第7話

 目が覚めた章平の前にいたのは、背広姿の畑野係長だった。隣には痩せぎすの看護婦が立っていた。温厚な眼差しで、章平の目を覗き込んだ畑野係長が、鈴木君、と呼んでいる。脇で看護婦が、鈴木さん、と尖った声で連呼する。きしむような重たい首を、枕の上でゆっくりと振り向ける。見回すが、視野の中に弓子の姿はない。

「ユミは?」

 声がさびついている。もう一度、ユミ、と発声する。

「おや、やっと口をきいたわね」

「ユミって誰だい?」

 二人の目がまじまじと章平を見下ろす。ユミだ、児島弓子という二十歳くらいの娘だ。必死に訴えるが、声が届かない様子である。

「よかったわねえ、生きていて。本当に奇跡だわよ。普通なら、とっくに植物人間になってるとこなのに、運がいいわよ、鈴木さん」

 針のように細い目つきと尖った体で、看護婦が大仰な声で笑う。頭蓋骨を摺りこぎでこするような、ざらついた声である。係長の肩を指で突いて、揃って背を向けた。今度は声をひそめて話す。個室の費用が高いので、明日にでも大部屋に移した方がいい、といっている。担当も変わりますから、と自分の役目が済んだらしいことを伝えている。と、係長の首もうなずいた。

「でも、本当によかったわね。ここにいられたのも、畑野さんのおかげよ。これからゆっくりお返ししなきゃね」

 再び振り向いた看護婦が、耳栓の必要な声でかしましく語りかけてくる。

「明日からは、おかゆご飯にしてくれるよう先生にもいっておくわ。リハビリも待ってるし、がんばりなさいよ! いいわね、オトコでしょ」

 よかた、よかった、とにぎにぎにしい激励と、バイバイをして部屋を出て行った。

「この棟の副婦長だよ・・・」

 やれやれという顔で係長が温和な笑みを投げている。ここが病院だということはかろうじてわかったが、どういう事情になっているのかが、章平にはわからない。どうしてここにいるのか。弓子はどこにいるのか、どれだけ時間が経過しているのか、西条や奈美のことは、盗難事件のことは・・・夢から覚めてしまった今、章平が真っ先にしなければならないのは、実像と虚像の識別と、事実の把握だった。

 窓の外には若葉が萌えている。市営の総合病院は高台にあって、病室の日当たりの好い窓からはK市の町並みが一望できる。町外れには松葉団地の丘陵が広がり、なだらかな綾線の向こうに相模湾の海原が広がっている。かすかだが、配送センターの屋根が団地の隙間から背伸びをしたように見えている。

 外科病棟の大部屋に移った章平は、さっそくリハビリを始めた。一日三度の食事と二度の回診以外の時間は、大半をリハビリに費やす。担当の看護婦の手が空いているときは、院内の散歩に付き添ってもらう。章平の担当の一人は丸顔の神谷ルリという愛くるしい名前の看護婦だった。が、名前とは対照的に性格の方は体つきのように、太っ腹だ。世話好きで、患者達からは気丈なナイチンゲールとして慕われ頼られている。章平も彼女を見かける度にデートの誘いをかける。彼女の受け持つ回診や看護や介護の日課には、外科の患者の数だけ仕事がある。手いっぱいなところを、いつも無理を言って頼む。半分はあとでね、の返答のまま忘れさられる。が、そこは根比べである。打率は低くても数打てば当たる。その日も、くるっと一回点させた目を向けて、よおし、今日は天気がいいから一ラウンドつきあっちゃおう、と他の仕事を後回しにして車イスを運んできてくれた。

 三階からエレベーターで一階ロビーに降りる。会計フロアーの人だかりを避けて、人の往来の少ない手術室や検査室の並ぶ通路に入る。沈殿した空気を掻き分けるようにして、そのまま突き当たりのドアの向こうに抜ける。こじんまりとした中庭が開け、初夏の昼下がりの日差しに迎えられる。外気に身を放つと、萌えるような生気が蘇ってくる。ルリさんも、ほっと息をついている。

 章平の二倍もありそうな逞しい腕を章平の脇に添え、

「二二六号室っていってたわよね?」

 いいながらイスから抱き起こしてくれる。おぼつかない足で立って、よちよちと歩く。行き先は十メートル先のベンチだ。

「やっぱり児島さんって女性はいないみたいよ・・・」

 二二六号室は内科の婦人病棟だと聞いていた。眠りから覚めたとき、耳にこびりついていた部屋の番号だった。散歩の度にそれとなく弓子の形跡を尋ねていたが、ルリさんの担当ではないために、即座には情報も得られなかった。章平は病に伏した弓子がそこにいるものだと、ずっと思い込んでいたのだ。

「内科にいる友人に頼んで、半年前までの内科のカルテを調べてもらったけど、その児島弓子って名前の受診記録はないそうよ」

 一瞬、目の前が暗くなって足がよろけた。太い腕がむんずと章平の肩を掴んで支えた。ありがとう、と応えて、ベンチを見据える。ようやく五合目だ。あと少しよ、といってゆっくりと腕が離れる。残り五メートルのベンチが富士山の頂のように遠い。

「そのコが夢の中で鈴木さんを生き返らせてくれたってのは、とても興味深い話だし感激するわ、あたしも本当だったら、きっと人生観が変わったと思うわね。でもね、こういうことはよく聞く話だし、そういう霊験みたいなものが人を導くにしても、現実とはやっぱり違っているのよ」

 ルリさんは柔軟でいて逞しい。ダルマのように頑丈な尻と心を持った、現実主義者だった。歳の頃も章平と同世代に見えるが、足元のおぼつかない章平とはまるっきり生き方も立場も違っている。

「失望させちゃったかな? でも、これも心のリハビリだと思ってちょうだい。さあ現実にしっかり目を向けて!」

 章平も彼女の受け持つ患者のひとりにすぎない。いつまでも手を煩わせるつもりはなかった。あと数センチのところにあるベンチの縁に、必死に手を伸ばす。最後は崩れるように、力尽きた身をあずけた。

「好い天気ね」

 透けた五月晴れの空を仰いで、章平もふっと息を吐いた。思えば去年の暮れのことである。缶ビールで酔っ払って、バイクに乗った。寒風を切って暴走した。その途中のどこからか、ぷっつりと記憶が失せていた。生きようとしていたのか死のうとしていたのか、今では定かではない。

「ほら、元気を出して! 明日は向こうの木陰よ」

 逞しい腕に肩を揺すられて、我に返る。そうだ、明日は向こうのたいさんぼくの樹だ。その次はもっと先の欅の樹だ。一刻も早く弓子を見つけよう。この空の下に彼女はいるはずだ。病院にいないのなら、元気でいるのかもしれない。テーブルいっぱいに料理を作って、章平の来るのを今か今かと首を長くして待っているに違いない。


 全身打撲で包帯だらけだったという体から最後の包帯が取れた日、ルリさんがくちなしの花を一輪持ってやってきた。湯呑み茶碗の水に浮かせて、錠剤といっしょに差し出す。

「はい、飲んで、いい香りよ」

 甘い匂いにむせながら薬を飲み干す。最後の奉仕よ、といって、くちなしと同じように白い健康的な歯を見せる。

「もう面倒は見てくれないんですか?」

 章平はデートを申し込んだが、

「これ以上つきあったら、重症の患者さんに恨み殺されるわ」

 一人で立ちなさいと、冷たい。階段から転げ落ちて重症患者に戻ってやる、と脅すと、しょうがないボウヤねえ、といいながら、ベッドから這い降りようとしている章平の腕を支えた。

 エレベーターを降りたところで、ロビーから手を振りながらやってくる畑野係長の笑顔が見えた。小走りに駆け寄ってくると、

「僕が面倒をみましょう」

 と反対側に並んで章平の腕をとった。助かります、と手を離したルリさんが、

「こういう甘えた患者さんは、しっかりしごいてやってください」

 と苦情混じりの冗談をまいて、閉まりかけていたエレベーターの中に舞い戻って行った。タイミングが良かったのか悪かったのか、章平の目的は散歩以外のところにあった。中庭に向かう通路とは反対側にある階段に足を向けると、

「どこに行くんだい?」

 おどけた顔で係長が尋ねた。彼の支えがなければ階段を昇ることはできない。

「婦人病棟につきあってください」

「婦人病棟って?」

「二二六号室ですよ」

 おい、おい、と呆れた顔で眺めていたが、章平が死にものぐるいで階段をよじ昇り始めると、あわてて手を添えてきた。

 婦人病棟の内科通路に沿った部屋を覗き込みながら、何食わぬそぶりで二二六号室を訪ねる。係長はそわそわと落ち着きがない。章平の見舞いに提げてきたらしい包みを指して、

「係長、見舞い客らしくしててください」

 と小声でささやく。うん、と胸を張った彼を伴ってドアをくぐる。と、部屋の女達の視線が一斉に二人に振り向けられた。ある者は本から目を上げ、ある者はテレビから目をそらし、またある者はベッドから身をよじり、ある者はイスから背を伸ばして振り返る。男所帯とは匂いも空気も違って、どこかなまめかしい。好奇の眼差しにあぶられ全身火だるまになって焼け落ちる。

「間違えました・・・」

 回れ右をした四本の足が、あたふたと撤退を始めた。

 階段脇の面会室には見舞い客や患者が、悲喜こもごもとした顔でたむろしていた。喫煙コーナーに座って、タバコを吸う。振り返って、二二六号室の様子を思い起こす。注がれた視線の中に、弓子の円らな瞳はなかった。ひょっとすると、弓子の顔は夢の中とは違うのかもしれない、とふと不安にかられた。彼女自身がいっていたように、容姿も願望の産物だとしたら章平には見分けがつかない。何か別の手がかりを探さなければならないのかもしれなかった。

「もう、いいかげんに夢から覚めたらどうだい?」

 畑野係長が諭すようにいうのを、章平はぼんやり聞いている。

「僕の知り合いに運送業をやっている奴がいるんだが、君のことを話したら、ぜひ、うちで働くようにいってくれ、といっていた」

 紛失していた銀の懐中時計が章平のロッカーから見つかって、章平は飲酒運転による事故の不始末と併せて処分されていた。畑野係長の説得で告訴はまぬがれたものの、横領による懲戒免職という不名誉な汚名を着せられてしまっていた。

 あの夜、あらぬ疑いをかけられ自暴自棄になって酒を浴び、バイクをすっ飛ばしたら、転んだ。生還してみると、冤罪の泥まで被されていたというわけであった。まったくデタラメでひどい仕打ちである。

「僕が保証人になるといってある・・・」

 事故のあと始末や、入院の手続き、医療費の仮払い等、彼は章平の意識がない間の用を全て代行してくれていた。もともと人の好い上司で、他のフリーターや社員からも慕われていた。もちろん採用当初からの長い付き合いだったが。個人的なことまで立ち入って世話を焼いてくれるほどのお人好しがそうそう世間にいるものではない。章平はタバコをもみ消して、係長の顔を見やった。

「正社員でもない僕になぜそんなにしてくれるんですか?」

 彼は笑みを浮かべ、

「君には色々と余分な仕事もしてもらっていたし、僕も頼りにしていたんだ。それとね、あの横領事件は君がやったとはとても思えなかったから、気の毒でさ」

「どうしてですか? 僕の高校中退の理由は聞いているんでしょ?」

「ああ、バカな話だが、所長が朝礼で公表してしまってね。しかし君じゃないのはわかるよ」

「そうですか?」

「あんなものに興味はないだろう? こういったら失礼かもしれないが、君にはあの手の品の値打ちはわからないだろうし、必要もないはずだ」

 失敬、と笑った。章平ももっともだ、とうなずいた。金をだまし盗った西条と奈美が、今度は章平が邪魔になって仕組んだ罠である。章平を信じてくれている係長も、そんな西条の陰謀には気づいていない。

「それと、もうひとつわけがあるんだ・・・」

「はあ?」

「実は今年に入って、僕の従兄弟が田舎から上京してきてね。急な赴任だったし勝手もわからないから、アパートを見つける間うちに泊めてやっていたんだ。そうこうするうちに、家賃が滞納しているのでなんとかしてくれ、と君のアパートの家主が苦情をいってきたんだよ。ほら、契約更新のときに僕が鈴木君の保証人になっていたろう?」

「ああ、そうでしたね」

 親しい身寄りもなかった章平が頼れるのは、結局、人の好い係長しかいなかった。

「君がこの先どうなるかも知れなかった時期だし、勝手に処分してしまうわけにはいかなかったから、滞納分を払わせて従兄弟に間借りしてもらうことにしたんだよ。身の回りの生活品も揃っているし、君が戻るまでの間、拝借させてもらおうとね・・・」

「そういうことですか・・・・」

「気を悪くしないでくれよ。君が退院するまでには別のアパートを探させるよ」

「助かったのは僕のほうです」

 章平は改めて彼の善意に感謝し、礼をいった。水くさいよ、と照れ半分の顔で、

「だからさ、夢のことはもう忘れて、これから先のことを真剣に考えなきゃ」

 さあ、と立ち上がって章平の腕をとる。しごきのリハビリが待っている。

 中庭に出て、ベンチ伝いによたよたと歩く。ようやく手を借りずに、一周八十メートルほどの庭の中を一人で歩けるようになった。歩行距離も日々、倍増している。

「この次来たときは、きっと外出もできるよ」

 励まされ、はい、と素直に応える。早く弓子の手料理にありつきたい。病院の味気ない食事には飽き飽きしている。

 手を借りながら、病室に戻る。ベッドに体を預け、ほっと息をつく。係長も肩の荷を下ろしたように、やれやれ、という顔で腕時計を見やる。彼は章平の見舞いの為に就業時間の一部を割いて外出してきてくれている。これ以上は引き止められないが。

「それじゃあ、また来週にでも・・・」

 と背を向けかけた係長を章平は呼び止めた。ひとつだけ、どうしても確認しておきたいことがあった。

「なんだい?」

 係長は立ち止まって、半身の格好で振り向いている。

「今年になってから、へんな紛失事件が増えていませんか?」

 一呼吸の間をおいて、うん、と彼が応える。

「僕はよく知らないが、所長と西条君がそんなことをいっていたね。しかし、もう、君が心配することじゃないだろう?」

「係長のことが心配なんです」

「僕のこと? どういうことだい」

 係長は一旦、去りかけた気持ちを引き戻すような表情で、章平に向き合った。唐突に事件のことをいっても信じてはくれまい。

「従兄弟の方というのは、田中さんとおっしゃるんでしょう?」

 神妙に章平を見やっていた彼の目が笑った。

「やぶからぼうに、なんだい。知っていたのか? いつか君にも話したかな」

「いいえ、一度も伺っていません」

「はて? そうか、あてずっぽうにいったな」

 田中なんて名はどこにでもあるからな、と呆れるようにいったが、

「太い声の人でしょう?」

 と付け足すと、彼の顔色が変わった。

「まさか・・・」

「僕は夢にかけているんです」

 困惑の表情を浮かべている係長に、もう一度、話を聞いて欲しい、と章平は真顔で訴えた。

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