた激しい感情が表出する。男、女、運動部、文化部を問わず、全ての人間が耳を塞ぎながら怒声で円周率を掻き消そうとするさまは、正に現代の阿鼻叫喚と呼ぶにふさわしかった。


『はい、という訳で円周率をテーマに即興ASMRしてほしいとのリクエストでした~! ……おっと、そろそろ私もお昼ご飯の時間なのでこれにて終わりますねー! では数学系Vtuberマス田ちか子のチャンネル、これからも応援よろしくお願いしま~す!』


 そう言い〆のBGMが流されるが、そんな事でこの場の喧噪が収まりはしない。例によって今なら言えるとばかりに知る限りの円周率を唱えだす者、それを大声で掻き消す者、机も椅子もひっくり返して円周率どころじゃなくそうとする者など、朝の教室以上にその場はめちゃくちゃになってしまった。近くにいた教師が注意しに来ても、自動再生で子猫の動画が流されても、なおその騒ぎは収まる事は無かったのである。



◇◇◇◇



「つまり今回の犯人は猫動画とVtuberが好きな生徒だ。全員のスマホを奪ってyoutubeのトップ画面をリロードしまくれば特定できるな」

 別に犯人に興味なんて無いのに、廊下を歩きながら適当な独り言を言う。教室がのうのうと弁当を広げていられる空気ではなくなったので、購買でパンを買ってきたところだ。


 袋を開けて中身のパンを一口かじると、クリームの味が口内に広がった。廊下で歩き食いというのも行儀が悪いが、食事の途中だったので変に間を空けたくも無い。一応どこか落ち着ける場所がないかと探しながらの歩き食いだが、流石に憩いの場が見つかるよりもパンが無くなる方が早そうである。


「あ、尚人君じゃーん! 元気ー?」

 視線をパンから前方に移すと、クラスの女子二人がこちらに歩いてきていた。声を掛けてきた方は何回か言葉を交わした事のある見覚えのある女子だったが、名前はまだ覚えてない。ひと月後に死んでなかったら覚えてもいいだろう。


「おーパン買ってるー。やっぱ弁当だときついよねあの教室」

「あたしらも避難してんだよね~。ほんと勘弁してほしいでしょあれ」

 騒動に辟易しているのはクラスメート達も同じようだ。あるいは円周率に真剣に取り合っている人間は案外少なくて、大半の人間は呆れた態度なのかもしれない。


「クラス全体が変な空気になっちゃってるからな。君らはあんまり気にしてないようだけど」

 特別当たり障りのない触れ方をしてみると、何がおかしかったのか俺と知り合いの方の女子(氏名不詳)はからからと笑いだした。


「いやいや尚人君さあ~! 流石に怪談なんて信じる年じゃないでしょ私ら!」

 笑いながらこちらを指さしてくる。もっともと言えばもっともであるその発言に「そりゃそうだ」と頷かざるをえない。


「大体、教室で騒いでる人達ちょっとおかしいんだよね~! だってクラスメートだよ? 仲間を蹴落としてまで自分が助かろうとするなんて駄目じゃない?」

「あ、それわかる~!」

 確かに仲間同士で争っていてはいけない。それに怪談なんてほんとかどうかわからないし、みんなで仲良くすべきだと思う。


「それにさあ仮に助かったとしても、後で絶対関係ぎくしゃくしちゃうって! クラスメート同士でそんな事できないできない!」

「そうそう! これから一年間一緒に過ごす仲間達で蹴落とし合いとかそんな事するわけないでしょ~~! ヘイsiri、円周率を教えて!」

『わかりました。3.141592……』


 スマホが喋り出すのと同時に言った本人は脱兎のごとく駆け出していた。陸上の真剣勝負を思わせるフォームで見る見るうちにこちらとの距離を空けていき、逆に残された俺の知り合いの女生徒は咄嗟の事態に対応できず円周率の毒に晒される事となる。


「うぎゃああああああ! おま、嘘でしょあんた、うわああああああ! やめろやめろおおおお!」

「わはははありがとねあんたらああ! あたしはあんたらのおかげで生きてけるよおイエエエエエ! 陸上部万歳いぃ!」


 先程までの仲が良さそうな空気は何処へやら、気付けば俺のクラスメート達は教室外でもババ円周率を押し付け合っている。クラス内に一人でも円周率博士を作り出せれば自分の命は助かるので、狙いを少人数に絞ったのは賢いかもしれない。少なくとも教室全体のスマホをターゲットにするよりはヘイトの集まり具合も軽いだろう。


「ヘイsiri黙れ! ヘイsiri円周率! おらあ!」

 友人の謀略に叫び散らしていた彼女だが、立ち直り命令を上書きした上でそのスマホをかつての友人へと投げつけた。それは吸い込まれるように逃げる後頭部へと突き刺さり、たまらず友人は呻き声をあげて転倒する。そしてはかったように耳元に着地するスマートフォン。


『円周率は、3.141592……』

「ぎゃあああああああああああああ!」

 スマホから流れる死の呪文に、陸上部の女子は耳を塞いでうずくまる。スマホを探すようにそのままの体勢でごろごろ転がるが、慌てているのか喋るアシスタントソフトに意味のある干渉はできていない。


「やめろ! やめろおおおお!あーーーあーーーー!!! てか頭痛いいい!」

「あははははは! ソフトボール部なめんなバーカ! バーーーーーカ!」

 振り乱した髪で満足げに投げた先を見るその姿は、さながら山姥か鬼女めいていた。このあんまりな惨状に俺が言える事は何も無いが、強いて言えばパンがおいしかったと思う。








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