第9話

 ベッドにあった所持品をかたずけて病室を出ると、廊下の先にいたルリさんが声をかけてきた。気が向いたら、いつでもおいで、とふざけている。二度とくるもんか、の冗談を飛ばして手を振ってやる。

 会計カウンターで目の飛び出そうな請求書を渡された。日頃は顧みない健康という財産の値打ちを、改めて知らされた思いである。幸い、愛想のいい勧誘員の巧みな押し売りで加入させられてしまった任意保険の特約のおかげで、借金苦の難からは免れそうである。二度と体を粗末にはしまいと誓いながら、軽やかな足取りで病院の門を出た。

 陽光が目をくらませた。青葉がまぶしい。大地も、大気も、水も、みな新鮮な色に輝いている。章平はたばしる生気を振りまいて、空を掻き分けるように走った。

 買い物を済ませた足で、配送センターのバス停に降り立つ。見慣れない顔の守衛が、正門の前で仁王立ちになって章平の進路を遮った。挨拶なので、と答えても聞く耳を持たない。しかたなく、脇の守衛所に寄って畑野係長宛の面会手続きをする。

 笑顔で迎えた係長が、事務所へ案内してくれた。懐旧の思いを膨らませて足を踏み入れる。が、顔なじみだった事務員や配送員が章平に振り向けた視線は、どれもが冷ややかだった。会釈もどこか他人行儀でそらぞらしい。まったく薄情な連中だ。情けなさと惨めさに、頭のてっぺんまで昇りかけていた歓喜も、たちまち足元に転がり落ちた。

 所長室に入ると、愛想と斜め機嫌をまぜこぜにしたような表情で笹原が待ち構えていた。なぜか目を尖らせた西条が隣に同席している。畑野係長がとりつくろい、章平をソファーに導く。

「長い間、お世話になりました・・・」

 快気祝いと退職の挨拶にきたことを告げ、買ってきた菓子折りと、別の包みをテーブルの上に置く。菓子折りはみなさんにと笹原に、もうひとつの小ぶりの包みは入院中に世話になった畑野係長にと、丁寧に礼を述べて二人に手渡す。係長はどうも、と軽い会釈で、笹原は、うん、なのか、ふん、なのか判然としない鼻息を漏らして受け取った。

「まさか爆弾じゃないだろうな?」

 所長の脇で西条が唐突に毒づく。

「西条君、言葉を慎みたまえ。彼はもうここの従業員ではないんだよ」

 見かねた係長が小声で西条を叱る。が、こんな奴は門前払いでたくさんだ、とぶしつけに怒鳴り返す。まったく傍若無人でわきまえがない。さすがの紳士も腹に据えかねたらしい。顔をひきつらせた係長が、

「だいたい君がここにいるのはおかしいじゃないか。勝手に職場を離れては困るよ。所長、これはどういうことですか?」

 叱責と換言を込めた目で西条と笹原を交互に見やる。が、西条は薄笑いをしている。と、大儀そうに顔を振り向けた笹原が口を開いた。

「ついでだ、畑野君も座りたまえ」

 どうやら彼も係長を待っていたようである。はあ、と出鼻をくじかれたような面持ちで係長が章平の隣に腰を下ろす。何を企んでいるのか、西条の顔には不敵な笑みがこぼれている。

 おもむろに口を開いた笹原が、どういうことか聞いておきたい、といって係長に尋ねる。

「昨日、君は西条君の残業届けを拒んだそうだが、どういうことだね?」

 章平はすぐさま、所長の背後にいる西条の策略の意図を察した。

「残務整理があったのは私の方でしたし、一人で十分だったからで」

 どうやら、係長は西条の謀略を未然に防げたらしい。

「今夜もかね?」

「ええ、今夜も荷わけ作業はさほどありません」

「西条君も、所帯を持って一生懸命なんだ。会社のことも熱心に考えてくれている。残業をさせろとはいわないが、この際だ、少し君の仕事を分担するとかして作業範囲を増やしてやったらどうかね? 君にはもっと外交のほうを見てもらいたいし、人をうまく使う工夫もしてもらいたい。そろそろ、係長としての自覚も備えてくれなきゃ困るんだ」

 笹原の言葉は、背後霊のような西条の口から発している。

「私は熱心ではないとおっしゃるんですか?」

「そうはいっておらんよ、やり方を改めてもらいたいんだ。荷が少ないから仕事がないというのは、おかしな話だ。なければ外交に出向いて顧客を開拓しなきゃならんだろう?」

 不意に職責を問われた係長は、目をそばめ、言葉を失ってしまった。章平はタバコを取り出すそぶりで、それとなく戸惑っている係長の注意をそそった。ライターの火が拍子抜けに灯ると、緊迫した空気がとろけた。笹原と西条が横目で章平を見やったすきに、係長がふっと息をついて体制を整える。

「ごもっともなご意見だとは存じますが、今、このような席でお伺いすることだとも思えません。挨拶に来られた鈴木君に失礼でしょう」

 失礼だ、と章平も復唱する顔つきで彼らを見返す。笹原が厄介払いでもするような目で章平を見やった。

「君も畑野君の紹介で就職先が決まったそうじゃないか。過去のことは、ともあれ、まあ、よかったじゃないか。これからは他人に迷惑をかけないよう、せいぜい心してがんばりたまえ」

 年頭の挨拶が終わって、用済みの松飾りを片付けるようなさっぱりした顔でいう。章平は腰を上げ、黙ったまま頭を下げた。もう二度とここを訪れることはあるまい。

「ちょっと、君の所持品を持ってくるから、待っててくれないか」

 係長が章平を呼び止めた。一旦、退席した彼が、ロッカールームから章平の荷物だといって紙袋を提げて戻ってきた。用なしになった作業シューズと季節外れの長袖の作業着と、骨の折れた傘と、どうでもいいガラクタの小物類である。係長は袋の口を開示して笹原に見せ、持ち出し票へのサインを求める。笹原はちらりと一瞥しただけで、煩わしげに署名を書き入れた。


 T市に赴き、駅前のスーパーでひと抱えのスリ鉢を買った。丁寧に箱詰めしてもらったそれを提げて、近くの公園に立ち寄る。人目のないベンチに腰かけ、畑野係長から渡された紙袋の中から長袖の作業着を取り出す。その胸ポケットをまさぐると、丸めた紙切れと安全ピンのついた名札が現れた。

 紙切れには笹原の住所と、陶芸品の荷姿が書かれている。名札には西条の作業着から首尾よく着服したらしい、西条自身の筆跡の名が記されている。スーパーの箱をこじあけ、スリ鉢に名札をつけた作業着を押し込める。蓋を閉じ、ついでに買ってきたガムテープでしっかりと荷姿を整える。

 公園を出てしばらく商店街を歩くと、ほどなく見慣れた宅配便の取り扱い店の看板を見つけた。店のカウンターで伝票を受け取って、空欄を埋める。送り主は木下祐子、受け取り主は笹原の名である。壊れ物の札を貼ってもらって預けた。あとは、センターに着いた荷を畑野係長が手際よくすり替えてくれるのを待つだけである。ヘアドライヤーを包んだ手土産も厳重な守衛の目を欺き、笹原と西条の目の前で係長に手渡してみせた。西条と奈美が連携して企てたことを、そっくりまねてみせただけのことだが。まったく歯の抜け落ちた櫛のように、スキだらけのシステムである。

 T市を選んだのは、荷が今日中にセンターに集荷される手ごろな距離だったことと、弓子の消息を尋ねるためであった。電話帳を繰って、父親である児島の表札のかかった家を探して訪ね歩く。が、やみくもな探索は虚空に放った矢のように手ごたえもなかった。

 町をひとめぐりして駅通りに戻ったところで、章平はふと足を止めた。通りをはさんだ反対側に金融機関のビルが二棟建っている。その隙間に、ぽっかりと猫の額ほどのさら地が空いていた。有刺鉄線に囲まれた空き地には、ナズナやドクダミが生い茂っている。確かプレハブの小さな建物があったところである。空き地の真ん中に蔦の絡まった立て札がたっている。通りを渡った章平は、引き寄せられるようにその札の前に歩み寄った。売り地の文字が記されている。が、売主の名は、章平の苦々しい記憶に残っている誠産業という仲介屋のものではなかった。半年の間に建物は消失し、持ち主も変わってしまっている。

 近くの公衆電話から、立て札に記されていた番号を回しダイヤルする。電話に出た愛想のいい男の声に、章平は名を告げ、事情を尋ねる。誠産業の所在を知りたかっただけなのだが、何を勘違いしたのか、受話器の向こうで愛想よく相づちを打っていた男の声色が急変した。

「マコト産業? そんな不動産屋は知らないね。うちは金融会社の入札で正式に買い取ったんだ。債権者だか被害者だか知らないが、そこの根抵当はとっくに抹消されてるんだ。へんないいがかりはやめてくれ」

 男はまるで貧乏神でも追い払うような剣幕でまくしたて、乱暴に電話を切ってしまった。

 奈美との新婚生活も、マンション暮らしも淡い夢に過ぎなかった。あやまちの代償に負った傷口はあまりにも深かった。やるせない口惜しさが今さらのように胸に去来する。情味の深そうな奈美と、誠実をそのまま看板に掲げたような誠産業の社長の、見かけばかりの態度にだまされた。まったくバカでウブなお人好しであった。

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