ムラサキエンシュウリツ その2

 あれから数日間、特に何事もなく日常は進んでいった。朝の教室は相変わらず談笑に包まれているし、もう怪談の事は誰も口に出さない。俺もクラスの誰かが死んでしまう事などすっかり忘れていた。


「毎週PCゲームが無料で手に入るってのはすげー良いんだよ! だがそう思って全部もらってるとかえって整理できなくなっちまう……。絶対興味無いなってゲームは受け取らない勇気も必要だな、やっぱ!」

「ふーん」


 いつものように光汰の話の興味ない部分を聞き流しながら、カバンの中身を机に移す。ゲームが無料でもらえるこの時代でも、教科書の電子化はまだまだ身近には感じられない。


「ん?」

 押し込んだ教科書が机の中で何かを潰した。

 机の中身は下校時にすべて鞄に回収しているため、朝にこのような感触を覚える事は無い。だが今日は中に何かがある。


 不思議に思いつつも中に手を入れて探ってみると、出てきたのは潰れたノートの切れ端だ。潰れる前は四つ折りにされていたと思しきそれを、特に警戒もせずに開いてみる。


 3.148


「なんだこれ?」

 書かれていたのは四桁の数字だった。3.148……さいよは? サンドット余波?  茶店イヨッハー? 何を表しているのかわからない。


「こっちにもあったぞ」

 振り向くと、塔哉が似たような紙を広げている。書かれているのは3.143。妻子さん?


 二つを見比べて気付くのは、3.14までは共通しているという点だ。遅れて光汰も自分の机から紙を見つけると、中には3.146と書かれている。3.14といえば円周率だが、それを四桁で表すなら3.141のはずである。紙を広げて三人で首をひねる。



「クソッ! ふざけやがって!」

 突然近くの男子が叫び、机を叩きつける。教室が静まり返り注目が集まる。


「どうしたんだ、急に」

 聞いてみても、彼は険しい顔をするだけで何も答えない。その代わりこちらに向き直ったかと思うとバッと手を突き出す。その手にあったのはやはり例の紙であった。


 3.142


「こういう事だよ! ふざけやがって!」

「いやどういう事だよ」


 何がなんだかわからない。わからないが、この3.142が彼の心に衝撃を与えた事は間違いないようだ。


「え、ちょ、馬鹿お前!」

「嘘でしょ! ちょっとやめてよ!」

 彼に注目していた生徒が目を逸らし始める。彼だけでなく、俺達三人以外はこの紙を恐れている。実は呪いの数字だったりするのだろうか。俺達に効果が無いのは神の加護のせいなのだろうか。


「ふざけやがって! クラスメートにする事かよ! よくも俺の机にを……!」

 彼はそう言いながら、再び机を両手で叩きつけた。四桁目? つまり円周率の四桁目? 四桁目は1だが……


「そうか! 知らないのか!」

 閃く思考が声に出る。そうだ、四桁目を知らないのだ。これをは四桁目を知らない。



 四桁目は知らないが四桁目を



 ムラサキカガミは忘れられるかどうかという運任せのソロゲームだが、ムラサキ円周率は違う。死者の数にクラスで一人という制限がある以上、自分が覚えているよりもたった一桁でも多くの円周率を知っている生徒がいれば、自分の身の安全は確保できる訳だ。


 もっと言えば、自分以外の誰かに自分よりも多く円周率を確実に安心できる。

 

 となると、ここで問題になってくるのは自分が知っているよりも多い桁の円周率をという事だ。相手には自分以上に円周率に詳しくなってもらいたい。だがそれを教えるための知識はもちろん自分には無いし、当然そのために円周率を調べるのは本末転倒だ。


 そこでこの作戦という訳だ。


 円周率の次の桁を知らなくとも、0~9のどれかが正解だという事はわかっている。

だから3.14の次に0~9のどれかを付け足した数字を適当な10人に与えるのだ。すると相手は勝手に「円周率を教えられた!」と思い込む。そしてその内の一人は実際に正解の四桁の円周率……3.141を覚えさせられた形となるのである。


「なんだこの紙は!」

「ふざけてんのかよ!」

 教室の方々から毒づく声が聞こえてくる。この様子だと、紙は10人どころか全員の机に仕込まれていたらしい。クラス全体で3~4人の生贄候補を生み出せると考えれば、まずまずの成果が期待できる作戦と言えるだろう。そしてもちろん紙を入れた本人はどれが正解なのかを知らないまま。二律背反を鮮やかに突破する見事なアイデアに俺は感心していた。


「あ? てことはそいつ、3.14までしか円周率わからなかったって事か?」

「その時点でもう勝ってるだろ」

 光汰、塔哉が少しも心動かされた様子無くバッサリと言い捨てる。イレギュラーとしての底が見えた手の中の紙をくしゃくしゃと丸め、席を立ってゴミ箱へと向かっていった。


 そう、この作戦はなかなか面白い作戦だった。という事を除けばだが。


 先のように罠に掛けられた事に激昂する生徒もいるにはいたが、同時に大半の生徒は苦笑いしながら紙をゴミ箱に捨てていた。クラスメートを犠牲にしてでも助かろうとする狡猾さには困惑しつつも、四桁で実害が出るほど物を知らない訳ではないといった所か。


 更に言うならこの作戦はやる事が大掛かり過ぎた。クラス全員がその紙の事を認識するとなれば、自然、騒ぎも大きいものとなる。自分の紙を他人に押し付ける者もいれば「いや実際は3.141だから」と良い機会とばかりに暴露する者もおり、最終的にはその紙が何を狙った紙であるかは全て明るみになってしまっていたのだ。


「誰だよこんな紙用意しやがったやつ! 朝練ある運動部の奴だろ!」

「てか三桁までしか知らないってうけるんだけどwww」

「お前ら正解言うのやめろ! 偽物ならそれでいいんだから!」

「もっと言うなら3.1415だぞー! 3.1415だぞー!」

「ああああああああああ! 聞こえませーんああああああああああああ!」


 気付けば朝の教室は混迷を極めていた。膨れ上がる騒音は留まるところを知らず、やってきた担任教師が注意の声を張り上げている事に誰も気付かないくらい騒がしい。その注意が十数回繰り返されたあたりでようやく教室内の喧噪は収まりを見せたが、間違いなくここ何日かで一番騒がしい朝だったと言えるだろう。


「はいホームルーム終了! じゃ、先生は帰るからな!」

 雑に仕事を終えて担任教師が帰っていった。私語を諫める存在がいなくなった後もいつものような談笑の言葉は聞こえてこない。


 生徒達は、先日怪談を聞かされた時よりも更に不満そうな顔をしていた。不意打ちに翻弄されている内に一方的に打ち切られた争い。心の奥に負の感情を押し込められた30人以上。その向かう先は今度は担任教師の方ばかりではないだろう。


 さっき塔哉も指摘した通り、この事件の犯人は円周率を三桁までしかわからない時点で既に勝っていたはずだった。あんな怪談なんて実在しないさと決めつけて心の底の不安から目を背けてさえいれば、きっと他のクラスメートだってまだ同じように日常を過ごしてくれていただろう。


 その奥底の不安を引きずり出してクラス全体に周知させてしまった今、果たしてここから先の犯人はこれまで通り円周率三桁のままでいられるのだろうか。今、教室内の目は軒並み鋭く光っている。クラスメートの不安を煽るようなこんな事件を起こさなければ、まだ安全圏でのうのうと生きていられたかもしれなかったのだが。








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