第10話

 陽が傾き始めた頃、章平はK市に戻った。改札口を出ると歩道に沿ってバスプールに回り込んできた松葉団地経由のバスが目に入った。そのまま駆け寄って乗り込む。どうしても自分の目で確かめておきたいことが二つあった。

 切り崩された山肌が、ただれた皮膚のように赤々と夕陽に焼かれていた。まだインフラの整備も行き届かない真新しいビルのひとつは、丘の中腹にそびえ立っている。エレベーターのタッチボタンを押す。そこを訪れたのは、夢の中だけであった。が、団地の様子も、ビルのたたずまいも、エレベーターの構造も、まるで鏡に映したように寸分たがわず記憶のひだにかみ合ってくる。勝手知った足がドアの前に歩み寄る。表札には、やはり西条宏と北村奈美の名があった。

 呼び鈴を押してしばらくすると、ドアの向こうに人の気配がした。

「はい、どちら様でしょうか?」

 耳をすましている奈美の表情が、ドアごしに透けて見えるような声だった。

「宅配便をお届けにまいりました」

 章平は配達員らしい声色を使って答えた。キーロックの外れる音がして、ノブが回った。用意ドンの体制で身構える。ドアが押し開かれるのを、それ、と手をかけこじ開ける。勢い、前頭三枚目の腹がよろけるように飛び出してきた。それを正面土俵から受け止め、俵の向こうまで一気にすり足で寄り切る。泡をくって溺れている奈美を両手で捕まえ、足の先に引っ掛けたドアを大外刈りにして締める。章平の正体に気づいたらしい目が、カミソリの刃のように鋭く光る。髪を逆立て、爪を立て、牙を剥いた雌虎が、死に損ないの変態、と激しくわめきたてて暴れる。しばらく、くんずほぐれつの格闘が続いた。

「赤ん坊がびっくりしてるぞ」

 必死にそばの電話にとりつこうとしていた奈美の体から、ふっと力が抜けた。身を解き放つと、縫いぐるみになった虎がへなへなと敷居の縁にしゃがみこんだ。背中で息を切りながら、

「どうして、ここがわかったの?」

 乱れた髪の奥から片目をのぞかせる。所長の笹原以外には、知っている者はいないということらしい。ところがどっこい、こちらは千里眼だ、と脅してやる。

「君達が隠している荷のことも、君が木下祐子という偽名を使っているのも知っている」

 一瞬、彼女の表情に狼狽の色が浮かんだ。が、そんなはずはない、というようにかぶりを振った。

「あんたみたいな前科者のいうことなんか、誰が信用するもんですか!」

 とぶしつけに言い放つ。信用するもしないも、明白な事実がそこにある。章平も今はただの前科者や小心者ではなくなっている。

「僕がいう必要はないさ。残念だが、その手口もカラクリも、明日の朝にはセンター中に知れ渡ることになっている」

 私利私欲のために罪もない他人を罠にかけ、不幸にし、横領を働いた罰だ。

「彼はそのことを知らないの?」

 と困惑顔の奈美。今、西条に知られては困る。章平の買った安物のスリ鉢の箱が、そろそろセンターに運び込まれている頃である。畑野係長の手で荷分けが行われるまでには、もうしばらくの時間がかかる。ゆっくりとうなずいて応えながら、獲物の動きを見張る。と、不意に膝で立ち上がった奈美が身をよじった。電話に手がかかるのを、すんでのところで阻む。悲鳴とも、わめき声ともつかない絶叫が耳をつんざく。彼女の腹部をかばいながら、必死にとり押さえる。

「もう観念しろ、僕の勝ちだ」

 両手をバンザイした格好で身動きを封じられた奈美は、仰向けに膨れた腹を波打たせている。ふと、気になって聞いてみる。

「この子は西条のコだろうな?」

「他に誰の子だっていうのよ」

 安心した。とても流産するようなひ弱な子供ではなさそうだ。片手を伸ばして、脇の電話のモジュラージャックを引き抜いた。奈美の手を解放してやり、乱れたマタニティーの裾を下ろしてやる。

「彼が知ったら、あんた、ただじゃ済まされないよ」

「そうだな、たっぷり謝罪と返済をしてもらおうか」

「殺されるっていってるのよ」

「ははは、死ぬのはなれっこだ。まさか、奴には、そういう過去があるのか?」

「学生の頃はバンを張ってたって話よ。鑑別所にいたこともあるし、人を殺すのなんかきっとなんとも思ってないわよ」

「物騒な男だな。しかし、父親ともなれば無茶もできないだろう?」

 所長室で腹をさすっていた奈美を、目を細めて眺めていた西条の素顔を覚えている。極悪人もひとの子だ。最愛の妻や子供の為なら、無茶な振る舞いも慎むだろう。

「今さら、なんの用なの? 金を返せというつもりなら無理よ。紛失品の保険代わりにみんな使いはたしてしまってるんだからさ。どこで調べたかは知らないけど、なんでも知っているというわりには、わかってないわね」

「わかってるさ・・・」

 奈美の嘘もわかっている。いずれ畑野係長を罠にはめるはずの分や、所長までも引きずり落とす手はずの分が、まだ百万や二百万は残っているはずだ。そんな夢の中の話まで彼女に明かすわけにはいかないが。こうなったら神経戦だ。奈美はシラを切った顔でいる。

「今、手元に残った金を返してくれれば、もう二度と君達の前には現れない。今までのことも水に流そう・・・」

 最大限に譲歩した寛大な施しだ、と言い添える。

「そんな善人ぶったことをよくもいえるわね。あんた、何をしたの? 彼の将来のことはどうしてくれるっていうのよ!」

「あれだけの罪を犯して、無罪放免とはいかないな」

「偉そうなこといったって、結局あんたも仕返しをしているだけじゃない」

「僕の名誉や腹いせのためだけじゃない。センターの信用や、他のまじめに勤めている人達のためだ。西条にもこの際だから心を入れ替えてもらいたい」

「とんだおせっかいよ!」

「君達の子供のためだと言ったら?」

「他人の家庭のことなんか関係ないでしょ」

「おおありさ。ここで君が譲歩しないと、君達は永遠に本当の夫婦にはなれないよ。別姓のまま、子供を育てることになる。そんなハンデを背負っていたら、子供にも君達の将来にも好ましい状態じゃあないだろう?」

「どういうこと?」

 奈美の顔から血の気が引くのがわかった。章平は奈美と別れた日のことを思い出していた。マンション購入の本契約をするため、金を下ろしてくるはずだった奈美を待っていた章平は、彼女の現れる前に婚姻届けを済ませていた。例え気持ちや生活は他人でも、戸籍上は夫婦という絆で結ばれてしまっている。今さら否定したところで、彼女の同意の判を消すことはできない。今度は離婚と言う別の手続きが必要で、そこには逆に章平の同意の判が必要になる。現行の法の解釈とは、おおむねそんな内容であった。章平自身が役所に問い合わせて知ったことである。事故で致命傷を負った章平が、まさか生還してくるとも思ってはいなかったのだろう。それも、彼らの大きさ誤算だったはずだ。

「僕が生きている限り、なんだかんだと僕の戸籍が君達の生活のじゃまをする。本当は病院にかかるのだって、子供を産む手続きにだって、不自由しているんだろう?」

 じっと章平をにらみ据えていた奈美の目から戦意の色が失せた。彼女はそれ以上、抵抗しようとはしなかった。やおら立ち上がって部屋の奥へと消える。ほどなくハンドバッグと茶封筒を持って現れた。

 バッグからは北村奈美名義の通帳と判を、封筒からはなんと離婚届けの用紙を取り出した。それを無造作に章平の前に広げた。用紙のあらかたの部分には、すでに彼女の筆跡の文字が埋められている。あとは章平のサインと判を押せばいいだけである。まったく抜け目がない女である。

「さあ、通帳といっしょにこの用紙も持っていって!」

 と章平の胸に押し付ける。

「好きなだけ引き出したらいいわ。その代わり離婚届けも出してちょうだい!」

 奈美は乱暴に言い放った。受け取った通帳の中身を確かめる。丸がひと桁欠けてしまっている。が、なんとかもう一度人生をやり直せるくらいの金額は残されている。

「そろそろ彼が戻るわ、さっさと帰った方がいいわよ!」

 章平は疫病神のように塩を振りかけられ、ドアの外に追いやられた。


 たそがれた街路樹の道に、章平の足元を発った影が細長く伸びている。歩道をまたぐように突き出したろくろ首が、軒先の表札をのぞきこむ。石塚剛というたくましい名が刻まれている。何度、目をこらしても、そこに児島幸恵の名は見当たらない。檜造りの家のたたずまいも門構えも、なんら変わった様子はなかったが、弓子の母親の名はそこにはなかった。

 街灯が点ると、うなだれていた影が消沈するように路面に溶けた。章平はゆっくりと背を向け、風のわたる坂道を引き返し始めた。どこかで、子犬が鳴いている。ショパンの音色だ。あわてて振り返って、耳をすます。檜の香りといっしょに涼風にそよがれたピアノの音が、心地よく耳たぶを愛撫してくる。そうか、願望だった、と思い出す。弓子の慕い続けていた母親は、児島幸恵のままだったのだ。

 玄関に立って、呼び鈴を鳴らす。と、子犬のワルツが止んだ。しばらくして引き戸が開き、男が顔を見せた。章平の身なりをそれとなく眺めた彼が、

「なんのご用でしょうか?」

 とけげんそうな顔で尋ねた。一家揃った夕食前の時間であろう。突然のジーパン姿の青年の訪問を、奇異な目で見るのは当然である。唐突に訪れたことを詫びながら話を切り出そうとするが、何からいっていいのかわからない。口をまごつかせていると、道に迷ったヨタロウだと思ったのだろう、

「交番ならあっちの通りの角にあるよ」

 と顎の先で薄明かりの空をさした。引き戸が閉じるのを、とっさに遮って、

「ユミコさんのことですが!」

 と声をあらげてしまった。男が顔をこわばらせて章平を振り返る。と、不意に廊下に飛び出してきた子犬のワルツが、パパ、といって駆け寄ってきた。

「ゴハンよ・・・」

 少女が彼の腰にじゃれついた。二人の容姿は、章平の記憶とは、どこか違って見える。

「このコになんの用ですか?」

 父親のたくましい腰の陰から、上目づかいのあどけない顔がのぞいている。愛用にしているらしいミッキーマウスのついたスリッパが、彼の足を踏みつけている。クレヨンでいたずら書きした稚い文字がミッキーといっしょに踊っていた。顔を斜めにしてその文字を読み取る。彼女の名はユミコ違いの、由美子だった。

 ようやく探し当てた天使が、年端もいかない少女だったなどというのは笑えない。人違いでした、とバツの悪い姿勢で頭を下げ、身をひるがえした。

 ひとけのない公園の前まで来たとき、章平は女の声に呼び止められた。振り向く。と、小走りに暗闇から駆け出てきた女の顔に見覚えがあった。

「もしや、訪ねていらしたのは弓子のことでは?・・・」

 夢の中で見かけた弓子の母親だった。章平は胸を熱くし、声を失っていた。はい、というかわりに、しっかりとうなずいて応える。食い入るような目が章平を見つめた。

「あのコに何かあったのですか?」

 それを知りたいのは章平のほうだ。困惑した口が、わかりません、とかろうじて応えた。険しい彼女の顔に、新たに警戒の色がにじんだ。決して怪しい者ではありません、と章平は目で訴える。幸い危害を加えるような男ではないと察してくれた様子で、彼女は表情を和らげた。申し遅れました、といって弓子の母親であることを告げ、改めて初対面の慎ましさで、弓子との関係を章平に尋ねた。恋人とも友人とも言えないもどかしさで、

「弓子さんは僕を救ってくれた天使です・・・」

 と答えた。当惑げに首を傾げた彼女が、

「いつ、あのコと会ったのですか?」

 と章平の真意を探るように尋ねる。夢の中ともいえない。ついひと月ほど前に、と歯切れの悪い口調で答える。と、彼女は笑みとも憐れみともつかない顔で、まさか、と首を振った。

「意識もないあのコに、どうやってあなたを救えたのでしょう」

 二年前に心臓の発作で倒れて以来、ほとんど意識も薄らいだ寝たきりの状態が続いている、と彼女はたんたんと告げた。互いの間には、それ以上立ち入った話もなかったが。弓子の安否を気づかい心痛めていた胸のうちを、彼女はまるで懺悔でもするように他人の章平に明かした。

 弓子には生まれつきの疾患があった。長いこと自宅と病院通いの療養生活で満足に学業にも勤しめず、友にも恵まれなかった。不びんに思いながらも、父親も母親も事業や修業に忙しく、弓子のことは医者任せのままほとんどかまってもやれなかった。ようやく彼女の悲痛な訴えに気づいた時には、弓子はかたくなに心を閉ざしてしまっていた。病と孤独との闘いで疲れ果てた彼女を、二人が救う手立てはなかった。やがて、夫婦の亀裂も深まって、家庭は崩壊してしまった。

 前夫との清算が済み、弓子が東京の大学病院に入院してしまうと、昔の絆とも疎遠になり、次第にそんな呵責の念も薄れてしまった。本当にかわいそうなことをしました、と目をうるませた。

 大学病院の名を聞いて、章平は礼を述べた。別れしなに、大事なことをひとつ尋ねておく。

「さっきのユミコさんというお子様の名前は、あなたが名づけたのですか?」

 彼女がしっかりとした顔でうなずくのを確かめ、

「あなたが愛していたことを、彼女にも伝えておきます」

 と笑みを投げてやる。ありがとうございます、と薄明かりの中で、弓子に似た円らな瞳が輝いた。

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