人間サンドバッグ

アール

人間サンドバッグ

とある深夜。


俺は出来るだけ音を立てぬよう、弟の部屋の扉を開けた。


……いたいた。


あの忌々しい弟は,部屋の片隅にあるベッドですやすやと眠ってやがる。


俺はそんなベッドの横へ素早く、そして静かに忍び寄ると、拳に力を大きく込めた。


……なぜそんな事をしているのかって?

決まっているだろう。

こいつの腹部に力一杯、拳を叩き込んでやるためさ。


……そんな事をしても大丈夫なのかって?

大丈夫なのさ。


なぜなら弟は少々特殊だからだ。


俺がその弟の特殊な体質に気づいたのは,少し前の事だった。


俺が大学から帰宅した時、リビングにて弟は気持ちよさそうにソファーに横たわり、寝息を立ててやがった。


本当に忌々しい。


嫌いなヤツが気持ちよさそうに眠っている姿を見た時ほど、イラッとくるものはない。


俺は思わず弟の頭を叩き、

「おら! 起きろ!」

と、耳元で叫んでやった。


だが、おとうとはなかなか起きない。


おかしいな?と思い、俺はもう一度弟の頭を叩いた。


しかも今度は先程よりも強めにだ。


だが、やはり弟は目を覚さない。


「……どこかおかしい」


そう思った俺は,慌てて弟の胸部に耳を当てた。


死んでしまっているのではないかと思ったからだ。


だが、ヤツは生きていた。


弟の元気な心音が俺の鼓膜へと飛び込んで来る。


「やはり、コイツは死んでない。

しかし、ここまで強く頭を叩いても起きないというのはどういう事なんだ?

…………! そういえば…………」



俺は思い出した。


弟は昔からイヤに目覚めが悪かった。


いくら強めに揺さぶっても起きず、遅刻魔として学校でも有名だったらしい。


「……つまり弟は特殊な体質の持ち主であり、いくら外側から強い衝撃を与えても、眠りから覚める事はないという事なのか?」


俺は一つ検証をしてみることにした。


日頃のストレスを発散させるかの如く、弟の腹部に対して強い一撃を振り下ろしたのだ。


風船が破裂したかのような物凄い音を立てて、俺の拳はヒットした。


だが、弟はやはり起きない。


俺はその検証結果を目の当たりにして、一ついい考えが頭に浮かんだ。


「……これは使えるぞ。

コイツが眠っている間、日頃のストレスを発散させてもらうとしよう。

いわばコイツはだ……。

フフフ……それにしても凄い発見だな」


人間を相手に思い切り殴るという経験は、他では恐らく味わえないだろう。


俺はこの凄い体験を、弟が起きる前にもっとしておこうと思い、再び拳を振り上げた。



……ところがその時。


テーブルの上に置いてあった弟の携帯が突然激しく震え出し、それと共に軽やかなメロディーを奏で始めた。


どうやら目を覚ますために、タイマーを仕掛けていたらしい。


しかしそんな音は気にせず、再び俺は弟を殴るため、大きく拳を振り上げた。


……しかしだ。


その拳が弟に向かって振り下ろされる事はなかった。


なんと、弟の目がゆっくりと開いたのだ。


俺は思わずぎょっとし、その場で固まった。


(なぜだ……!?

あれほど強く腹を殴っても起きなかったのに、音を聞いた途端すぐに起きたぞ……)


気づかれたか、と俺は一瞬思ったが、どうやらヤツは寝ぼけているらしく、どこかまだうつろな目をしている.


俺は慌てて知らん顔をしながらその場を離れ、自分の部屋へと駆け込んだ…………。







……そして、それからだ。


毎晩、俺は弟の部屋へと忍び込み、弟を力一杯殴ってストレスを発散するようになったのは。


あの人間を殴った時に得られる快感。


俺は病みつきになってしまったのだ。


俺は2つの事に気をつけながら、弟を殴るようにしていた。


一つは音を絶対に立てない事。


弟は音を聞くと、目覚めてしまう。


だからどんな些細な音も立てぬよう、注意しなければならない。


とはいえ、弟の耳にはあらかじめ耳栓を詰めるようにしたのだが、念には念を入れなければならない。




そして2つ目の気をつけねばいけない事。


それは弟の体にアザを作らない事だ。


ヤツが目覚めた時、自分の体に覚えのないアザが出来ていたら、かなり不審に思うだろう。


俺は弟を殴る際、市販で購入したエクササイズ用のグローブをはめる事にした。


これなら生身の拳で殴るよりも、一段とアザが出来てしまうリスクを減らすことができる。


また、さらに俺はアザ対策を重ねた。


殴り終えた後、あらかじめ用意しておいた氷で弟の体を冷やす事にしたのだ。


本当に弟は音以外では絶対に起きない。


こんな憎いヤツに治療を施してやるのはシャクだったのだが、サンドバッグを手入れする事と思えば、我慢することができたのだった。







こうして最高のストレス発散グッズを手に入れた俺は、今夜も弟の体を思い切り殴っている。


だが時々考えてしまうのだ。


殴るだけじゃなく、もっといろんな方法でコイツを痛めつけてやれたら…………と。


殴るだけでは発散出来ないストレスも時には存在する。


もっとコイツの体を金属バットなどでギタギタにしてやりたい……。


だが、俺はすぐに首をブンブンと振り、そのいけない考えを頭の隅へと追いやった。


そんな事をしてしまえば、さすがに傷がついてしまう。


それに弟もタダでは済まないだろう。


憎いとはいえ、コイツは世界でただ1人の俺の弟なのだ。


そこまでの重傷を負わせるのは可哀想だろう。


俺はしばらく間を置いて、大きく深呼吸をした。


神経をこうやって落ち着かせる。


弟を殴る前に行う、いわばルーティーンなのだ。


そして俺は目を大きく見開くと、弟の腹部に対して大きく拳を振り下ろした……。























「…………ああ!!!!

先生! 先生! 早く来てくださいな!!!

息子が! 息子が目を覚ましました!」


…………うるさいな、なんだよ急に。


俺はグラグラと歪む視界を眺めながら、そう呟いた。


やがてその歪みも安定してくる。


ここが病室であり、俺はそこのベッドで眠っていたというのに気づいたのは、それからの事であった。


やがてバタバタと白衣を着た医者や看護婦がやってきては、俺の体の状態を確かめ始めた。


「あの、俺は一体…………?」


俺はやっとの思いで、一言だけ喉の奥から言葉を絞り出した。


その言葉に医者たちはハッとし、そしてどこか覚悟を決めたような目で俺の方は向き直った。


……イヤな予感がした。


「いいかい? 落ち着いて聞いてくれ。

君は今まで、この病院のベッドで昏睡状態だった。

運ばれてきた時は驚いたよ。

全身切り傷だらけだし、しかも骨が何十本と折れてしまっていた。

………………………………犯人は君の弟さんだ。

今は精神病院で治療を受けている。


"兄貴は一度寝たら起きないんだ…………。

サンドバッグなんだよ……。"


とかなんとか、意味のわからない事を叫んでいたらしくてね…………」


俺は視線を医者から、自分の体へと移した。


…………なんてこった、体中ボロボロだ。

火傷痕や、切り傷痕など、傷という傷が俺の体に刻み込まれている。


中でも一番ひどいのは拳の傷だ。


強く握ろうとすると、激しい痛みが俺を襲う。


ちくしょう、本当になんてこった。


このストレスを俺は一体どこにぶつければいいんだ。


これじゃ、通常の

サンドバッグでさえ殴れやしない…………………。













































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