第8話
ぐずついた天気が続いている。終日の傘マークに、章平の心も湿っていた。一週間前から約束をしていた畑野係長の訪問を、一日千秋の思いで待ち焦がれている。募る思いを爪先に込め、町を遠望する。窓外には闇が垂れ込め、水滴が町の夜景を淡く溶かしている。丘陵の先に目を凝らすと、配送センターの光がぼんやりと雨に煙っていた。
ちょうど長距離便の荷が積まれ、こってりと濃縮した熱いコーヒーを飲み干した運転手達が、さっそうと腕まくりしてトラックに乗り込んでいる頃だ。積荷を見送った配送係が、ほっと息を漏らす。守衛の白手袋の手が振られ、荷便が旅立ち、門が閉じられる。
一日の勤めを終えた事務員達が、思い思いの顔でロッカールームに消える。やがてタイムカードを打刻した彼らが、守衛所の社員通用門に現れる。通関の手続きのような儀式がおごそかに行われ、所持品のチェックを受ける。開放された彼らの顔にも検査を済ませた守衛の顔にも、ほっと安堵の色が浮かぶ。まったく無駄な儀式である。虫の喰った形跡を探しても、虫は見つからない。
虫は配送業務と言うセンターシステムを逆手にとって、巧妙に荷をすり替える。その虫の餌食になるのは荷物だけではない。システムを蝕み、人を毒牙にかける。最初の犠牲者は章平であった。今度は畑野係長の番である。章平が夢の中で見てきた光景が虚か実か、今日中にも係長の口から聞けるはずであった。もしそれが事実なら、弓子もこの世界に実在する娘である。
その日、十本目のタバコに火をつけたとき、面会室に畑野係長が現れた。喫煙コーナーにいる章平に気づくと、ビニールにくるんだ折りたたみの傘を手旗のように振りながら、
「やあ、おまたせ」
口元に気さくな笑みを浮かべてやってきた。章平の隣のイスに座って、濡れた髪を手櫛でかき分ける。まだ湯気が立っているような上気した顔で振り向くと、
「鈴木君のいった通りだったよ」
まいったね、と章平の目を見つめた。思わず、ヤッタ、と叫びそうになってタバコの煙にむせった。折から、点滴の管を腕に刺した操り人形のような格好の老人が現れた。背を丸めて自動販売機の前で小銭を数える。ちらりと見やって声をひそめた係長が、だいじょうぶか、と咳き込んでいる章平の背をさする。
「まったく驚いたよ。どういう現象なのかは理解できないが、本当にこんなことがあるんだねえ」
むせったタバコの火をもみ消し、喉のいがらみを追い払うように咳払いをして章平は彼に向き合った。
「僕は信じていました。きっと奇跡が起きたんです」
「うん、確かに。君がこうして生きていることも奇跡に近かったからね・・・」
しかしね、と彼の顔から笑みが消えた。清涼飲料の缶が転がり落ちる音で、一旦、彼の声は途切れた。
腰を折って缶ジュースを拾い上げた老人が、ゆっくりと喫煙コーナーを振り返る。目を細めてのぞき見る。人影を認めたそぶりで、こちらに歩き出す。間が悪い。章平のはす向かいのベッドにいる患者だが、説教好きの元教諭である。他人をつかまえてはなんくせをつけ、説教をする。枕元の明かりで本を読んでいると電気を無駄にしてはいけない。タバコを吸っていると空気を汚してはいけない。これ、みな国家のためだ、と迷惑千万な愛国心を押し売りしてくる。あげくの果てに息まで控えめに吸いなさい、と窒息させられそうになる。視線を避け、背を向けていると、
「もう、葉佐間さん、またこっそりつまみ食いをして、しょうがないわねえ」
間一髪、ルリさんが現れて説教間を捕獲してくれた。彼女の太い腕の中で、枯れ枝のような華奢な体がもがく。もっと国宝老人をいたわれ、と訳のわからないことを喚きながら連れ去られていった。
「半分といい直しておいたほうがいいのかな・・・」
改めて章平を見やった係長が話を続けた。小さな騒動が去った面会室には、他に人影もない。
「半分ですか?」
「うん、センターの話はほぼ間違いない。確かに木下祐子という送り主名義の伝票はあったし、受取人も北村奈美だったよ。それで過去の紛失届けの出ている時期を調べてみたら、伝票の時期とも一致していたんだ。つまり西条が謀り事をしているという、君の夢の警告ともしっかり符合しているってわけだ・・・」
どうやら驚いている半分と言うのはセンターのことらしい。
「あとの半分と言うのは、児島弓子のことですね?」
感慨深げに目を上向けている係長に、章平は待ちきれずに尋ねた。うなずいた顔で、いいかい、と諭すように彼が章平を見つめた。
「僕にはそのコが天使だったとしか思えないんだ。へんな話だが、つまり、鈴木君の夢を借りて、この世の悪事を暴きに現れた救世主みたいなものといったらいいのかな。君自身にも、しっかりと生きる義務のようなものを告げにきたんじゃないかと・・・今の僕には、そういうおとぎばなしめいた解釈でもしなけらば、とても信じられないんだよ・・・」
弓子の体からほとばしる情味も温もりも、生身の人間のものだ。天使や人形であるはずがない。しかし彼にそれを訴えたところで、どうにもなるまい。
「そのおとぎばなしは、現実にはありえなかったということですか?」
「松葉団地の公園の近くを探してみたんだが、児島幸恵という表札がかかった家はどこにもなかったよ。念のため電話帳でもくまなく探してみたが、やはり同じだった。残念だけど、その弓子さんのことについては、これ以上調べる手だてもなかったんだ・・・」
いいんです、と章平は彼の言葉を遮るようにいった。あとは、章平自身の問題だった。ようやく夢と現実の影が重なりかけてきた。なんとか、ここまでこぎつけたのだ。あと半分、焦ってはいけない。章平は話題を変えた。
「係長、所長には伝票のことを話したんですか?」
気遣うように章平を見守っていた係長が、首を振った。まだだよ、といってそのわけを聞かせた。
「証拠もない話をいきなりいってみたところで聞く耳は持たないだろうし、まさか、鈴木君の夢のお告げだとはいえないだろう? もともと配送システムそのものが、機械のようによどみないものだと信じ込んできた人だからね。まずシステムを疑うことはしない。システムの欠陥を露呈することにでもなれば、業として成り立たないことになるし、在職中はできるだけ大過なく過ごしたいというのが所長としての立場と本音だろうからね。それに、今、へたに騒ぐと西条君が何をしでかすかわからないよ。本当にあざとい危険な人物だというのが僕にもわかってきたんだ。あの目つきはフツーじゃない。にらまれると、ぞっとするよ」
きっとご先祖様は蛇だったのだろう。眼光にはどこか背筋の寒くなるような残虐性を秘めている。
「近々、正社員に抜擢されるみたいだし、所長もうまく丸め込まれてしまっているようで、まともには太刀打ちできないな」
さて、と係長が腕時計を見やったとき、見回りにやってきたルリさんが、喫煙コーナーに顔を出した。
「ぼちぼち面会時間が過ぎますから」
いいかしら、と催促口調で二人をせかす。立ち上がると、追い立てるように面会室の明かりが薄暗くなった。見送りついでに玄関までついて行くことにする。
エレベーターの扉が閉じると、二人は途切れた会話の続きを始めた。
「でも、このままでは係長も、きっと・・・」
「僕も用心はしているよ。まずはロッカーの鍵は締めておく、だったね?」
「ええ、机もキャビネも忘れず、鍵はいつも携帯しててください。それと西条の残業には、いっしょにつきあうようにしてください。一人には絶対にしないことです」
「しかし、常時となると難しいな。僕も外出でセンターを留守にすることがあるし、勝手に残業の許可を所長に申請されても、僕にはわからない」
「それなら大丈夫です。西条が荷をすり替える日には、必ず昼間、弁当を待った北村奈美が現れます」
「ああ、奥さんだね」
エレベーターの扉が開き、静まり返ったホールが眼前に広がる。洞窟のように薄暗いホールが続く。
「北村奈美はやはり彼の?」
「うん、内縁という話だよ。なぜ籍を入れないのかはわからないけどね」
「妊娠してますか?」
「四ヶ月といってたかな? 君の方が詳しいんだろ?」
「ええ、一応、確認のために聞いただけです」
フロントには明かりが残っている。事務員が一人、うつむいて書き物をしていた。係長が面会バッジをカウンターに置かれた箱の中に入れ会釈したが、ちらりと一瞥しただけで、無関心な顔のまますぐに目を書き物の上に戻した。声をひそめる必要もないと思ったのか、係長が、そうか、と調子外れなトーンを響かせると、ホールにこだまして、そうか、そうか、といかにも納得したように響いた。
玄関のドアの前で立ち止まった係長が、章平を振り返った。
「ここまでは君の言った通りだが、しかし、いったいどういうことになるんだい? 西条君が僕を追い出して、係長に就くという筋書きをどうやって変えることができるのかな?」
ドアが開いて、湿った外気が肌にまつわりついてきた。悪寒か武者震いか鳥肌が立っている。章平は鈍って飛散してしまいそうになる決意を、ぐっと腹の中にたたみ込んだ。
「奴が動く前に、出し抜いてやります」
多少のタイムラグが生じているのであろうか、現実は夢の中のテンポとはひと月ほどずれている。幸い係長も今は在職中である。
「しかし、今さら君がどうこうはできないだろう?」
「係長と言う味方がいるじゃないですか」
「おいおい、何をさせようっていうんだい?」
柔和な顔がこわばっている。大丈夫ですよ、と励まして、章平は胸を張って見せた。快刀乱麻を断つ方法は練っている。手っとり早く笹原の神経をいたぶってやることだ。所長のイスにふんぞり返っている彼も、システムの欠陥を見せつけられれば、安穏とはしていられないはずだ。
「作戦を練っていますから、そのときは僕のいう通りにしてください。きっとうまくいきますから・・・」
覚悟を決めたのか、逃げても始まらないな、と係長も口元を引きつらせて章平の笑みに応えた。ビニール傘を引き出してから、思い出したように振り返る。
「それはそうと、退院の日はいつ頃になるんだい?」
「順調にいけば、再来週あたりになるみたいです」
「ちょうどよかった。実は従兄弟のほうもやっと手ごろなアパートが見つかってね、来週中には引っ越すことにしたらしいんだ。君が戻るまでには部屋を元通りにしておくはずだ」
前のように乱雑なままにしておくこともないが。雨の中に傘を開いた係長に、章平はひとまず礼を告げ、手を振った。
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