◆第三の怪談 ムラサキエンシュウリツ
生徒達は微妙な表情を浮かべていた。先程目の前の教師によって緩まされた緊張の糸がまた同じ人間によって張られようとしている。多感な時期の同輩達は感情のやり場に困らされていた。
面白い怪談があると前置いた教師は、生徒の様子を観察しながら意地悪くにやけている。その様子は明らかに怪談を信じていない人間のそれだ。そして本人が信じているかどうかは怪談というものには全く関係が無いものなのだ。
「お前ら、円周率って知ってるか?」
彼はすっとぼけた顔でこちらを馬鹿にしたような事を言いだした。流石に知っていなければ、この高校という場には上がれていない。聞いている生徒達もいよいよ隣と顔を見合わせている。
「うんうん、円周率は当然お前らも知ってるよな。じゃあさあ……『ムラサキエンシュウリツ』は?」
「は???」
誰かは知らないが、露骨に素っ頓狂な声で反応した。そしてそれを気にせずに教師は話を続けていく。
「これから語る話はこれから実際に起こる事だ……いいか?」
彼がついに怪談の核心に触れる。
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【ムラサキエンシュウリツ】
20歳を迎える瞬間、円周率を24桁覚えていたら死ぬ。
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「どうだ怖いだろ! 最近ネットの怖い話特集で見つけたんだぜ!」
話し終えた彼はついでにその出所に関してまでつまびらかにした。
生徒達はまだ微妙な表情をしている。
これから語る話は……と物々しく前置いてから、わずか10秒で話が終わった。まだその内容が語られる前の段階では実際に不安そうな顔の生徒もいただろう。それが今度はその怯えた感情の行き場さえもなくなってしまった。
クッと笑いを抑えるような声が一つ響いた。するとそれを合図にしてか、耐えきれなくなったように教室の中から次々と笑い声が溢れ出す。
「いやいやいや先生冗談きついって!」
「ムラサキて! ムラサキ要素何処だよ! なにその取ってつけた感じ!」
「24桁は流石に数学博士しか死なねーだろ!」
「サイコー! 先生今のサイコーに面白い!」
「マジで怖がらせようとしたの今の!? マジだった!?」
すっかり緊張の糸が緩み切った様子で、生徒達は私語禁止のルールすら忘れてツッコミを入れる。呆れと賞賛で半々と言ったところだろうか、心底愉快そうに壇上の教師を囃し立てている。
「いやいやこの怪談は本当だぞ、お前ら! これはインターネットでは相当に恐れられてるんだよホント!」
対する担任教師も私語を諫める訳でもなしに何故か同じ話題で食い下がり、それによって生徒達の笑いはますます大きなものとなっていった。もはや彼が何を言おうともそれらは全て生徒の笑い声に変換されてしまう。
そうこうしている内に「そろそろ無駄話をしている時間も無いですよ」との指摘も入り、道化となった教師は泣く泣くホームルーム活動を再開せざるを得ない事となったのである。
それからホームルームが終わり、一時間目の授業を待とうという段になった所で横から含み笑いが聞こえてきた。
「へへ……やっちまったなあ、あの教師」
光汰が隣でまた何事かを呟いている。
「ムラサキエンシュウリツは怪談wikiに載ってる怪談の中でも有名なガセ中のガセだ。界隈にとっちゃ有名なガセネタを得意げに持ってくるとはな! そりゃ馬鹿にされるのは当然っつーもんだぜ!」
「この流れでガセなのかよ」
俺のツッコミも気にせず、光汰は大げさに呆れている。怪談界隈というのはよっぽど肩透かしに恵まれているらしい。
本人が信じているかどうかはその怪談が真実かどうかには関係が無い。もちろん真実でない怪談を真実にする事も無いのだろう。
◇◇◇◇◇◇
翌日、俺達はいつも通りに朝のホームルームを待っていた。今日は前の日に怪談ドラマもやっていなかったため、教室内の話題は様々だ。
「おーいお前らーー!」
すると教室のドアが気持ち勢いよく開いた。現れたのはもちろんクラスの担任教師だ。ここに来るのは当然ではあるが、今日の登場の仕方はなんだか無駄に元気が良い。
「前回はお前らに馬鹿にされたからなあー! 今回はちゃんとしたやつを見つけて来たぞー!」
「ちゃんとしたやつ?」
前の席の生徒が何気なく聞き返す。
「ちゃんと死ぬやつを見つけてきたぞーー!」
「ちゃんと死ぬやつを!?」
生徒達は面食らうが、教師は気にせず怪談を語り始めた。
「良く聞け! 血も凍るような恐ろしい怪談話を! これが本物の怪談だあー!」
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【ムラサキエンシュウリツ 改】
クラス全員にこの単語を聞かせると、30日後にそのクラスの内の一人が死ぬ。死ぬのは円周率を一番桁数多く覚えていた生徒である。
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語り始めたと言ってみたが、やはり語るというほど長い時間でもない。
「どうだ怖いだろ! 今回は本物だぞ!」
語り終えた後の教師は相変わらずドヤ顔だ。
「いや『本物だぜ』じゃねえんだよ、このクソ教師!」
「恣意的にレギュレーション変えるのやめろ、ふざけてんのか!!」
「殺すぞ!」
そして今回の生徒達と言えば、不安気でも愉快気でもなく、普通に怒り出していた。感情を振り回され過ぎてだんだん腹が立ってきたのかもしれない。
「いやいや、これはマジで先生が考えた訳じゃないぞー。この怪談がこういうものっていうだけなんだ」
「怪談のプライド無いのかよ、クソ野郎! だせえんだよ!!」
「24桁は多すぎたなとか思ったんだろどうせ! 円周率要素もあんま綺麗に活かし切れてないしいまいちなんだよ!」
「ムラサキ要素どこだよ!」
非難は何故かムラサキエンシュウリツの怪談としてのディティールの甘さにまで飛び出した。じゃあムラサキカガミに紫要素や鏡要素があるのかと言えば無いと思うが。
「まあでも、実際こんなの本物な訳ないしな! ほらほら、ホームルームするぞ! これに懲りたら先生がわざわざ持ってきた怪談はもっと怖がるように!」
予想外の盛況に面倒くさくなったのか、よくわからないまとめ方をしてきた担任教師。生徒達はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、ホームルームはしなくてはならないという正しさの前にぐっと黙る。
結局生徒達の不満をよそにホームルームはつつがなく終わり、担任教師は我関せずとばかりの面の皮の厚さでさっさと職員室へと戻っていってしまった。
「へへ、やっちまったなあの教師」
「あん?」
授業の準備をする俺の横で、光汰が昨日も聞いたような事を言い出している。その顔にはその時以上のドヤ感が含まれており、俺の返事もそれに比例して投げやりになる。
「ムラサキカガミとムラサキエンシュウリツまでは良かった……あれらは根も葉もないデタラメだ。だがムラサキエンシュウリツ改は駄目だ! あれはガセじゃなくて本物だからな!」
「無印がガセで改が本物とか、そんな事ある?」
教師が去った後、一人で勝ち誇る光汰。これだけやかましいのに周りの生徒が一切聞いていないのはなかなか不思議な事である。
「それを他の生徒達は怪談としてのディティールが甘いだのなんだの、まったく……。わかっちゃいねー! 怪談の恐ろしさの肝は実在するかしないかなんだよ!」
「そうかな……」
それは0と1を比べれば天秤は1に傾くだろうが、0の中でわいきゃい楽しんでいた所に突然1を持ってくるのもなんかずるいだろう。
「まあ、そもそもムラサキカガミだって単語の意味は無いもんな。ディティールを言うならどっこいどっこいって所か」
こちらとしても特別怪談というものに思い入れがある訳ではないので、何か言いたい気持ちを飲み込んでふわっと同調しておく。今日の一時限目は移動教室のため、ここのやりとりが長くなっても仕方がないのだ。
「はあ? 何言ってんだ尚人わかってねーなお前。ムラサキカガミは覚えていたら死ぬっていう自分ではコントロールできない怖さと、一切説明の無いムラサキカガミという単語が逆に聞いた人間の想像を掻き立てるっていう計算された不明瞭さがめちゃくちゃ秀逸な怪談だぞ。逆にムラサキエンシュウリツは半端にタイトルを内容に組み込んじまったせいでかえって俗っぽくなっちまってて、ホラーコンテンツという枠組みで見た場合だとムラサキカガミの足元にも及ばねーんだよなあ」
「うるせーばか」
光汰に適切な返答を返した俺は、教科書ノートを持って席を立つ。塔哉が黙ってそれに続き、光汰も呆れ笑いを浮かべながら必要なものをまとめ始めた。まったくもっていつもの光景である。光汰は無駄にお喋りで、塔哉は何を考えているかわからない。いつもの光景過ぎて、俺の関心も次の授業で用意しなければならない実験器具の事にしか向いていなかった。
━━━━━ムラサキエンシュウリツ改。
怪談wikiがその実在を保証する本物の超常現象。一か月後に円周率を一番多く覚えていたクラスメートが死ぬ。話をするだけでそのトリガーを引いてしまう超ド級の危険怪談であり、昨日は光汰も流石に教室内で言及する事を避けていた。
きっと本当に誰かが死んでしまうのだろうが、まあ関係ない。40発弾倉のリボルバーの時みたいに結果的に関係が無いとかではなく本当に関係が無いのだ。俺達に呪いは効かないのだから。
そしてリボルバーの時みたいなパニックも起きないだろう。いくら真だ真だと言われた所で、あの二行ちょっとの怪談に恐怖を煽られる高校生はいない。激しい爆音みたいなわかりやすい前兆があるならともかく、実際にその時が来るまで何が起こる訳でもない。似たようなガセの怪談が語られた昨日を経てからの今日、これを信じる者がいるかといえば流石にいないと言い切ってしまっていいだろう。
……と、この時は本当にそう思っていた。怪談wikiを踏まえた俺ですら馬鹿馬鹿しいと思うのだから、他の生徒だって同じように馬鹿馬鹿しいと一笑に付すだけであろうと。
だが結局のところそれは何かに守られている側のずれた感覚でしかなかったのだろう。ラインの外側の部外者から見た雑な決めつけでしか。
次の授業の半ばにはもういつもの顔で日常に戻っていたクラスメート達は、しかしその日常に死の一滴が混入している可能性を常に頭の何処かでは考え続けていたのである。
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