……今年の正月、氏忠が十六歳になった時に新律令りつりょうが施行され、氏忠の父の冬明がそれまで就いていた中納言という役職は廃止された。多くの中納言はそのまま大納言に昇進したけれど、父はそれを辞退して隠居した。氏忠は右小弁で衛士佐えじのすけを兼ねていたので、人からは弁佐べんのすけと呼ばれていたが、その官職は新令制になっても変わらなかった。ただ、位階の称号は改変されて、これまでの直広参じきこうさん正五位下しょうごいのげと称されることになった。だが、そんなことよりも失恋の痛手が消えないでいた氏忠は、雲の彼方にあるという唐土にでも行ってしまいたいとさえ口走る毎日だった。その言霊の力が神に通じたのか、なんと四十年もの間途絶えていた遣唐使が再開するということになり、その一員に氏忠は選ばれた。

「唐土に渡って見識を広めて、その才能をさらに伸ばしてきてほしい」

 帝は、そうおっしゃっていた。そんなときに、氏忠が遣唐使に加わることを知った神奈備皇女が人づてにそっと届けてくれた歌を、今も氏忠は持ってきている。布切れに漢字ばかりでこう書いてある。

 ――もろこしに 添いて旅立つ 我が心 共に必ず 帰らせ給え

 神奈備皇女は形だけの入内で、幸せにはなっていないのだと思う。歌といえばもう一首、別の筆跡の別の歌が手元にある。氏忠を乗せた船が大宰府の近くの大津浦を出航した時、そこまでついてきた母が船が見えなくなるまでずっと袖を振っていた。その様子を船で知り合った例の貴人が見ていて、歌にして書いてくれた。やはり漢字ばかりだ。

 ――海原の 沖行く船を 帰れとか ひれ振らしけむ 松浦佐用姫まつらさよひめ

 自分が見た袖を振っていた女性が氏忠の母であったことを後になって氏忠から聞いたその男は、氏忠の母を伝説の松浦佐用姫まつらさよひめになぞらえていたのだ。歌が書かれた布切れはこうして手元にあるのにこの部屋の中といい、そして今日自分の目で見てそして体験したことといい、まぎれもなく異世界を氏忠は感じていた……。


 翌朝氏忠が目覚めても、そこは異世界だった。ルシェという少し赤髪の給仕メイドが朝食を持ってきてくれた。昨日説明を受けたパンという食べ物のほかには鶏の卵を焼いたもの、生野菜、そして紅い茶が添えられていた。

 ルシェはリニよりももの静かな感じだったが、美人であることに引けはとらない。包み込むような暖かな微笑みを、氏忠に向けてきた。

「よくお休みになれましたか?」

「ええ。布団がとても柔らかいので」

「どうぞ、何かありましたら何でもおっしゃってください」

 そう言ってルシェは下がっていった。

「お着替えをお持ちしました」

 食器を下げに来たルシェは、この国の服装と思われる上下一式を氏忠に渡した。きらびやかな、一目で貴人と分かる服装だった。着替えてみると、自分の体格とぴったりだったので驚いた。

 今日は午後のお茶の会に皇帝陛下よりお召しがあるということだったが、それまでは何もなさそうだ。ここに来て、これからどんな生活が始まるのだろうと不安ではあったけれど、さしあたっては何も始まらないようだ。

 窓から庭を見ると、ここは一階なので木々や色とりどりの花が咲き乱れる庭園が直接間近に見えた。その向こうはちょっとした人工の森で、そのまま斜面となって城の下の町まで続いている。しばらくはその庭を眺めていた氏忠は、鐘を二つ鳴らして執事のレンブラントを呼んだ。レンブラントはまるですぐ外の廊下で待機していたのではないかと思えるほど、本当にすぐに表れた。

「あの、庭に出てみたいのですが」

 恐る恐る氏忠が申し出ると、レンブラントはにこやかにお辞儀をした。

「それでは、庭に出る出口をお教えしましょう」

「自由に庭に出ていいのですか?」

「構いませんよ。ただし、城の外の町へと行かれる場合は私を通して、昨日紹介した護衛のボプとルイを必ずつけてから行かれてください。氏忠様に何かありましたら、私どもの責任となりますので」

「城の外にも行っていいのですか?」

「ただし、皇帝陛下のお召しがない時に限りますが。それと、城壁の外へ行かれるのはご遠慮ください」

 城壁の外には人を喰らう巨人がいる……なんてことはまさかないだろうが、恐らくそんな所に行こうなんて気にはならないと思うので、氏忠はうなずいて返事をしておいた。

 そのあと、レンブラントに案内されて庭に出た氏忠は庭園をしばらく散策していた。

 何もかもが故国と違う。遠い空の彼方を眺め、今自分が置かれている立場を氏忠はかみしめようとした。でもまだ、なんか実感がわかない。まずはここがどこなのか分からない。故国での出来事など、遠い昔のようだ。

 今ここは総てが明るい陽ざしに包まれ、庭の花々の上には蝶が飛び、振り返ると白亜の宮殿とそれを囲む尖塔が空高くそびえている。

 もうこうなったらじたばたしてもしょうがない。腹を据えるしかないかと、そう氏忠は思い始めていた。

 やがてかなり日も高くなり昼どきのようなので、氏忠は部屋に戻ることにした。庭から建物に入る扉の前には警備の衛兵が一人いたが、氏忠の顔を見ると軽く会釈して氏忠のために扉を開けてくれた。

 それからしばらくして、皇帝陛下からのお召しである旨をレンブラントが告げに来た。この国に持参した彼の楽器もすべて持参するようにとのことで、それはボプとルイに運んでもらうことになった。

 昨日の謁見の間よりもかなり小ぢんまりとした部屋に通された。ここで皇帝の一家は、午後のお茶を楽しんでいるという。

 その部屋の入り口の左右には、数人の将軍レベルと思われる武人が控えていた。昨日、氏忠たちを案内してくれた魔導大将軍のテイセン将軍もその中にいた。

 部屋に入ると小さい方卓テーブルが縦長に置いてあり、その向こう、すなわち部屋の一番奥に皇帝が座っていた。だが、本来そこは一人分の広さしかないのだが、椅子を詰めてもう一人、女性が隣に座っている。皇帝と並んで座り、しかもきらびやかな衣装から、皇后なのではないかと推測される。皇帝よりもかなり若そうで、透き通るような美人に思えた。

 その顔を見た瞬間、氏忠の心の中で何か衝撃のようなものが走った。「懐かしい」とそういう言葉で表せられるほどはっきりしたものではないにしろ、なにかそれに似た感情が一瞬だけ駆け巡ったのだ。

 そしてその向かって左の側には十歳くらいと思われる少年と、その手前には十二歳くらいの縦ロールのドリルヘアの少女が席に着いていた。右の側にはしかめ面の貴人が座している。方卓の上にはそれぞれの前に白い茶杯ティーカップと、さらに上にさまざまな菓子が盛られてあふれんばかりだ。

 皇帝一家の背後からは、リニ、ルシェ、セシルの三人の給仕メイドが茶を注いだり、空の皿を下げたりと仕事をしている。彼女ら三人は氏忠の専属というわけではないようだ。氏忠に食事を給するのは、一日のうちほんの短い時間でしかないことを考えたら当然だろう。

 その方卓の手前に、氏忠は立て膝で畏まった。

「お召しにより、参上しました」

「ああ、よく来られた」

「そこでは顔がよく見えませんわ。お立ちください」

 皇帝の声に続いて、その隣の皇后と思われる婦人からも声がかかった。氏忠は立ち上がって、もう一度会釈をした。婦人はにっこりと笑っていた。だが、その手にあった茶杯ティーカップは自分が飲むのではなく、今まさに皇帝の口につけられていた。飲ませて差し上げているようだ。やはり皇帝は目が見えないのではという憶測は、憶測ではないようだった。だから狭いスペースに無理矢理二人座っているのだろう。

「近くで見ると、さらに素敵な顔立ちですこと」

 皇后は、なぜか氏忠の顔を凝視している。「近くで見ると」ということは、前にも氏忠の顔をこの方は見ているのかとも思うが、そんなことを深く考えるには氏忠は緊張しすぎていた。その向かって左の少年も、親愛の目を氏忠に向けている。だがその手間の少女はなんら関心がないようで、菓子をつまみ続けている手を止めようともしなかった。

 そして、右側の貴人は、さらに威圧感を持って氏忠をじろっと睨むと、すぐに目をそらして茶をすすっている。

「なんでも、楽の奏者としてこの国に来られたとか。早速ではあるが、腕前を披露していただけませんか」

 皇帝からの直々の言葉だった。すぐに皇帝の従者たちによって氏忠の楽器が準備され、氏忠は椅子に腰かけて演奏する態勢に入った。まずは簡単なところからということで、横笛だった。その旋律に包まれた部屋には、他のもの音は一切なく、時間さえ止まったかと思われるほどだった。うっとりと聞く皇帝と皇后、またそれ以外の人々もそれぞれに無言で笛の旋律に耳を傾けていた。そうして三曲ばかり、いずれも氏忠に故郷の楽であった。

 次の氏忠の手にあったのは琵琶だった。また違った趣の旋律が部屋を包み、その中で特殊な時間が過ぎていった。

 見ると、皇帝の見えないはずの目から涙の粒が落ち、皇后に至ってはどんどんと涙を流していた。感心なさげだった女の子すら、もう言葉をなくしたように氏忠の奏でる旋律に聞き入っていた。

 曲が終わると、拍手喝采だった。

「いやあ、素晴らしい。時が止まったように感じられましたぞ」

 氏忠は少し照れたように笑みを見せ、頭を下げた。

「おほめ頂き、光栄です」

「詩文もよくすると聞きました。詩の方はどのような?」

 皇帝に言われ、氏忠は自ら作った詩を唐音で吟じた。最初は皇帝も皇后も不思議そうな顔をしていたが、終わるとまた拍手喝さいだった。皇后は、まだ泣いていた。

「言葉の意味は分かりませんが、素晴らしいお声と素晴らしい音色です」

 皇帝に言われて、やはりここは唐土ではないと実感した。彼らは日本語は流暢に話すのに、唐音は全く解せないようで、唐音で吟じた詩はどこか知らない異国の言葉での歌とでも聞こえたのだろう。

 それから、皇帝や皇后から代わる代わるいくつかの質問が発せられた。主に氏忠の故国のことであったが、政治的なことよりも文化的なことの方が多かった。だがしだいに話は故国のことよりも、氏忠の個人的な身の上のことへと移っていった。故国での官職、妻はいるのかどうかなどで、まだ独り身でいるということに皇帝は驚きの表情を見せた。そして話が、故国では帝のおそばにお仕えしていたことにも及んだ。

「それならば」

 皇帝は見えない目で、しきりに氏忠の存在を探していた。

「昨日も言いましたように、私のそばにも仕えてください」

「はい。よろこんで」

 まさか嫌ですとは言えないし、言う必要もなかった。

「それならば」

 隣で皇后もにっこりと、こちらはしっかりと氏忠を見て言う。

「しかるべき官職にもお付けしましょう」

 その時、バン!と卓を両手で叩く音がした。皇帝の向かって右にいた貴人だ。

「兄上も義姉あね上もいいかげんになさってください」

 すごい剣幕だ。

「兄上はこれまで順調に世を治めて来られた。貧しい民草の一人一人にまでお気をかけて来られたということは知っている。しかしだ!」

 語調が激しくなった。貴人は立ち上がった。

「いくらなんでもどこの国か分からない遥か遠くの外国から来た、こんな若い少年を近くに置いて徴用するなど、世の乱れにもなりましょう」

「まあ、落ち着け」

 皇帝がなだめても、貴人は立ち上がったままだ。何だか自分のことで目の前で言い争いが起きているのに、自分は口もはさめないというのは氏忠にとってもどかしくもある。ただ、この貴人は皇帝を兄上と呼んだことから、皇帝の弟なのだなということだけは分かった。そうでなければ、皇帝に対してこんな強い口調でものを言うこともできまい。

 だがそんな義弟に皇后も静かにたしなめるように言った。

「昔、この国の名宰相といわれた亡きカール・ホーカンソン卿も外国の人でしたよねえ。人材を登用するには、その人の出自や年齢などではなく、才能をこそ見るべきでしょう?」

 皇帝の弟の貴人は、じろっと皇后を睨んだ。

「兄上がご病弱なことをいいことに、カーテンの陰からこそこそとこの国の政治を牛耳ろうとしている義姉あね上には言われたくない!」

「メーレンベルフ伯! 言いすぎですぞ!」

 部屋の外に控えていた将軍の一人が、血相を変えて部屋の中に乱入した。

「兄上! よいのです。陛下の御前ですから。異国の方もいらっしゃいますし」

 この将軍は皇后の兄? そう思っていると、メーレンベルフ伯と呼ばれた皇帝の弟は音を立てて椅子を蹴り、そのまま部屋の外へ出ようとした。

「ああら、叔父上。せっかくのお茶会なのに、無粋ではございませんこと?」

 テーブルの手前にいた少女がにこりともせず、刺すような視線をメーレンベルフ伯に向けた。メーレンベルフ伯は一瞥しただけで何も答えず、部屋の外に向かって叫んだ。

「デルク! 帰るぞ!」

 部屋の外に控えていた将軍の一人がそれに従った。巨体だ。メーレンベルフ伯が連れてきた将軍のようだが眼光鋭く、身のこなしから飢えた猛獣のような印象を受けた。

 そしてその将軍は、メーレンベルフ伯に従って退出する間際に、氏忠と目があった。まるで鬼の形相に、氏忠は全身に鳥肌が立つ思いだった。その赤く燃える目は、はっきりと氏忠に敵意を持っていた。

 氏忠は、ただぽかんとしてしまった。何だかこの国は、穏便なようで厄介な国なのかもしれない……官職をもらえるのならばそれで思う存分皇帝のそばで忠義を尽くすつもりにはなったが、それは一筋縄ではいかなさそうなので氏忠は気を引き締めた。


 部屋に戻ってから、レンブラントに人間関係の説明を求めた。まさかあの場で自分が皇帝にそれを聞くわけにはいかない。

「皇帝陛下のお隣がおきさき様でございます」

 やはりそうかと思う。

「そして皇太子のニコラス皇子」

 自分よりもかなり若いあの少年かと氏忠は思う。

「そして第二皇女のフェリシア姫」

 あの強気の少女だな。つまり、皇太子の姉ということか。

「右側が皇帝陛下の弟君で、エティルンドという地方の領主ですのでエティルンド王メインデルト様、一般的にはメーレンベルフ伯と呼ばれています」

 あの啖呵を切って退出した貴人か……ひと癖ありそうだな。

「外にいた将軍は?」

「部屋に入ってきましたのがお后様の兄君のエルベルト・ウーレンベック様。近衛軍団の将軍です。メーレンベルフ伯が連れてきていましたでかいのがデルク・ヴォルテルスと申しまして、ヴィッテ・テイヘルの異名を持っております」

「それはどういう意味ですか?」

「白い虎です」

 それほど強いのかと思う。でもあの体格と圧力は並大抵のものではなさそうだった。

「どうも僕が原因で兄弟仲違いをさせてしまったようですね」

「いえいえ、実は皇帝陛下、とりわけお后様とメーレンベルフ伯の不仲は今に始まったことではありません。今日はたまたまこのインテルミナーティ城に所用でお立ち寄りになったのでお茶会に珍しく出席しておられましたけれど、案の定この有様です。お恥ずかしいところをお見せしました」

 やはり複雑な内情があるようだ。

「皇帝陛下のお子はあのお二方だけですか?」

「いえ、皇子様は八人、姫様は四人おられます。今日のお茶会に出ておられたお二方のみが、今日おられたお后様のお子なのです」

 やはり、自分の国の皇家おうけのことを考えても、皇帝に子が二人だけというのはあり得ない。でも、今日会った皇太子はいいにしても、その姉のフェリシア姫、こちらもまたひと癖ありそうだと氏忠は感じていた。

 いろいろな名前を聞いたけれど、この国の人の名前は氏忠にとっては不思議な響きで、実はほとんど頭には残っていなかった。

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