第11話

 翌朝、章平は役所が開くのを待って出かけた。離婚届けを受理してもらい、その足で銀行に立ち寄る。通帳の半分を引き出し、章平名義の口座に振り替える。残りの半分は印鑑といっしょに奈美宛の小包にして、郵便局から発送しておく。お人好しついでの慈悲である。例え自分のものだとわかっていても、他人名義の通帳から全額を引き出すのは気がひけた。

 身の回りの整理も心の準備も整った。あとは身だしなみだけである。入院生活で、風体もすっかり不精になっている。そんなみすぼらしい姿では弓子には会えない。

 散髪した男前に、結婚式にでも出かけるような晴れがましさで一張羅のスーツをまとった。ネクタイをしめ、革靴に磨きをかける。意気揚々と玄関に足を振り向けたところで、電話のベルが章平を呼び止めた。

「鈴木君、やったよ!」

 取り上げた受話器から、畑野係長の弾んだ声が聞こえた。そうですか、と章平は彼の話を促す。

 木下祐子という見ず知らずの女から、まったく身に覚えのない陶芸品の荷を受け取ったという笹原が、きつねにつままれたような顔で出社した。が、既にセンターには、所長あてに何度も苦情の電話が入っていた。

 スリ鉢のほうを受け取った相手は、大阪で骨董品を扱う老舗の店の主人であった。いかにも商人らしい気性で、口も達者である。所長でございますと名乗ったところで、通りいっぺんの謝罪では通用しない。関西弁でまくしたてられ、笹原はけんもほろろに受話器に向かってこうべと冷や汗を垂れるばかりだった。

 相手の口から西条の名を聞くに及んで、ようやく彼は状況を悟った。本人から事情を聞き、お詫びに伺う、と応えたものの、西条の姿はすでにセンターにはなかった。

「結局、僕が呼ばれてね・・・」

 木下祐子が北村奈美の偽名であったことや、過去の紛失事件との関係を、伝票とすり合わせて見せた。盗難に遭った品物もきっと西条の手元にあるはずだ、と係長が告げると、笹原はひどくいきり立って、奴を呼び出せ、と大人げもなくわめき散らした。

「それで、西条は?」

「どこかへ雲隠れしてしまったんだろう、電話も不通だったよ」

「そうですか・・・」

 彼はまだ話し足りなそうだったが、章平が急ぎの用があると告げると、

「うん、僕も今、公衆電話からなんだ。また、いずれ詳しく報告するよ」

 とにかく、よかった、と章平に礼を述べて電話を切った。まずは一件落着である。時計を見る。と、いつのまにか昼を回っている。

 アパ-トを飛び出したところで、背後にけたたましいバイクの排気音を聞いた。小石を蹴散らすように滑り寄ってきた車輪が、章平の行く手を遮った。

「そんなにめかして、どこへ行こうってんだい?」

 ヘルメットの奥から、鋭い目が光っている。危険を察して、とっさに身をひるがえす。が、リーチの長い手に背広の裾をつかまれた。必死に逃れようと身をよじるが、革靴の底を滑らせてじたばたするばかりの足は、一向に前に進まない。次第にたぐり寄せられ、肩口に蛇のようなおぞましい腕が絡んでくる。首をねじ向けると、振り向きざまに強烈なカウンターパンチを顎に食らった。宙返りした頭の先から地面に仰向けに倒れる。一瞬、もうろうとして目がくらむ。

「生意気なまねしやがって」

 ヘルメットを脱いだ西条が、章平の腹の上に馬乗りになった。身動きを封じられたまま、サンドバッグのように拳を打ちつけられ、二枚目に整えたばかりの顔がつぶれた。二、三本の歯が欠けた。血反吐といっしょに吹き出しながら、

「あとから請求書を送るから覚悟しとけ!」

 彼の顔に向けて精一杯の反撃を見舞ってやる。

「ったく! 口のへらない野郎だぜ」

 いまいましげに返り血を拭った西条が、ヘルメットを抱えて立ち上がった。

「女房の通帳を返してもらおうか。あれは子供を産むのに貯めていた金だ」

「それじゃ、代わりに僕が結婚するのに貯めていた金も返してもらおうか」

「おまえみたいな男と結婚する女なんているもんか」

 まったく身勝手で横暴ないいぐさである。冗談だろうが偽りだろうが、一度は奈美とも結婚したことになっている。ふらつきながら、必死に立ちあがって彼をにらみ据える。おとなしく身を引けば悪いようにはしない、と逆に脅してやる。よほどうす気味が悪かったのだろう。怯むそぶりもなく血まみれの顔をすり寄せてくる章平の気迫に、西条があとずさった。

「死にそこないが、かってにしろ!」

 ひっくり返って地面でのたうち回っていたバイクを起こすと、西条はヘルメットに表情を隠して走り去った。ほっとため息をもらす。だいなしの二枚目の顔が、苦痛と安堵にゆがみ、ほころびた。


 大学病院の正面ゲートをくぐると、街の息苦しい景色が一変し、視界が開けた。どこからかささやくように吹いてきたブライダルな風が、そっと章平の身を包んだ。眼前には芝生の広場があって、サルビアの花壇とベンチが点在する。小池にはのどかに水鳥が舞い、たいさんぼくの花の香りが振りそそぐ。弓子の景色だ。章平は感涙にむせて駆け出した。

 院内の案内板に沿って、外科病棟へと足を振り向ける。次第に鼓動の高鳴りが増してくる。階段を駆け上がり、ナースステーションの前に出る。カウンターの向こうにいた看護婦が呼び止めるのも聞かず、そのまま病棟への通路に入る。おおよその院内の見当はつく。規模こそ違っても造りはあらかたどこも似通っている。

 日差しのあふれた面会室には数人の患者や家族がつどい、つかのまの癒しと交流のときを過ごしている。自動販売機の前で退屈した子供たちが、口を開けた顔でジュースのメニューを見上げている。

「はい、たんぼ・・・」

 ふと、立ち止まって振り返る。と、姉妹らしい少女が二人、そばの長イスの上に正座して糸をとりあっていた。そうだ、次は川になる。最後はつづみだ。章平の気配に気づいた二人が、そろってあどけない顔を振り向けた。オニイサンもどう? 円い目の中に、ふと弓子の無邪気な表情が見えた気がした。

「おにいちゃん、ほっぺ痛そう」

 そんな見舞いの言葉をもらって、だいじょうぶだよ、と引きつった笑みを投げてやる。おだいじに、の視線に励まされながら、その場をあとにした。

 二二六号室の札を見つけた。まっすぐにドアの前に向かう。個室だった。まちがいはなかった。掛かった札には夢以来、捜し求めていた児島弓子の名が記されていた。ユミ・・・。 こみ上げてくる感慨をひとしおに、開け放たれていた部屋のドアの中をのぞき込む。ベッド脇のイスに腰掛け、背を向けている男の姿が見えたが。カーテンの下がっているベッドの様子は、入り口からは見えない。

「失礼します・・・」

 ためらいがちに声をかけ、部屋に足を踏み入れると、色あせた事務服姿の男がうなだれていた首をゆっくりと振り向けた。窓からそそぐ陽光が、男の顔に半月のような陰影を浮き立たせた。と、章平は、まさか、と目を疑った。

「あなたは・・・」

 思わず声がつまった。瞼を真っ赤に晴らした男が、目を細めて章平を見やる。次第に丸まってゆく目に、動揺の色が広がった。章平の幸せの半分を奪った、あの誠産業の社長だった。

「君がどうしてここに・・・」

 あわててイスから立ち上がった彼が、逃げ場のない部屋の中でうろたえる。つめ寄る章平の顔には、つぶれた二枚目のすごみがある。観念したのか、だますつもりはなかった、許してくれ、と土下座をして章平を拝んだ。あまりのみすぼらしさに、意気をそがれた。半年前には清潔そうに見えた彼の事務服も、汗と偽りの垢で汚れて見える。

 頭をすりつけた床に、胸元のポケットから一枚の名刺が滑り落ちた。誠産業代表取締役社長の肩書きの下に、児島誠の名があった。章平はこの男がコジマと名乗っていたことを今になって思い出していた。なんとしたことか、彼が児島幸恵の前夫、そして、弓子の父親だ。運命のいたずらか、償いか、章平と弓子をつないだ糸の結び目に、彼が絡まっていたということなら事の次第もたまさかではあるまい。安堵とも恨みともつかないため息が、腹の奥からこぼれ出た。

 弓子の姿を探す。が、ベッドは空だった。

「彼女はどこですか?」

 所在を尋ねると、本当に申し訳ない、と言ってようやく彼が顔を上げた。

「他人のあなたには関係ないことだが、私はこのコを救うために・・・」

 家財を投げうって治療に充ててきたが、とうとうそれも底をついてしまった、と訴える。彼は嗚咽にむせび、うなだれた。もう、そんなことはどうでもよかった。代わりに、お父さん、と章平は穏やかな口調で呼びかけた。

「弓子さんを僕にください」

 唐突な青年の言葉に、一瞬、震わせていた彼の肩の動きが止まった。

「このコのことをご存じだったというのですか?」

 理解に窮した顔で章平を見返した。委細を述べても信じてはもらえまい。が、彼女を愛しているのはあなただけではない、と説き諭す。章平を見つめていた目から、どっと涙があふれ出た。

「弓子は今しがた息をひきとりました・・・」

 聞きたくない言葉だった。そんなはずはない、と崩れかける気持ちにいい聞かせる。憔悴した面持ちで、父親は静かに語った。

「微かに残っていた意識も、とうとう絶えてしまいました。もう戻らないという医師の言葉を聞いて、やむなく人工呼吸器を外してもらいました」

 二十年間、私はあのコに何もしてやれなかった。きっと、天罰でしょう。気づいたときには、あのコは言葉も交わさなくなってました。結局、私にはあのコの苦しみを葬ってやることくらいのことしか残されていなかったのです・・・。

 どうせなら、何もしないでほしかった。なぜ僕が来るまで待ってくれなかったのか。章平は運命を恨んだ。こんなニアミスは許されない。彼女は生きたがっているんだ。弓子の亡骸が霊安室に運ばれたことを確かめて、章平は身をひるがえした。

 一階の霊安室に飛び込むと、年配の看護婦が一人、亡骸になった娘の着衣を整えていた。振り返って章平の姿に気づくと、

「準備ができましたらお呼びしますので、病室のほうでお待ちください」 

 と事務的な口調で応えた。が、章平の耳には入らなかった。焼香の煙が漂う冷たい空気を押しのけるように、章平は室内に踏み入った。看護婦の背後から寝台をのぞき込む。襦袢をまとった華奢な体が横たわっている。ほっそりとした顔には薄化粧が施されていた。きれいだった。夢の中の最後の記憶に近い、厳かに眠りについている弓子だった。

「ユミ・・・」

 弓子の手を合掌させていた看護婦が、ひゃ、と仰天してひっくり返った。

「な、な、なんですか、あなた!」

 尻を着いた床の上で、飛び出しそうな胸を押さえている。勝手に入ってきては困ります、退室してください。わなわなと唇を震わせる。が、章平の目には弓子の姿しか映ってはいない。もう離さない、と弓子のかたわらに膝をついた。

「困りますったら!」

 立ち上がった看護婦が章平の腕をつかんで引っぱった。離すもんか、と章平も寝台にしがみつく。

「あなた誰? ご遺族のかたじゃないでしょう?」

 眠り姫を起こしにきたナイトだ、と看護婦の手を振り払う。さあ、起きろ、と弓子の手を握る。ほんのり温もりの残った小枝のように細い指をほどき、両手に包み込む。やっと会えたね、と語りかけ、迎えにきたよ、と声をかける。が、返事はない。唇も瞼も耳も、硬く閉ざされている。

「おい、ブス、起きろ!」

 と怒鳴りつける。この、ジャジャ馬乱気流ムスメが、さっさと目を覚ませ、と体を揺さぶる。気がふれた青年の乱入に泡をくった看護婦が、あわてふためいて部屋を飛び出していった。

 静まり返った部屋の中で、一人、章平は弓子の胸に顔を伏せ、むせび泣いた。なんという無情か、こんな哀しみがあってはいけない、と天を仰ぐ。もう一度奇跡を、と神に祈る。

 祈りが叶うなら、僕は二度と贅沢はいわない。迷信も天気予報も信じよう。神をあがめ、毎朝毎晩祈りを捧げよう。お賽銭も十円なんてケチな真似はしない。困窮する人がいれば手を差し伸べ、ボランティアにも参加しよう。節制も心がけると誓おう。二度とタバコは吸わないし、酒も呑まない。他人の悪口も、恨み事も、妬みもいわない。泥棒も、ぬすっと猫も、虫けらも、雑草も、この世に生ある全てのものをこよなく愛すると誓おう。命ある限り、彼女を愛し続け、守り続けると誓おう。だから・・・。

 手の温もりが増してきた。細い指が絡んでくる。胸の鼓動がかすかに聞こえた気がした。はっと顔を上げて弓子を見やる。円らな瞳が虚空に見開いていた。

 廊下をあわただしく駆けてきた足音が、ドアの前で止まった。

「あわわ・・・」

 最初に飛び込んできた看護愚が、弓子の様子に気づいて腰を抜かした。あとからきた事務員風情が、声を飲み込んで立ちすくんだ。ゆっくりと回れ右をし、血の気の失せた顔で部屋を飛び去っていった。それからしばらくして駆けつけた二次隊には、医者と看護婦と事務員とヤジウマが混じっていた。

 神妙に章平の横に歩み寄ってきた医師が、ゆっくりと弓子の手首を握った。胸に耳を押しつけ、首に指を押しあてる。ふ、と息を漏らして顔を上げ、弓子の目をのぞき込む。目線に手を振ってから、ライトペンを照らして瞳を観察する。反応がない。

「生きてるんですか、先生・・・」

 婦長らしい看護婦がこわごわと首をのぞかせる。うん、とうなずく医師の声を合図に、どよめきと、歓声がわきあがった。

「しかし・・・」

 意識はない、と医師が告げると、歓声は消えた。まだ、一過性のものかもしれないが、とりあえず親御さんを呼んだほうがいい、といい添えた。あと半分だ。弓子の意識を取り戻すには、あと半分のきっかけが必要だ。そう思うや、章平は部屋を飛び出していた。

 二階の外科病棟に駆け上がり、面会室フロアーまで一気に走りこむ。長イスの上に向き合ってあやとりをしていた姉妹が振り返った。

「あ、ほっぺをケガしているおにいちゃんだア」

 そばの自動販売機でジュースを二缶買って、二人のそばに歩み寄る。

「ね、これとその糸をかえっこしない?」

「うん、もう一本あるから、あげる」

 一人がスカートのポケットに手を突っ込んで、よじれた赤い毛糸を引っ張り出した。それをジュースと交換してもらい、即座に身をひるがえす。

 霊安室の前には、いつのまにか人だかりができていた。人垣をかき分け、弓子のかたわらへと身を寄せる。虚空に放たれている彼女の目線に、あやとり糸をかざす。ほら、といって両手に輪をかけ、糸を織る。たんぼができた。さあ、次は君の番だ、と彼女を促す。

「なにやってんだ?」

 あっけにとられていた回りの見物人の群れがざわめいた。医師が、シッ、と騒ぎを鎮めた。弓子の目が光っている。小枝のような指がゆっくりと首をもたげてきて、章平の指先に触れた。人差し指が章平をノックしている。まるで、ココ、ココ、とささやいているようだった。

 彼女の示した指先の糸をたぐってゆくと川になった。今度は僕だ、といってすばやくつづみを作って見せる。と、ノックしていた彼女の指が丸まった。人差し指と親指でリングを作っている。彼女からの求愛の合図だ。章平は応えるようにリングに二本の指を通して絡め、

「結婚しよう・・・」

 とささやきかけた。折りしも明かり採りの小窓から差し込んできたブライダルな陽光が、彼女の瞳をきらりと輝かせた。


                               (了)


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あやとりのあとに 松木 悠 @matukiyuu

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