眠っているというよりうつろな意識の中で、日本を発つ前の記憶を無意識に反芻していたようだ。神奈備皇女が手の届かない人になってしまったのは夢ではなく、まぎれもない現実。まどろみの中でそんなことを回想していた氏忠は、パッと目を開けた。

 昨夜は嵐で、この船は沈みそうになったのだ! それを思い出して船内を見渡し、氏忠はものすごい違和感を覚えた。状況を把握するのに、時間がかかった。

 もうすっかり明るくなっていて、外からは日差しさえ射している。しかも大半の人々は、一昨日の夜のように整然とまだ眠っている。荷物などを見ても、何事もなかったようにきちんと積み上げられ、船も海の上にいるのかどうか分からないくらい静かに航行していた。

「あれ? 嵐は?」

 氏忠は慌てて上半身を起こし、もう一度船内を見た。あれだけ大波に翻弄されたのだ。船内はもうめちゃくちゃの状況になっていてもおかしくない。それが、なっていない。

 その時、甲板の方から先に起きていた人々の騒ぎ声が聞こえた。

「陸地だっ! 陸が見えたぞ!」

 その声に寝ていた人たちも一斉に跳ね起き、皆でこぞって甲板へと出た。もちろんその中に、氏忠もいた。

 目を覆いたくなるような強烈な光が、いきなり氏忠を包んだ。もうすっかり夜も明けている。見渡す限りの青い大海原だが、人々が身を乗り出して見ている船の進む先には確かにうっすらと陸地が横たわって見えた。

 ――唐土ってこんなに早く着く場所なのだろうか?。

 氏忠がそう思っていても、だんだんだんだんと陸地は近くなる。

 氏忠はさらに異変に気が付いた。遣唐使としてこの船に乗り込んでいる四十人ばかりの人たちは立場はそれぞれ違うが、もう何日も狭い船の中で生活を共にしてきたのだから、かなり互いの顔は見知っていたはずだ。だけど、今氏忠の周りにいる人々は、なぜか一度も顔を見たこともない人々ばかりのような気がする。

 氏忠は沖を見て、他の三隻の船を捜した。が、いない……大海原にいるのは氏忠の乗る船のみで、あとの三隻は影も形もない。

「あの、ほかの船は?」

 氏忠はそばにいる人に聞いてみた。

「は? ほかの船?」

 きょとんとした返事が返ってきただけだ。

「一緒に筑紫を出港したほかの三隻の船ですよ」

「何を言っているのですか? 最初からこの船だけでしょ」

 鼻で笑われた。そう言われても納得がいかず、氏忠は右舷から左舷へ移動し、また船の後方まで行ってすべての方角の海を見たけれど、他の船の船影は全く見えなかった。

 まさか昨日の嵐で三隻の船は……嵐? そうだ、嵐! 嵐はいったいどこに行ってしまったのか?

「昨日、すごい嵐でしたよね」

 また、そばにいる人に聞いてみた。

「はい? いつ、嵐なんかあったのですか?」

 表情もなく言われた。もう、呆然とするしかなかった。

 夢? いや、違う。あの嵐は間違いなく現実だった。

 氏忠は昨日この船べりで言葉を交わした博識そうな男を探した。だけど、狭い船の中のどこを探してもその男の姿はなかった。

 そうこうしているうちに、どんどん陸地は近づいてくる。そして、その男と交わした会話の記憶の中から、氏忠はまたある重要なことを思い出した。

 もう目の前に陸地は近づいているというのに、海はこれまでと同様どこまでも青い海だ。海の水が黄色く変わるなどということはないまま陸地に着きそうだ。そして氏忠たちを乗せた船は普通に青い海の上を滑って、港と思われる入り江に静かに入っていった。


 氏忠は一度船室に戻り、下船の準備をした。誰もが同じようにせわしなく動いている。依然として皆、出航のときにはいなかった見知らぬ人ばかりだ。

 なんとか荷物をまとめて再び甲板に出た。

 氏忠は少し慌てていたのかもしれない、人々を押しのけて早めに船から降りようとした。すると、前にいた少し年配の貴人らしき人が振り向いて氏忠を見た。

「慌てないで! まずは大使様が降りられてからでないと、いろいろとまずいですよ」

「大使様? 大使様がなぜこの船に?」

「え? 大使様がおられない使節団などあり得ないでしょう?」

 貴人はまた鼻で笑った。それは確かにそうだ。でも、大使様はこの第四船ではなく、第二船に乗られているはずだ。何かが狂っている。

「大使様とは、どなたですか?」

 貴人の顔が曇った。

「大使様も知らないで、この船に乗っていたのですか? 大使様は式部大輔の阿倍関麻呂様でしょ」

「え? 阿倍関麻呂様? ……って?」

 氏忠は耳を疑った。実は氏忠は右小弁のほかに式部少輔も兼任していた。だから、式部大輔が阿倍姓の人でないことは十分知っている。阿倍姓は、今の朝廷の偉い人でも右大臣阿倍御主人みうしがいるだけだ。そもそも阿倍関麻呂などという名前は全く初めて聞く。しかも本当の大使が誰か、氏忠ははっきり知っている。第二船に乗っている大使は左大弁高橋笠間、そしてその上位の執節使として第一船に乗っているのは粟田真人だ。

 もう何もかもが狂っている以上、そういった名前を出して周りの人に抗うよりも、彼はもう口を閉ざすことにした。

 甲板にひしめく人の後ろから見ていると、大使然としたいかにもそれらしい貴人が何人かの警護のものに囲まれてゆっくりと船を降りる背中が見えた。船の中の人々も次々に荷物を担いで船を降り、ほとんど最後という状況で氏忠も初めて立つ大地を踏んだ。

 港にはたくさんの船が停泊していた。小さな船が多かったが、この遣唐使船の何倍もあると思われるような巨大な帆船も見えて、ただただ驚愕だった。

 入り江を取り囲むようにして広がる町の建物もこれまで見たこともないような奇妙な形で、さすがに異国に来たのだということを実感せずにはいられなかった。

 すべての建物は箱のような白い壁で、その上にだいだい色の三角の屋根が乗っている。なんと建物は二階建てか三階建てが普通、一番上の屋根までは壁は垂直だ。氏忠の知る二階建ての建物といえば内裏の大極殿や楼門くらいで、町の建物が一様に二、三階建てなどというのもまた驚愕だった。中にはきちんと同じ形、同じ大きさの赤い石を積み上げられてできている建物もあって、どうも倉庫のような気がした。さらに海に突き出た所には円筒形に石が積み上げられてできた建造物もあって、見張り台のようだ。そして道という道はすべて石が敷き詰められた石畳なのだ。

 そしてさらに驚いたことがあった。

 氏忠たちが上陸したところはやはり石畳でできたちょっとした広場であったが、そこに馬に乗った多くの騎兵が横一列に並んで上陸した遣唐使たちの前を塞いでいたのである。

 騎兵はおびただしい数であった。当然馬上の人たちは鎧をつけている。見たこともない形の鎧だが、それもまたここが異国であることを感じさせて新鮮だった。

 でも、実はそんなことを言ってはいられない。騎兵たちが手にしたやりで一斉に攻撃を仕掛けてきたら、武器など何も持たない我われはいちころである。だから緊張感が走る。

 ところが周りを見渡すと、同船して来た人々はなぜか異様に落ち着いている。そして騎兵団の中央に大将らしき人がいて、一歩前に出た。大将は鎧の顔を覆っている部分を挙げた。

「ああっ」

 氏忠は驚いて声をあげそうになった。彼が知っている人種の顔ではなかった。まず髪の毛が銀色である。鼻が高い。そして目が青い。だが、同船して来た人々は誰も驚いていない。妙に落ち着いて、というか誰もが全く感情がないように無表情でその大将を見ている。

 大将は、まずは言葉が通じないだろう。しかし、遣唐使船にはどの船にも唐語通詞が乗っているから心配はない。これから何かしらの交渉が始まるはずだ。なんか変だなと思いつつも、ここは黙ってことの成り行きを見守るしかない。

 ただ、氏忠は、本当にここは唐土なのだろうかと気になってきた。騎兵の大将らしき人の異様な風体や人相の違いからも、また町全体の様子からもなんか違う。もちろん日本とは全然違うからこそ異国なのだろうけど、氏忠がこれまで見たことのある唐土の絵とも違いすぎる。また都で何度か唐人と会ったこともあるが、皆日本人と同じ顔をしていた。

 まさか昨夜の嵐でとんでもない所に流されたのか……。

 そして次の瞬間、氏忠のそんな疑問などよりももっと大きな衝撃を受けた。

「遠路はるばるご苦労様です」

 騎兵の大将は、はっきりと日本語でそう言った。聞き間違いではない。しかも、唐人が話すようなたどたどしい日本語ではなく、日本人と変わらない流暢なものだった。

「大使、阿倍関麻呂でございます」

 大使が大きな声で答えている。

「お待ちしていました」

 やはり我われがこの港に到着することが分かっていたようだ。そんなばかな話はあるはずはないともう一度思ったけれど、でも騎兵の大将は間違いなくそう言った。

「すぐに帝都へとご案内いたします」

 騎兵たちは上陸した彼ら一行を攻撃するどころか、正反対に護衛する形となって彼らを誘導した。

 道の両脇の建物沿いには、多くの市民たちが立って彼らを見物している。だが敵意は全くなさそうで、皆にこにこと歓迎の意を表してくれているようだ。だがその人々の服装や顔つきもまた、氏忠を驚かせるのに十分だった。

 かつて遣唐使が始まって以来、我が国の官人の服装は唐風となった。つまり、服装で日本と唐ではあまり差異はないはずだ。ところがこの町の住民の服装は、今まで見たこともない異民族のそれだった。

 男性は体の線にぴったり合った服で、頭髪は短く頭には何もかぶっていない人も多い。女性は裳がふわりと膨らんだような奇妙な格好だけれど、驚いたことに特に若い娘などはその長さが膝の上までというのも多く、足が丸出しだ。さすがに目のやり場に困る。そして服装ばかりでなく人々の顔つきも、先ほどの騎兵の大将のように堀が深く白い肌で、目が青い、そして髪の色は実に色とりどりだ。赤茶けた髪、銀色に光る髪、そしてまばゆいばかりの黄金色の髪の人も男女ともに少なくない。すべての人が、明らかに日本人とも唐人とも異なっていた。

「ここ、どこなんですか?」

 石畳の上を歩きながら、氏忠は隣を歩いていた同じ船から降りた若い人に聞いてみた。

「私たちの目的地、フルメントム帝国の港町フーエイでしょ。私たちはここを目指して来たんですからね」

 特定の港を目指すなんて、そんなことが……。それよりも第一、遣唐使なんだから唐土を目指して来たのではないのか……? ここは唐土ではない? 

 もはや常識的な問いはやめよう、疲れるだけだ。氏忠はそう思った。

 そして服装や顔つき以上に、氏忠を驚かせたことがある。やたらと耳が長い人たちがいる。割合はそう多くはないが時折、耳の先端がとがって上に伸びている。最初の一人を見た時は何か装飾品をつけているのだろうと思ったけれど、人混みの中でそれが三人、四人と見つけるたびに本物の耳なのだと気付いた。男もいれば女もいるし、年齢も関係なかった。

 また、そのほかにも背丈が他の人よりも半分くらいなのに子供ではなく、がっしりとした体格で、顔が一様に濃いひげで覆われている男も少なからず人混みの中に混ざっていた。

 そこまでなら、異民族にはこういう人もいるのかでかたづけようとすればできた。

 でも、もう極めつけのような感じで人混みの中に見つけてしまった人は、顔が狼だった。ご丁寧に立派な尻尾もある。だが、二本足で立って、ちゃんと服も着ている。

 氏忠は頭がくらっとするのさえ覚えた。

 ここはどこなんだ……周りを一緒に歩いている人たちは、そんなことを気にしている様子も全くない。自分はどこに着いてしまったのか……。少なくともここは唐土ではない。

 ずっと三階建ての家が両側に続く道は、幅が狭くなって登り坂になり、やがてまた視界が開けた。そこには巨大な建物があった。簡単な柵に囲まれた広い庭の向こうにある白い石造りの建物は日本の都の大極殿ほどの大きさはあるが、やはり屋根は最上部に乗っているだけだ。窓が縦横にきれいに並んでいる。その窓の列を数えて初めて四階建てだと分かった。その前面には水をたたえた巨大な鉢も据えられ、なんとそこから水が垂直に吹きあがっていた。その前のかなりの面積の広場となっていた。

 氏忠たち一行は騎兵の大将からそこへと招き入れられた。その広場の中央に、きらびやかな服装の貴人と思われる初老の男が供のものたちとともに立っていた。貴人は遣唐使たちの方を見て、立ったまま軽く会釈した。

「遠路はるばるご苦労様です」

 またもや流暢な日本語だった。

「私はこのフーエイの郡長官のエイナル・ヘドルンドと申します」

「大使の阿倍関麻呂です」

「皆様にはご足労ですが帝都の方より、今日中に帝都にご案内するようにとの指示が来ておりまして、申し訳ないのですが準備ができ次第帝都へと飛んでいただきます」

「承りました」

「間もなくドラゴンも到着いたします」

 ドラゴン……? 

 氏忠にとって聞いたこともない言葉だったので、よく聞き取れなかった。

 今さらながらに気がついたが、よく晴れているにしてはそれほど暑くはない。本来なら真夏の炎天下のはずだ。

 とにかく何から何までわけがわからない。もう頭がおかしくなりそうだった。そんな氏忠にとって、最後のとどめともなりそうな極めつけの衝撃が空から降ってきた。

 かなりの広さがある庭でかたまりとなって待機していた彼らの頭上から、自然のものとは思えない一陣の風が吹いてきた。上空に何かあるというような気配を感じた氏忠は、何気に見上げてみた。

「うわっ! 何だあれは!」

 思わず氏忠が挙げてしまった大声に周りの人々も同じように空を見上げたが、誰もが平然として上空に飛来した巨大な物体群をただ眺めている。次第に下降してくるそれらはどうも生き物のようで、巨大な翼と長い首を持っているようだ。だが、氏忠がこれまで見たことのあるどの鳥よりも巨大だった。

 どうも鳥ではない!

 さらに下降してくるにつれて、とにかく巨大な生き物が翼をはためかせているとしか思えなかった。それらは羽ばたきながら、庭の氏忠たちのいるすぐそばに次々に飛来しては地上に降りていく。その数ざっと十羽(頭?)はいる。

 氏忠の知る範囲の殿生き物よりも巨大で、胴体だけでちょうど乗ってきたあの遣唐使船と同じくらいの大きさだ。顔は恐ろしく、竜のようでもある。でも、氏忠が知っている(といっても絵画で見ただけだが)竜と違って体は蛇状に細長いわけではない。首は長いがそれがついている胴体はずんぐりとして、四本の脚も太くてがっしりしていた。そして何よりも違うのは蝙蝠こうもりの羽のような、それでいてそれよりもはるかに巨大な翼がついていることだ。色は全体的に赤茶色っぽく、羽毛も体毛も一切生えていなかった。竜のような鱗もない。

 次々に地面に到達したそれらは羽を休め、四肢を折って長い首を下ろした。

 氏忠は恐怖のあまり逃げ出したかったが、体がすくんでしまって身動き一つできない。

「皆さん、ドラゴンが到着しました」

 先ほどの郡長官が言った。対する阿倍大使も、なぜかにこにこしている。

「このドラゴンならあっという間に帝都ですな」

「結構快適です」

 大使も他の人たちもなぜ驚かないのかと、それが氏忠には不思議だった。よく見ると、彼らがドラゴンと呼んだその生き物の長い首の付け根と翼が生えているところまでの間の背中には馬の鐙のついた鞍がいくつか置かれている。すでに一番先頭には御者ぎょしゃ然としたこの世界の服装の若い男が、どのドラゴンにもすでに座っていた。

「ではみなさん、乗るとしましょう」

 大使が声をかけると、遣唐使一行はなぜか嬉々として思い思いのドラゴンを選んでその背中に這いあがり、鞍に座る。一頭のドラゴンには御者以外にあと四人ずつ乗れるようになっている。

 氏忠も乗らずに残るわけにもいかないので、他の人と同様に一頭のドラゴンに乗ろうとした。が、なにしろ馬よりもはるかに高い所に鞍があることになるので、どう上ったらいいか分からない。

 するとすでに座っていた御者が彼の手を取って引き上げ、なんとかよじ登る形で這い上がった。まだ地面にいるというのに、かなりの高さだ。御者は馬の手綱のような綱を持っており、その先端はドラゴンの頭の角に結びつけられていた。全員が乗ると、御者はその綱を引く。するとドラゴンは頭をもたげ、それまで水平だった鞍の上が上向きに上がる形になった。前の鞍の後ろに手すりがあって、それを握るようになっている。

 氏忠はただ身を固くしていた。彼らの個人の荷物や遣唐使としての荷物は一つの大きな箱に入れられ、それを綱で吊るす形で一頭のドラゴンが口にくわえた。どのドラゴンも翼を大きく広げ、一斉に羽ばたいた。上昇感とともに、氏忠の身も中に高く舞い上がった。ただただ恐怖で手すりにしがみついているというのが現状だ。下を見る余裕などない。ただ、前に座っている人の背中と後頭部を凝視するだけだ。

 かなりの高さまで上がるとともに、ドラゴンは前進を始めた。息もできないような強風が吹きつけられるが、ドラゴンの首と前に座っている人の背中がある程度の風除けにはなる。真下の地面は見えないが、遠くの景色はよく見える。氏忠がこれまで登ったことのある度の山よりも高い位置をドラゴンは飛行していた。それだけに、遥か彼方の世界までもが見渡せて、遠くの山や海も見え、海と空の境目の水平線はかすんで見えた。

 ただ、前方もドラゴンの首の向こうなので見えない。

 そのうち、なんとか落ち着いてきた。それというのもドラゴンの背中は振り落とされるような感じの揺れ方はせず、非常に安定していて乗り心地がよかったからかもしれない。地上で普通に静止しているこの巨大な生き物の背中にまたがっているような感覚だ。ゆっくりとした上下の動きはあるけれど、手を離しても大丈夫なような気さえしてきた。

 そうなると、ある程度冷静に今の自分の状況を考えたりする余裕も出る。いったい今自分は、何を経験しているのか……。

 どう考えても普通ではない。奇妙な顔つきや奇妙な服装の人々が住む町に到着したというだけなら、唐土とは違うどこかほかの国に着いてしまったのだと考えることもできる。

 でも今、自分は何に乗っているのだ? いくら唐土とは違う国でも、こんな状況があり得るのか……?

 もはや国が違うだけではなく世界が違うのでは? つまり、日本や唐土を含め自分たちが住む世界とは全く違う異世界に来てしまったのではないかとさえ思う。

 気がつくと、もうかなりの時間を飛行していた。空を飛んでこんな長い時間なのだから、船やあるいは歩いてなどだともう何日もかかる距離を移動してきたのかもしれない。

 ドラゴンたちはゆっくりと下降を始めた。そしてなんとなく視界に入ってきた風景に、氏忠はまた驚いた。海沿いに展開される城壁に囲まれた巨大な町、そしてその中央の丘の上に城がそびえている光景、もしかしたらこれが今目指している帝都なのかもしれない。

 上空から氏忠は、その全景をしっかりと観察した。規模は日本の藤原の都よりも数倍も大きい。王城と思われる巨大建築が中央に位置しているのは日本の都と同じだが、決定的に違うことがいくつかあった。

 まず、帝都全体が海に突き出ており、半分は海に面していることになる。そして全体の形は四角ではなく、丸いといった感じだ。日本の都が唐土の都を模したと氏忠は聞かされてきたし、それならば唐土の都も四角いはずである。それに都の中も道が縦横になっておらず、中央の丘の上の王城から道は放射状に延びているように見える。

 そのように全景を見せていた帝都であったが、ドラゴンが高度を下げていくにつれ、周りを囲んでいる、そびえるような城壁に隠されて見えなくなっていった。


 彼らが降り立ったのは城壁のそばの広い場所で、基本的に城壁の外は原野だった。そこにはすでにおびただしい数の騎兵、また甲冑を着した歩兵が左右に分かれて整列しており、その中を通って城壁の門へと至るようだ。

 一行が全員ドラゴンから降りて、大使の阿倍関麻呂を先頭に歩きだすと、兵たちは一斉に槍を垂直に構えて歓迎の意を表した。

 そこには何台かの馬が引く車が用意されていた。大使の車は中に柔らかく横に長い椅子があるようで、金銀をぜいたくに使った装飾があって、脇のドアから乗り降りするようになっていた。それ以外の車は大人数乗りで、それでも一応屋根はあった。氏忠にとって、そのような車を馬が引くというのが何とも不思議だった。日本では馬はあくまで直接乗るものであって、荷物を乗せた車を引かせることはあっても、このように人間が乗る車を馬が引くことはなかったからだ。

 彼らがその車に乗る前に、出迎えに出ていた身分がありそうな貴人たちが大使の前に立った。そしてその中の一人が、氏忠ら一行全員に聞こえるような声で言った。

「やまとの使節の皆さん、我がフルメントム帝国の帝都ロンガパーチェにようこそ。皇帝プリオリウス・リーフェフット三世陛下もインテルミナーティ城でお待ちです。私は皆さんをご案内する役の魔導大将軍クーン・テイセンと申します」」

 氏忠にとって舌をかみそうな聞き慣れない地名や人名の羅列だった。

 それからすぐに大使が先頭の豪華な馬車に乗り込むと、その他の人員も詰め込まれるようにしてそれぞれの車に乗り込んだ。

 馬が引く馬車は、軽快な速さで進んでいく。すぐにそびえ立つ石の城壁の門に到着したが、門はすでに開かれていた。門といっても楼門ではなく、城壁についた巨大な大扉といった感じだ。その門をくぐって、そのまま一行は帝都の中に入った。城壁と外と中ではまるで別世界で、広々とした原野が遠くの山まで続く外とは違い、中は建物がひしめき合って人もあふれ、喧騒に満ちていた。建物はここでも港町フーエイと同様に三階建て、四階建ての箱のような白い建物に橙色の屋根が乗っており、それが石畳の道の両脇に続く。彼らが進む道は人々が左右に分けられており、その人垣はどこまでも続いていた。ところどころで、兵士と思わしき人々が群衆を整理している。

 そのまま道はまっすぐに、帝都の中央にそびえているインテルミナーティ城へと続いているようだ。するとさしずめ藤原の都の朱雀大路に当たるのかなとも思うが、あれほど広くはない。しかも先ほど空の上から見たところではこの都の道は縦横ではなく中央の城から放射状に延びていたので、その中の道の一つであろう。どの道もまっすぐにインテルミナーティ城へ続いていることになる。

 上空からではよく分からなかったが、門を入ってから中央の城に着くまでかなりの時間走ったことによってこの帝都の大きさが分かるし、その中央のインテルミナーティ城も近づくにつれていかに巨大かというのも実感として迫ってきた。

 帝都のどこからでも見える小高い丘の上に奇妙な形の白い箱のような建物がいくつもあり、街中の四階建てどころか、もっと遥かにそびえるような高さの造りになっている。それぞれに三角の屋根がついているが、橙ではなく斜面が急な青い色だった。さらにはそれよりもさらに高い尖塔が何基もそびえて青い屋根の箱のような建物を囲んでいる。先端部の屋根は同じ青で、それらがまさに林立しているといった感じだ。

 そのいくつかには上部に展望するための外回廊がついているようなものもあった。そんな城だが、近づくとさらに細部が分かった。中央の建物の正面の入り口と思われるところは大きく口を開けており、その上には巨大な窓がいろいろな色の光を放っていた。その前に庭があるようで、下からは見えないがたぶん池があるのだろう、何本もの水が滝となって勢いよく下の崖に流れ落ち、その下にもまたちょっとした池がある。そのほとりは色とりどりの花で埋められ、それらがすべて青空を背景にして明るく映えていた。

 帝都の外と町は巨大な城壁で隔てられているのに、町と王城との間は簡単な柵がある程度で、門も仰々しいものではなかった。門の中は赤い花が咲き乱れる花壇が続き、その中の石畳の上をしばらく走ってようやく城の上に続く幅の広い石段の下に着いた。

 この後は馬車では無理のようだ。馬車から降りた一行は、両脇をおびただしい数の衛兵が固める中、魔導大将軍クーン・テイセンと名乗っていた案内の貴人について石段を上った。巨大な城はまだまだ上である。あそこまで登るのはちょっとした登山だと覚悟した氏忠だったが、石段を少し乗ったところで以降の足は止まった。

「では、転移魔法でご案内いたします」

 案内の貴人のテイセン将軍は振り返って大使をはじめ一向に対し、何やらむにゃむにゃと詠唱を唱えながら両手をかざした。その両手からは青く光って回転する幾何学模様の魔法陣が広がり、その光が彼ら一行を包んだかと思うと、次の瞬間にはずっと山の上の城の玄関口まで移動していた。

「この転移魔法はある結界以内に入らないと効かないので、皆さまには石段の下まではご足労いただきました」

 そんなふうに、テイセン将軍は説明する。いったいここはどういう世界なのかと氏忠は度肝を抜かれたが、もうたいていのことには驚かなくもなっていた。

 城の宮殿の中は、かなり大きな空間だった。天井は高く、何階もの吹き抜けになっている。それぞれの階が手すりのついた回廊となってそこから下が見下ろせる。これだけ巨大なのに壁はすべてが白い光沢のある石造りで、つやつやに磨かれていて顔が映りそうだ。木で造られている訳ではないようだった。床も同じような白い石だが、ここにはまっすぐに赤い絨毯が敷かれていた。天井は遥か上だが、いくつもの宝石がちりばめられた縁の中に、絵画が描かれたりしていた。

 正面に扉があった。その先は廊下が続く。左右とも何本もの円柱が壁に埋まる形で続いていて、壁は白いがその円柱は黄金だった。

 やがてさらなる大扉があって、その扉は基本は白で黄金の縁取りが施されていた。

「謁見の間でございます」

 案内の貴人が立ち止まってこちらに体を向け、説明した。氏忠は列の最後尾にいたが、それでも緊張した。

 すぐにきしみ音を立てて、大扉は開かれた。窓はないがおびただしい数のかがり火に照らされ、室内は明るく照らされていた。閉め切った部屋でたくさん火を焚くと、息が苦しくなって倒れることもあると聞くが、どうもこの火は本物の火ではなく魔法で照らされているようだ。

 謁見の間はかなり広い。室内にも黄金の柱がきちんと並んでおり、その内側左右二列に百人近く入ると思われる衛兵が整列していた。正面の一段高くなっている所に、玉座が据えられていた。赤い背もたれの黄金の縁取りには、さまざまな色の宝石がちりばめられている。まだ誰も座っていない。大使を先頭にかなりその玉座の近くまで案内され、先頭の大使と副使二人の三人がまず並び、その後ろにその他の人員が十人ずつ横四列に並んだ。

「皇帝陛下、出御あそばされます」

 大使の阿倍関麻呂はその声を聞き、立て膝をついて身をかがめ、頭を下げた。他のものも一斉に同じような姿勢を取った。

 嵐が跡形もなく消えて眠りから覚め、船の乗組員が全員見知らぬ人になっており、聞いたこともない名の大使と同じ船で、何から何まで理解の域を逸脱する港に着いた。そしてドラゴンの背に乗って飛行してこの帝都に至り、巨大すぎる石の城の中で皇帝に謁見しようとしている。それが全部今日という同じ一日の中での出来事なのだが、もう十年分くらいの経験をしたような気さえする。

 普通に唐土に着いて、普通に唐土の都に至り、普通に唐土の宮殿で唐の皇帝に謁見するという時でさえかなり緊張したであろうが、今はその比ではない。

 さらに氏忠は、ものすごく孤独感を感じていた。それは恐怖にも似た感情だった。

 頭の向こうで衣擦れの音がした。

おもてを挙げてください」

 やつれた声がした。顔を挙げると玉座には意匠こそ目慣れないので奇妙に感じるけれど、最高に着飾ったとしかいいようのないきらびやかな衣をまとった壮年の男が座っていた。

 太っている。頭には宝石がいやというほどついた冠をかぶり、顎全体に豊かなひげを蓄え、手には長い錫杖のようなものを持っていた。

 この人がフルメントム帝国の皇帝プリオリウス・リーフェフット三世のようだ。目はうっすらと細めているのか閉じているのか、視線が定まらないようだった。

「やまとの国の大使阿倍関麻呂でございます」

 一度は顔を挙げたものの、大使はまた頭を下げた。

「遠路はるばる、ご苦労でありました」

 皇帝の声は、なぜか弱々しかった。

「我らが帝からの国書にございます」

 大使が懐から出した国書を取り次ぎの役人が受け取り、そのまま身をかがめて何段かの段の上の玉座の皇帝に一度渡した。だが、皇帝はすぐにそれを開いて読むのかと思いきやまた先ほどの役人に返し、役人は書状を開いて皇帝に向かって読み上げ始めた。

 もしかして目が見えない?

 氏忠がそう思う根拠は十分だった。皇帝が目が不自由ならば、この状況は理解できる。だがもうひとつ、氏忠にとって不思議なことがあった。実は玉座の後ろは壁ではなく、赤いカーテンが簾のように下がっている。そのカーテンの向こうに対しても同時に、役人は書状の内容を朗読して聞かせているような気もした。

 あの奥にも誰かいる! 氏忠の直勘だ。

 それから、テイセン将軍が立ちあがってまた例の魔法を使い、皇帝の前にいくつもの人の背丈ほどの大きな箱を出現させた。それは氏忠らの船から降ろされて、ドラゴンが口にくわえてきた箱の中のものだった。

「わが帝からの献上品でございます」

 先ほどと同じように大使は書状を取り次ぎの役人に渡した、これも同じようにその役人によって読み上げられた。箱の中の品々の目録だった。それはわが国の特産品、布、財宝などであった。

 こうして一連の謁見の儀は終わった。いや、終わるはずだった。ところが、皇帝の玉座の背後の布が微かに揺れた。やはり、人がいる。 しかも先ほどの取り次ぎの役人が、その布の向こうの人から呼ばれたのか布の一番端まで行き、その向こうの人と会話をしているようだった。やがて、役人は皇帝の耳元で何かを告げていた。皇帝はうなずいた。

 そして今度は氏忠ら一行の方を向き、皇帝は大使に声をかけた。

「その後ろのものは何という名ですか?」

 後ろのものと言われても、誰だかわからない。

「そのいちばん若そうな方」

「あなたです」

 追い討ちをかけるように取り次ぎの役人が示したのは、氏忠だった。

 氏忠はなぜ自分が指名されたのか分からなかった。皇帝は目が見えないはずでは? でも、だからこそ取り次ぎの役人が指名して来たのでは? では、誰が自分を指名した? 皇帝ではない……とすると、やはりあの布の背後の人か? 大使がちらりと氏忠を振り向いて、すぐに皇帝に言った。

「この者は楽の奏者である県犬養氏忠と申すもの」

 氏忠は驚いた。自分はこんな大使などその存在さえも知らなかったのに、向こうは自分の名まで知っている。正直、気持ち悪かった。

「どのようなものですか?」

 皇帝はさらに聞く。

「七歳で詩文をよくし、楽の腕もかなりのもので、また博識でもあります」

「今はおいくつで?」

「十六でございます」

 大使は氏忠の年まで知っている。

「確かに聡明そうな顔つきですね」

 本当に皇帝は見えているのか? 見えもしないのに適当なことを言っているのか……あるいは皇帝が目が見えないというのは氏忠の勝手な思い込みなのだろうか……分からない。

 ただ、皇帝が何かを言うたびに、取次の役人は布の一番端と皇帝の間を何度も往復している。もしかして、皇帝の言葉は布の向こうの人の言葉? そんな気にさえなってしまう。

「そのものは私がそばに仕えさせよう。このままここに残してください」

 なんで自分が……と、氏忠は思う。たしかに日本の都でも彼は帝のおそば近くに仕えてきた。それがここでも続くのか……。だが、逆らうことなどできもしない。

「かしこまりました」

 そう言って大使が頭を下げるので、氏忠もただ同じようにするだけだった。そして大使をはじめ、遣唐使の一行は退出した。だが、皇帝の言葉によって、氏忠はたった一人この場に残された。

「もう少し近くにおいでなさい」

 皇帝は直接氏忠に言葉をかけてきた。氏忠は同じ姿勢のまま、少しだけ皇帝に近づいた。

「氏忠といいましたね」

「はい」

 実名を呼ばれるのがどうも違和感だ。氏忠という名で彼を呼ぶのは、世間広しといえども両親だけであった。そのほかのものからは、たとえ帝であっても官職名の弁佐べんのすけとしか呼ばれたことはない。だが、ここは異国(異世界?)なのだから日本での官職名など意味がないことは分かっている。

「これからは私の近くに仕えてください」

 この皇帝もなんか違和感がある。もっと威厳を持って「わしのそばに仕えよ」とか「仕えるがよい」とか言ってくれた方がそれらしいのだが、なんかおどおどしている。

 そして近くになると、ますます背後のカーテンの向こうから視線を感じるのであった。


 謁見はそれだけで終わった。あとは執事と称する黒っぽい服を着た白いひげで頭の禿げた老紳士に案内されて、長い廊下を延々と歩き、ある部屋へと案内された。

「こちらが氏忠様のお部屋でございます」

 ふかふかの絨毯が部屋の床いっぱいに敷き詰められ、壁も白を基調に金細工で装飾された贅沢な部屋だった。大きな窓にも薄いカーテンが取り付けられ、それでも十分明るかった。

 もう、外はかなり薄暗くなっていた。

 大きな黒い机と、くつろげる長い椅子ソファー、そして天蓋のついた寝床ベッドがあり、透明な白い布で囲まれている。布団は綿のように柔らかかった。

「私は執事のレンブラントと申します。氏忠様の身の回りのお世話をさせていただきます」

 その挨拶が終わるか終わらないうちに、部屋にもう何人かの人が入ってきた。まずは体格が良さそうな筋肉質の若い男二人だ。

「ボプとルイでございます。身辺の警護をさせていただきます」

 レンブラントと名乗った執事がそう紹介した。そして若い女の子が三人。これも黒っぽい服だがスカートは短く素足や腕、胸元など肌色の露出の多い三人揃いの服を着ている。露出が多いだけでなく、その服の作りだと胸の大きさまであらわに分かってしまう。

給仕メイドの、左からルシェ、リニ、セシルです」

 三人とも美人である。ところが、氏忠が気になったのは、その三人が先ほど街で見かけた何人かの人のように、耳の先端が尖って髪から突き出ていたのだ。

 まさかそのことをここで聞くようなぶしつけを氏忠はしたくなかったし、そんな度胸もなかった。ただ、それぞれのあいさつに対して、軽く会釈しただけだった。

「必要がある時はそちらの鐘を」

 黒い机の上に、ひもを引いて鳴らす仕組みの小さな鐘が置いてあって、レンブラントはそれを示した。

「一度鳴らせば給仕メイドのうち誰かが、二度鳴らせば私めが、緊急の時は連打してくだされば警備のボプとルイがたちまち駆けつけます」

 それだけ説明してレンブラントは他の五人を下がらせた。一人ひとり頭を下げて部屋から出て行き、最後のレンブラントも深く頭を下げたので、氏忠は慌ててそれを呼びとめた。

「あのう、今いた三人の女の子たち」

「ルシェ、リニ、セシルですね」

「はい。実はここへ来るまでに町でもそういう人たちを見かけましたけれど、あの三人も耳が長くて尖っていましたね。あれは本物の耳ですか?」

 レンブラントは少し笑った。

「もちろん、本物でございます。あのものたちは亜人で、エルフと申す種属でございます。本来は森に住んでいた妖精でございますが、最近では街へ出てきて我われヒューマンと変わらぬ文化的生活をして、いろいろな仕事にもついております」

「では、狼の顔をした人たちも見かけたのですが」

「エアウルフですね。あのものたちも亜人です。言葉もしゃべりますし、仕事もしています。そうですね、氏忠様、亜人には氏忠様にとってはもっと腰を抜かすような形態のものもおりますよ」

 レンブラントはにこやかにほほ笑んでいる。

「あのひげ面の小人ですか?」

「ああ、ドワーフですね。いえいえ、もっと驚くような亜人の種族がおります。そのうちきっとお目に入ることでしょう」

 それから、レンブラントは威儀を正した。

「本日のお夕食は、後で給仕メイドがお持ちします。長旅でお疲れでしょうから、今夜はこちらでお召し上がりになり、どうぞお休みください。明日の午後のお茶の時間には皇帝陛下からお召しがあると存じます」

 氏忠はぼーっと聞いていたが、午後のお茶の時間って何だあ?と何気なく思っていた。

 レンブラントが去ってからしばらくは長椅子ソファーに座って、氏忠は放心状態になっていた。

 今日は久しぶりに海の上ではない揺れない寝床に寝られる。でも今の彼にとって、そんなことは関心の中ではなかった。

 とにかくめまぐるしすぎた一日を振り返ろうとしたが、頭の整理がつかない。はっきりいって何が何だか分からない状況に放り出され、困惑さえもできないくらいに混乱していた。そうなるともう、自分を守る手段は考えることを放棄するしかない。だから放心状態になっていたのだ。外はもうかなり暗くなっていた。室内は数本のろうそくで照らされるだけの薄暗い状態になっている。それでもものが見える。遣唐使船では日が没すれば船室は漆黒の闇となり、その中でただ寝るしかなかった。

 その時、外からドアを叩く音がした。

 氏忠には慣れない状況だったので、立ってドアのところまで行って自分で開けた。台に乗った食事を運んできたさっきの給仕メイドのうちの一人だった。

「お夕食をお持ちしました」

 可憐な声だった。

「ありがとう」

 氏忠が長椅子に戻ると、給仕メイドはその前まで台を押して来た。台は下に車輪でもついているのか、軽く押しただけでスーッと滑ってくる。

 いくつかの皿に銀の碗が伏せてあって、氏忠の前まで運ばれると、その銀の碗を給仕メイドは一つ一つ取っていった。まだ熱い料理からは、湯気とおいしそうな匂いが立ち上った。

「お口に合いますかどうか」

 はにかんだような微笑みで作業を続け、最後に氏忠の目を見てニコッと笑った。

「か、かわいい!」

 最初に紹介された時は緊張のあまりよく顔も見ていなかったけれど、今こうして至近距離で見るとこの世のものとも思えないくらいのかわいさだった。追い討ちをかけるように、その笑顔がまたその魅力を倍加させている。

「き、君は確か」

「はい。リニと申します」

 先ほどさっと紹介されたくらいでは、名前など覚えられるはずはない。ただ、リニと聞いて、先ほどた真ん中にいたことを思い出した。あとの二人も今冷静になって思い出せば、負けずとも劣らないかわいさであったような気がするが、そのかわいさの種類は三人とも違っていたように記憶している。

 目の前の料理は大皿に肉の塊で、何やらとろみのある茶色いものがかかっている。それがまたいい香りだった。イモの揚げたものも添えられている。さらには黄色くどろっとした汁物スープ、生の野菜の盛り合わせ、そして正体不明の丸っこい塊が三つくらい乗っている皿もあった。さらには、大きな椀に入った水。

「あれ? お箸は?」

 たしかに箸がない。汁物にだけ銀の大きなスプーンがついているが、あとは何もないのだ。

「箸? と、おっしゃいますと?」

「え? お箸がないと、どうやって食べるのですか?」

「普通に、お手で召し上がってください。お肉も手で持てるくらいには冷ましてあります。手をお洗いになるための水もこちらに」

 リニが示したのは、大きな椀に入った水だ。危ない、危ない。説明を聞かずに食べ始めたら、飲み水だと思ってこの碗の水を飲んでしまうところだった。

 ものを手づかみで食べるなど、国が違えば文化もだいぶ違う。ましてやここはどうも国が違うだけの騒ぎではないようだから、とにかく氏忠は従うことにした。

 リニはにこやかに愛想よく笑いながら言うので、まさか嘘を言って氏忠をからかっているなどという可能性はみじんもなさそうだ。

「お飲み物はこちらに」

 食事とともに置かれた玻璃ガラスコップに赤い液体を注いだ。

 最初にそれに口をつけてみる。葡萄の味がした。ただ、どうも酒のようのだ。十六歳の氏忠はすでに元服を終えているので酒を飲んでも構わない年頃だが、このような酒は初めてだった。

 あとはやはり生まれて初めて見るような料理を手づかみで恐る恐る口にして見たけれど、かなりの美味だった。

「それでは私はこれで失礼します。ごゆっくりどうぞ」

 また、にこりと笑う、リニは行ってしまうようで一抹の寂しさを感じたけれど、このまま自分だけが食事しているところにずっといられても何を話したらいいのかもよく分からないし、リニのあまりのかわいさに照れてしまうし、どうにもばつが悪いような感じになりそうだったのであえて止めなかった。

 箸がないことは最初に気付いたけれど、食べながらもう一つ何か物足りないと思ったら、主食のご飯がない。だがその代わりに得体のしれないかたまりがあるのでそれを口にしてみたところ、小麦の味がした。

 食事が終わってから食器を下げに来たリニに、その塊について聞いてみた。

「パンですね。小麦粉を練ってふくらまし粉イースト菌を入れ、焼いたものです。お口に合いましたか?」

「ああ、おいしかった」

 リニの笑顔につられて、この国に来てから初めて見せる笑顔を氏忠も見せた。

 あとはもう暗いしやることもないので、氏忠は寝台ベッドに入った。その体が沈むほどの布団の柔らかさに驚いた。

 何だか皇帝のそばに仕えるということだったけれど、まるで自分が仕えられているみたいな気もする。体も精神的にも疲れ果ててはいるが、逆に疲れ過ぎて気持ちが高ぶり、眠れそうにもなかった。とにかく状況を整理しようと、氏忠は日本を出航するまでのことを思い出してみた。

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