4
翌日暗くなってから、さっそく氏忠はモンスネゴティー離宮を探して宮殿の建物を出た。実は昼間のうちに庭を散策すると見せかけて、その離宮のだいたいの場所の目星はつけていた。
城壁からの道から一番近い門から入るとわずかな庭と山の上への石段を登るだけで宮殿の玄関には着く。だが宮殿の裏手は、かなり広大な城の敷地があってちょっとした山になっている部分もいくつかある。その山の上の建物が離宮だ。
昼間に見当をつけておいたおかげで、月明かりだけを頼りにしてなんとか氏忠はモンスネゴティー離宮のある山の麓までたどり着けた。山といっても、すぐに登りきることのできる丘だ。
山の上は平らで、池があった。いくつもの岩に囲まれたその池の向こうが、小ぢんまりとした離宮の建物だ。二階建ての、普通の民家より少し大きめというだけの家のようだ。宮殿の建物が外壁は石造りで白いにしても、窓枠など豪華に金の装飾が施されているのとは対照的に、この離宮はあくまで質素さを追求しているようだった。
そっと近づいて、岩陰から池を見た途端に、氏忠の足は止まった。
天上に月はあって遥かにこの下界を照らしているが、池の中にも月がある。それは天上の月の光が池の水面に映っているなどという比喩ではなく、池の一角が本当に月のように輝いているように見えた。
近づいて気がついたが、池は池ではないようだ。全体的に湯気が立っている。もしかしたら温泉ではないのかと思う。そしてその中に人が入っている。月のように輝いていたのは、この温泉の中に入っている人だ。
女である。
いけない!……と、氏忠は思った。こんな離宮の庭の温泉に入っている女なら、身分ある女性に違いない。そんな女性の入浴をのぞいたなどということになったらあとあと問題になる。そう思って氏忠はその場を離れることにした。
しかし、遅かった。
温泉に背を向けた瞬間、背後でものすごい音がした。温泉の湯の一部が柱となって中にたちのぼり、その先がいくつも別れて氏忠めがけて襲いかかってくる。そして咄嗟のことに転がって身をかわした氏忠めがけて、短剣が数本飛んできた。
幸い、当たらなかった。いや、危ないところで転がってかわしたのだ。転がりついでに、身を隠している湯水の壁の中からその短剣を氏忠めがけて飛ばした女のそばまで転がっていってしまった。
女は氏忠の顔を見ると、ハッとした表情で一切の攻撃をやめた。まるで何ごともなかったかのような月明かりの下の温泉となり、湯面は静かに、その中に全裸の女は体を隠すまでもなく氏忠のすぐそばに立っていた。
「敵襲かと思ったら、なんだ、おぬしか」
凛とした声だ。
「いや、これは、あの、その……たまたま通りかかって」
そんな、裸の女性にそばに立たれたら、氏忠は目のやり場がなくて困り、赤面して視線をそらした。
「おぬし、何しに来た?」
「ん?」
自分が襲われたのは、別に温泉をのぞきに来たやつをやっつけたということではなく、敵襲だと思われて応戦されたのだという状況がやっと何となく把握できた。のぞかれるのはどうでもいいようだ。その証拠に女は、体を隠すでもなく堂々とすべてを晒して氏忠のそばに立っている。
しかも氏忠の顔を見て「なんだ、おぬしか」と、にこりともせず言った。
見知っている人か?……そう思って氏忠は少しだけその女を見ることにした。そして気がついた。女というより幼女だ。平らな胸とつるんとした前。だから恥じらいもなく、氏忠の前に全裸で立っているのだ。なんだ、子供なのかと、氏忠も少しは安心した。そして、依然として氏忠を睨みつけているその顔を見て、氏忠は気付いた。
ブロンズの縦ロールのドリルヘアに透き通るような青い目……初めて皇帝陛下のお茶会に召された時、同席していた十二歳くらいの少女……確か皇帝陛下の第二皇女で、お会いした皇后腹の唯一の姫君……名は……思い出せない。
「あなた様は」
氏忠は立て膝を突いて畏まった。
「フェリシアじゃ」
そう、あの時レンブラントから聞いたのは、確かにそのような名前だった。そのフェリシア姫が突然声を挙げた。
「あっ、それは!」
フェリシア姫が見ていたのは、地面を転がりながらも抱きしめて決して放さなかったリュラーの入った袋だ。あの老人からもらったものである。
「おぬし、なぜそれを?」
氏忠は口ごもった。老人は、これからついて修行する方のことは他言無用と言っていた。
「それは私のお師匠のもののはずだ」
「お師匠? もしかして?」
そう、氏忠がここに訪ねてきた相手は皇家の人としか聞いていない。フェリシア姫は、まぎれもなく皇家の人だ。まさか……でも、こんな幼女が……。
「お師匠に会ったのか?」
「お師匠とは、白髭のご老人ですか?」
「そうだ。私はそのお師匠から、魔法のすべてと武芸を習った」
あの老人が言っていた皇族の方とは……まさか、この姫君? この幼女について修行をせよとのこと?
「何をまじまじと見ておる」
氏忠はハッとして、またうなだれて畏まった。
「姫様っ! どうなさいました?」
離宮の建物の方から侍女の声がした。フェリシア姫はその声の方を振り向いた。
「なんでもない! 入っておれ!」
そして侍女に向かって大きな声で叫んでから、また氏忠を見た。
「実は……」
氏忠は、昨夜の老人とのいきさつをすべて話した。
「そうであったか。ま、服を着てくるからここで待っておれ」
フェリシア姫はそう言って、一度離宮の中へと戻った。
温泉の湯を見下ろす岩の上に少し離れて並んで座り、フェリシア姫は自分のリュラーを抱えた。氏忠も袋から、昨日老人からもらったリュラーを出した。触るのは初めてである。
まずはフェリシア姫がリュラーを奏でる。昨日聴いた老人の演奏も素晴らしかったけれど、やはり同じ音色でも月明かりの下で美しい乙女が奏でる楽の
不思議とフェリシア姫は、月の光を浴びると自身が同じくらい明るく輝くのである。よって、顔もはっきり見えた。幼いながらも、美しい。幼いといっても、若い氏忠とはいくつも年は離れていない。今は身に白い衣をまとっている。足首まであるゆったりとした裳のような長い衣で、軽い布でできているようだった。これもまた月の光を浴びてつやつやと光る。その姿と重なって響くリュラーの音色だけに、まさしく天上の楽であった。旋律と楽器は違うけれど、遠い記憶の中にある箏の音色と氏忠は重ねて聴こうとしたけれど、すぐにやめた。思い出の中にある箏の音も、それを奏でていた苦しいほどに恋い焦がれた人の面影も、逆に色あせてきそうに感じたからだ。
ただ、今はうっとり聴いている場合ではない。氏忠はフェリシア姫のリュラーを奏でる手元を凝視している。そして少しずつ、自分のリュラーの同じ弦を爪弾きはじめた。フェリシア姫もそれに合わせて、自分が弾いていた曲の速さを緩めてゆっくりと弾いてくれた。
最初からすぐにというわけにはいかなかったけれど、割と早い時間のうちに氏忠はフェリシア姫と合わせて曲を弾けるようになってきた。
やはり琵琶の名手でもあり、箏もかなりの腕前でたしなむ氏忠だけに呑み込みは早い。このリュラーの音には治癒魔法が込められていると、あの老人は言っていた。確かに弾いている本人さえもどんどん心が洗われていくようだった。
そうして月がもうかなりの高さに来るまで、二人はリュラーの音を合わせていた。そもそもリュラーは一人で演奏するための楽器のようだ。だから二人で合わせたといっても、ただ同じ旋律を共に奏でているだけだった。
「今日はここまでにしよう」
不意にフェリシア姫は言った。
「私はもう何日かここにおるから、来られるときだけでいいから来い。明日はまず無理だろうが」
「なぜですか?」
「明日になれば分かる。次からは特訓だ。まずは一通りの魔法と、武術を伝授しよう」
自分よりも若い少女から伝授しようと言われても何かくすぐったい氏忠だったが、そのあまりの美貌に十分に悪くないと思っていた。
果たして翌日の夜、フェリシア姫のいる離宮に行こうにも行けなくなったのは、皇帝陛下からの久しぶりのお召しがあったからだった。しかも夜にだ。
なんと氏忠は、皇帝の私的な居住空間ともいえる部屋へと召された。皇帝はベッドの上に横になり、すぐそばに皇后もいる。部屋は白い壁に金の装飾がちりばめられ、絵画もいくつかかかっている。床はすべて黄金だった。
「いやあ、もうずっと寝た切りでしてね。久ぶりにお声が聞きたくて無理にお呼びしました」
皇帝はすでに、ベッドから起き上がれないようだ。氏忠は、皇帝のすぐ近くまで招き寄せられた。何と言葉をかけていいかも分からないので、氏忠はただベッドの脇に立て膝で畏まった。室内には皇后のほかに皇太子はじめ、あのお茶会の時にはいなかった何人かの皇子や皇女も整列して椅子に座っていた。皇后とは別の夫人の生んだ皇子皇女たちだろう。
そしてフェリシア姫の姿もあった。昨日の時点で、氏忠が今日離宮を訪ねるのは無理だとフェリシア姫が言っていたのは、今日こうして皇帝からのお召しがあることを彼女は知っていたようだ。氏忠とフェリシア姫は目を合わせることもなく、互いを全く意識していないように装っていた。
皇帝は氏忠にいろいろな話をした。また質問もした。その声はもう、すっかり弱っているようだった。そのまま夜も更け、皇子皇女たちは退出し、氏忠も失礼することにした。ただ、ニコラス皇太子とフェリシア姫だけは母とともに皇帝のそばに残るということなので、氏忠はそのまま自分の部屋へと直行した。
翌日はなんとか離宮に行きたくて、氏忠は昼間の時間をとにかく潰していた。
早く夜になればいいと思う。魔法を修得することへの好奇心と期待で胸が膨らむ。でも、この国から見たらよそ者である自分に魔法や武芸を伝授しようとしたあの老人やフェリシア姫の意図が分からない。気になるのは、老人が「もうすぐこの国には大乱が起こる」と言っていたことだ。
さらに夜が楽しみなのは、あのフェリシア姫の幼いながらの美貌である。ここのメイドたちのように笑顔でうちとけてくれるというわけにはいかないが、それは高貴な生まれなのだから仕方がないと思う。ただ、決して邪険に扱われてはいない。
もちろん変な感情は氏忠はすぐに打ち消す。相手は皇帝の娘である。ここは日本ではない。「自分は身は卑しくても母が皇女です」なんて理屈は通用しない。
それに老人が「あの方とお会いしても、決して心を乱さないように」と言った言葉を思い出す。それを聞いた時は「あの方」というのがまさか若い女性だなどとは全く想像しておらず、普通の大人の男性を想定していたので、その言葉の意味が見当もつかなかった。
今やっと、その言わんとしていたことが分かった気がする。たしかに、心を乱してはいけない時なのだ。
そしてようやく夜になって、氏忠はモンスネゴティー離宮を訪ねて行くことができた。
氏忠が近づくと、フェリシア姫は物陰からずっと様子をうかがい、氏忠だとはっきり分かって初めて姿を見せてくれた。
「どうしてそんなに警戒しているのですか? この城は結界が張ってあるのでしょう?」
不思議に思った氏忠は、思い切って尋ねてみた。
「災いは外からだけとは限らぬわ」
この城の中に、災いの種がある? そういえば老人の「もうすぐ大乱予言」も気になる。
「あなたのお師匠様は、こんなことをおっしゃってましたけれど」
その大乱のことを、氏忠はフェリシア姫に告げた。相変わらず姫は、にこりともしない。
「あり得るな。今、宮廷にもものすごい噂が流れておる」
「噂?」
「流れているというか、誰かが故意に流しているというか……」
「どんな噂ですか?」
「父上の目の病は、母が毒を盛ったからだとか。逆に、父は母を皇后の座から降ろそうとしていたとか。いろんなうわさが陰でひそひそと。もう、やりきれぬわ。誰が流しているのか、だいたい見当はついておるがな」
フェリシア姫はそれ以上語りたくないようで、すぐに特訓に入った。
「リュラーが心の治癒魔法なら、外傷や肉体的疾患の治癒魔法も知っておくべきだ。これは命にもかかわってくる。要は簡単、手をかざせばいいだけだ」
フェリシア姫は氏忠に近くの岩に座るよう促し、氏忠の手を取った。不覚にもドキッとする氏忠だったが、姫はすぐに懐から短剣を出して氏忠の手の甲をほんの少し切った。
「痛! え? なにを」
「大丈夫」
そう言ってから姫は、少し血が滲み出はじめた氏忠の手の甲に向かって、手をかざした。
すぐに手全体がぼわーっと熱くなり、血も止まり、みるみる傷は消えて、切られる前の元の皮膚に戻った。
「ええ?」
氏忠は何度も傷があった場所をこすったりしていたが、痛みさえ感じなくなっていた。今度は姫は、短剣で自分の手の甲を切った。血がじわっとにじみ出る。
「さあ、やってみるがいい。まずは詠唱を唱えるのだ。ゆっくり言うから、あとについて唱えて」
そして詠唱を唱える。
「【インフィニーテ パルヴァ ヴァリタス ジェンゲンシー ムンディー……】」
同じように氏忠も唱える。その間にどんどんフェリシア姫の手の甲の傷からは血があふれ出てくる。
「さあ手をかざして。手のひらから傷口までは三マヌス」
マヌスと言われても分からない。
「これくらいよ」
もう一本の手で傷口から「三マヌス」の場所を示して、距離を教えてくれた。氏忠の国での新
「腕の力、肩の力を抜いて」
うんと力を入れるのかと思っていた氏忠は、逆のことを言われて慌てて力を抜いた。
先ほどの詠唱を唱えた時から全身に力があふれんばかりに満ち溢れたが、今はかざした手の
「手からパワーが放射されているのを強くイメージして! そしてそのイメージは私の手の甲を貫いて地面まで達しているくらいの想いで! 一点に集中、貫く想念よ!」
するとかざした氏忠の手が青白く光りだした。そしてその光は一筋の青い光の束になってフェリシア姫の手の甲を貫く。やがてフェリシア姫の手の甲の傷の血は止まり、氏忠の時と同じようにその傷はたちまち消えた。氏忠にとって、初めての魔法経験だった。
「これは治癒魔法であるのと同時に浄化魔法でもあるわ。空中にかざせばその場所が浄化され、人の魂や悪鬼をも浄化することができる」
これはほんの序の口だった。次に召喚魔法で、召喚獣や魔人などを召喚する方法だった。
さすがにこうなるとその日のうちには無理で、氏忠は毎日この離宮に通って魔法の手ほどきを受けた。
そして十日ほどで召喚魔法のみならず、一通りの攻撃魔法、防御魔法、転移魔法などを身につけていった。
「すごいわ。こんなに早く身につけるなんて思ってもいなかった」
フェリシア姫も驚きの声を挙げていた。最後は魔法ではなく物理的に相手と戦う武術で、主に剣を使っての剣戟の訓練が待っていた。もちろん、こちらは魔法と違って氏忠も初めてというわけではないので、フェリシア姫相手に十分に腕を磨いた。
「強い!」
氏忠にとっては、むしろ姫がこんなにも剣の使い手であることの方が驚きだった。今日は姫もいつものドレスではなく、動きやすい服装をしている。両足も
「あのう、ちょっと、肌が多すぎませんか?」
「かなり汗をかくのでな、このくらいがちょうどいいのだ」
月明かりをその剣に受けて光らせながら、金属音がいつまでも夜の闇に響く。月はもう満月ではなくだいぶ欠けてきていて、昇ってくる時刻も日に日に遅くなってきている。
ふと、そんなことを気にして油断したのか、氏忠はフェリシア姫に剣を叩き落とされ、その姫の剣は氏忠の鼻面で寸止めされた。
「もし本当の決闘ならおぬしはここで死んでおるぞ」
「不覚」
その後も、何度も氏忠の剣はフェリシア姫にとって地面に叩き落とされた。だがそれを拾っては戦いに臨み、息を切らしながらも攻撃を加えて、そうして日数がたつうちに氏忠は逆にフェリシア姫の鼻先に自分の剣を寸止めするくらいになった。
「少し休もうか」
そう言う姫も、少し肩で息をしている。
「だいぶ腕をあげたな」
そう言ってくれたらうれしい。
「最初はどうなることかと思った。ただ剣を振り回しているだけだったけどな」
にこりともせずにフェリシア姫は言うが、氏忠はただ苦笑して近くの岩に腰をおろし、汗をぬぐった。
ふと、彼らを見下ろす宮殿の窓から視線を感じた。ここからだと宮殿の一階は坂を下ったその下になるが、なにしろ建物が巨大だ。宮殿の屋根は遥か頭上にあった。
その上の方の窓からこちらの様子をうかがっている気配がある。近いとはいっても、さすがに窓の中の人を認識できるほどの近さではない。氏忠とて、ここでの魔法の特訓を始める前だったら、とてもそんな気配は感じなかっただろう。身につけた魔法の力でその気配を感じ取ったと考えて間違いはないようだ。しかもこちらを見ているその人影は自分たちに敵意はない。むしろ微笑ましく見守ってくれているといった波動も伝わってくる。
フェリシア姫もその気配は感じているようで、宮殿の上のその窓を見上げ、そして氏忠の方を見て少し微笑んだ。氏忠に初めて見せる姫の笑顔だった。
「母上だ」
皇后は我われのこの特訓をずっとご存じだったのか……氏忠は意外だった。あの老人からはこうやって教えを受けていることは他言無用と言っていたが、別に氏忠からしゃべったわけではないし、見られてはいけないとまでは言われていない。何より姫はその母親に見られていることを知っていたようだし、その母親もほほえましく見てくれている。それならば問題はないだろうと氏忠は思ったので、このことはあえてもう姫とは話題にしないようにしようと思った。
すると姫はなぜか、じっと氏忠の目を凝視してくる。思わず氏忠は心が乱れそうになって、目をそらす。そして突然姫は言った。
「おぬしとの特訓も、今日で終わりだ。もう月がなくなる」
「え?」
そう言われて、一度は目をそらしたが、すぐにまた姫を見た。
「私もこの離宮から、宮殿の中の自分の部屋に戻る。また来月、月が膨らんできたらここへ来るけどな」
「ではまた、来月、続きを」
「いや、もうおぬしには伝えることは全部伝えた。その剣もおぬしに進ぜよう」
剣戟で使っていた氏忠の剣は、姫が自分用のものと二振り持ってきていたうちの一振りだった。
「それよりも」
姫は少し離れて座っている場所から身をすり寄せるように氏忠に近づいてきた。そして、至近距離で、氏忠の顔を見た。
顔が近い。氏忠は、思わず胸が高鳴る。だがよく見ると、姫の目は微かに潤んでいた。それを見て、わけもなくなぜか氏忠の目も熱くなってくるから不思議だ。
「あれ、どうしたんだろう? なんでだ?」
そう言いながらも、氏忠は腕で自分の目をぬぐう。姫はそんな氏忠を、視線もそらさず真剣な顔でじっと凝視している。
「氏忠」
姫は呼んだ。
「はい」
「次の満月の夜、月が沈むころ、ボーデムトーレンの下に来てほしい」
「ボーデムトーレン?」
「あれだ」
姫が指差したのは、ここからすぐに見える宮殿の一部だった。
「私はそこにいる」
姫はそれしか言わなかった。そこに行ったからどうだとか、何をするのかとか一切何もなかった。でも氏忠は、そのようなことはどうでもいいような気がして、うなずいていた。
ボーデムトーレン……それは城のメインの宮殿の一部で外壁から就きだした円筒形の塔のような建物だ。宮殿が白い石造りであるのに対し、この塔だけは黄土色の土で造られているようである。上部は平らで、凹凸のある胸壁でぐるりと囲まれていいた。
それにしても姫が指定した日はまだ二十日以上も先で、ずいぶん遠い未来のように氏忠には感じられた。
それまでどうやって生活していればいいのか、皆目見当がつかない。
「じゃあ」
フェリシア姫はそれだけ言うと、月明かりの中を離宮の方へと消えていった。
皇帝から本当に久しぶりにお召しがあったのは、十日もたってからだった。
また皇帝の寝室にまで呼ばれたのだが、この日はベッドに横たわる皇帝のほか、皇后が隣に座っているだけで他には誰もいなかった。
見た感じだと、皇帝陛下は前に会った時よりもより一層弱っているように見える。皇后はそれを本当に心配そうに介護している。その様子を見ていると、この皇后が皇帝を毒殺しようとしているとか、逆にこの皇帝が皇后を廃后しようとしているとか、そんな噂を流すようなやつが許せない気になってきた。
まずは差し障りのない、これまでと同様の話だった。時には皇后が、皇帝の病状について説明してくれた。さすがにこの国のものではない氏忠にあからさまにすべてを話すわけはないと思われるので、差し障りのない部分だけを選んで話してくれているのだろう。
そのうち、皇帝が枕元にあった瓶から水を飲み、それが最後に瓶は空になった。
「あら、お水、汲んできますね」
皇后が立ちあがった。本当ならばすぐに侍従を呼んで汲みに行かせるところだろうが、皇后が自ら皇帝のために汲んでくるという。こんなやさしいお
皇后が部屋から出ると、部屋の中は皇帝と氏忠の二人きりになった。このような状況はめったに起こることではない。だから、自分の仕官のことを聞こうかとも氏忠は思ったが、あまりにも図々しい気がしてためらっていた。
すると皇帝は、布団の中から手を出した。どうも、氏忠にその手を握ってほしいらしい。まだ老人と呼ぶには遥かに若すぎるはずの皇帝だが、枯れ枝のように細い腕だった。
「氏忠」
「はい」
「そう頻繁に召すこともできず、お会いする機会も少なかったが、あなたはこの国を治めていくというそんな人相がある」
え? 陛下は目が見えないはずでは……と氏忠は思ったが、あえて口に出さなかった。目が見えない人の心眼は侮れないということも、これまでの短い人生の中でも氏忠は知っている。
「私はもう長くないかもしれない。私が死ねば、世は乱れるだろう。必ず大乱が起こる」
あの老人が言っていたことと同じだ。だが、力ある皇帝が死に、皇太子はまだ幼いとなれば、その皇帝の地位を狙って兵を挙げる者がいることは珍しいことではない。あの老人の話は予言でも何でもなく、もうすぐ皇帝の命が尽きようとしており、そこから必然的に起こるであろう事態を予測したのにすぎなかったのだろうか。
「そこでお願いがある」
「はい」
「私に万が一の時も、決して皇太子のそばを離れないでほしい。あなたの身の安全のためでもある。あなたのことを想ってそう言うのだ。ただ、このことは誰にも言わないでくれ」
なんだか他言無用のことを聞かされるのが、氏忠の運命のようにさえ感じられた。
「自分は故国では
そこへ、皇后が手に水の瓶を持って戻ってきたので、この話はそこまでとなった。それにしても異国のものである自分に、自分の国の帝以上に親しみを持って話して下さる皇帝なのだ。自国の帝は二つ年長なだけでほぼ同世代であるのに対し、この皇帝は父親かあるいはそれよりちょっとだけ若いくらいの年齢である。そういうこともあるのかもしれないが、氏忠はこの皇帝に対しますます親近感と忠誠心を強くしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます