第6話

 微かな潮の香りを漂わせた夜風が、街路樹の葉陰にさやぎ始めた。初夏の日の長い一日が暮れると、膨張した空気はすくみ、冷気が肌に沁みてくる。半袖では寒いくらいだ。空腹感も襲ってきた。体の節々に時折、鈍痛を覚える。が、感触があるうちはまだ生きているに違いない。生きているなら、取り残されるわけにはいかない。いたたまれず、章平は弓子を追って駆け出した。

 停留所から発進するバスの窓に弓子の姿が見えた。サンダルを脱ぎ捨て、しゃにむに追いすがる。が、少しずつ離される。気づいた弓子が車窓づたいに車内を移動しながら、目で追ってくる。そのうるんだ瞳に向かって哀願する。

 いっしょに暮らそう!

 必死に手を差し伸べ、叫ぶ。次第に遠のいてゆく車窓から、弓子の瞳が点になり見えなくなった。表情のない影だけが微かに揺らいで見える。やがて弓子もバスも夕闇の向こうに消えていった。

 サンダルの底が擦り切れるまで歩いた。次のバス停にも、その次も、次の次にも弓子の姿はなかった。悄然とさまよううち、章平の足はT市から逸れて、住み慣れた町の安アパートの階段を登っていた。望みを託し、ドアを開けようとしたが開かない。ポストの裏の隙間にガムテープでとめておいた合鍵を指先で探る。ドアの向こうで電話が鳴っているのが聞こえた。と、部屋の明かりが灯る。誰だろう? まさか章平自身ではあるまい。かがみ込んだ姿勢でドアに耳を押しつける。窓のカーテンから漏れる薄明かりでポストの表札が読めた。鈴木章平の名ではない。

「田中ですが・・・」

 表札の文字をなぞるように、太い声が響いた。まったくアカの他人である。合鍵をガムテープの奥から引き抜いて鍵穴に差し込む。が、回らない。この瞬間に章平は完全に帰る場所がないことを悟らされた。時間は半年を経過している。その間に世情はすっかり変わっている。人もアパートも職場も。もはやそこに章平が生きてゆける場所もない、と思い知らされた。


 結局、章平は配送センターまで戻った。弓子の面影に誘われて歩くうち、自然にそこにたどり着いてしまったといった方が適切だった。倉庫の屋根には煌々とスポットライトが照り、長距離便のトラックが横付けされている。これから遠出をする運転手達が事務所の中で談笑していた。

 ふらりと門をくぐった章平は、事務所の所長室へと足を運ぶ。ひとまず、そこで体を休めよう、と思った。所長室の前まで来たとき、ロッカールームから出てゆく西条の後ろ姿を見かけた。倉庫に向かっている。挙動にはいつもの落ち着きがない。倉庫までの道すがらそわそわと辺りを窺がっている。そのまま章平も彼のあとをついて行くことにした。

 二番倉庫に入った西条が、積み上げられた荷物の中からひと抱えのダンボール箱を下ろした。近隣から集荷した荷だが、受取日は昨日になっている。遅くとも今夜の便で発送しなければならない荷のはずだが、西条が意図的に発送ゲートへの運搬を遅らせておいたのであろう。荷姿は装飾品、配送先は福山方面となっている。

 台車に載せたダンボールを一番倉庫へと運ぶ。こちらは近隣地区向けに、各地から配送されてきた荷が置かれている場所である。明日の午前中には受け取り主の元に届くことになっている。西条が荷束の山から引き出したのは、形も大きさも似通ったダンボールである。こちらも伝票には装飾品の記入がある。横浜から集荷されている。なんと送り主は木下祐子、受け取り主は、北村奈美である。昼間、奈美から西条に渡されていた控えの伝票の中身の方である。それを台車の上のダンボールと入れ替える。二つのダンボールの上にかがみ込んだ西条が、何やら手仕事を始めた。

 作業着のファスナーを下ろし、懐からヘアドライヤーを取り出す。壁のコンセントにプラグを差し込んで、スイッチを入れる。吹き出す熱風でダンボールに貼られた伝票をあぶる。緩んだ糊付けの部分を丁寧に剝がす。二枚の伝票を入れ替え、元の位置に押し付けて貼り直す。すり替えたダンボールを三番倉庫の福山方面ゲートに運ぶ。この間、わずか十数分。配送の運転手達が荷の確認と出発の手続きにゲートを離れている時間である。西条の所為に気づいた者はいない。まったく大胆で、狡猾で、抜け目がない。

 二番倉庫に台車を戻した西条が手をパンと打ち払い、軍手を脱ぎ、タバコを口にくわえる。火をつけ、ふっと満喫に染めた煙を虚空に吐き出す。なんとも汚れ腐った息である。章平のそれより百倍も環境を汚す、へどが出そうな息である。金策に腐心していた下賎な男が、今は係長である。野望のためには策をも辞さない、そら恐ろしい男だ。

 そうまでして、幸福になりたいのであろうか。いや、それを幸福と呼ぶものかどうかは疑問である。ゲームウォッチを盗んだときの章平は、これぽっちの幸福感にも浸れなかった。遊んだ分だけ不幸になった。腹を満たしたつもりが、逆に食あたりに苦しむはめに陥った。他人の人生や生活を踏みにじって得る徳や福などあるはずもないし、あってはならない。

 今、章平には目の前の現実が許せなかった。なんとしても、阻止したいと思った。使命感につかれ、図らずも生きる目的が見つかった。小心者に闘う勇気が湧いてくる。今に見ていろ、と西条をにらみ据え、決意に燃えるが。出口はまだ見当らない。

 事務所から出てきた配送員達が、担当のゲートへと向かっている。彼らの影をすり抜けて事務所の入り口にたどり着く。とにかく落ち着ける場所が欲しい。所長室のソファーでひと休みしたい。事務所に入りかけたとき、一陣の風が章平の首筋を駆け抜けた。

「ショウヘイさん・・・」

 風鈴のように軽やかで心地よい音色が、耳たぶを愛撫するように囁いている。辺りを見回すが、スポットライトの中ではディーゼルエンジンと荷を積み出す騒音が、せわしなく渦巻いているいるだけである。はて、と耳をすまし、目をこらす。正門のゲート前にぼんやりと人影が見える。守衛の姿ではない。彼らはその人影には気づいていない。もしやの胸騒ぎのうちに章平の足は駆け出していた。


 正門の前で章平を待っていたのは弓子ではなかった。白い頭巾を被った初老の婦人が、おおらかな笑顔で章平を迎えた。

「さあ、さあ、こっちへいらしゃい、オボッチャマ・・・」

 あやとりおばさんだ。手招きして章平を誘う。まさか、天国では? はたと立ち止まって尋ねる。

「どこへ行くんですか?」

「ついてくればわかります」

 心配いりませんよ、と章平の前に立って案内する。

 いくつかの通りを越え、町明かりの中を行く。途中から、だらだらとした坂道を登り始めた。やがて町の喧騒が遠のき、ひっそりと、湖底のように押し黙った闇が訪れた。オバサンの白い背が見えるだけで、どこもかしこも真っ黒こげの闇である。手探りする手までがすすけて見えない。心もとない状況である。あのですねえ、と陽気なオバサンらしからぬ無口な背中に向かって尋ねかけたとき、

「ここからは一人でおいきなさい」

 突然、見放された。こんな黒こげの夜道で一人にされたら、野たれ死んでしまうではないか。天国どころか、これではめくら地獄である。

「僕を迷子にする気ですか?」

「これ以上、迷うことはありませんよ」

 無責任なことをいっている。さあ、と闇の彼方に差しやった指先の向こうには、かすかな灯りが見えた。そうか、あそこが出口か。

「彼女もあそこにいるんですね?」

 振り返ると、オバサンの白い影は霞のように消えていた。

 灯火に導かれるように、章平は駆け出した。灯はやがて、ぼんやりからくっきりに様変わりした。たいさんぼくの花の香りが降り注ぐ小道を駆け抜け、小池を回って、欅の木陰に飛びこむ。ぼんぼりのような柔らかな明かりがテラスにこぼれている。ほおずきよりも赤く照れた、夕焼けよりも真っ赤な情念が一気に身を焦がす。思わず、ユミ! と歓喜にむせて叫ぶ。

 階段を駆け上がり、部屋に飛び込む。ユミ! ダイニングのテーブルには両のほっぺたが落ちそうなディナーの飾り付けが施されている。ほかほかのコロッケをひとつつまみ食いした口で、口ごもりながら、もう一度、弓子の名を呼ぶ。

「ショウヘイさん?」

 若妻の返答に喜び勇んで部屋の奥へ駆け込む。と、

「おかえりなさい・・・」

 弓子がベッドに腰掛けて微笑んでいる。彼女のそばに歩み寄ると、さりげなく腰をずらして章平を迎える。隣に座って、笑みを返す。さて、と言葉が見つからない。

「ごめんね、一人にして・・・」

 しおらしくいうのを、

「気にすることんなんかないさ。おかげで生きる決心もついたし・・・」

 ははは、と笑い飛ばす。そう、と伏目がちな弓子は、

「私は何も見つけられなかったわ。パパも事務所も家も・・・」

 笑みも薄らいで、肩を落としている。

「どういうことだい?」

「何もなかったの。すっかり私の記憶とは違っていたわ・・・」

「君も?」

 こっくりうなずいて、円らな瞳を上げる。

「私なんて、きっと必要もされていないのかもしれないわね。こんないいかげんな女、社会迷惑なんだわ・・・」

 今にも雨模様になりそうな、かき曇らせた顔でいう。章平はあわてて励ます。

「迷惑なもんか。こんな可愛いコを誰が拒むっていうんだい」

「ありがとう、そういってくれるのはあなただけよ」

 彼女の顔に、線香花火のような微かな笑みが戻った。もう一押しだ。

「でも、私は普通の女のコじゃないの。ディスコも、カラオケも、ドライブも、ボーリングも行ったことがない。世間知らずで、つまらない女よ」

「どこがつまらないっていうんだい。料理がうまくって、あやとりができて、元気で、賢くって、美人で、申し分ないじゃないか。ディスコやカラオケがなんだい。行きたければ、いつだって僕が連れて行ってやる。そうだ、僕のバイクでドライブして行こう」

「あなたが見ているのは、本当の私じゃない。たぶん半分以上は願望なのよ」

 願望? やっとニアミスを回避して、互いの痛みを分かちあえたと思ったのに。今さら願望や夢はなかろう。

「私は賢くなんかないし、美人なんかじゃないし、元気なんかじゃない。全部、そうなりたいという願いなのよ。自分をごまかして、結局は、生きる気力が欲しかっただけなのよ・・・」

「そうかい、でも僕は君が好きだ。好きになった。君の願望を好きになったわけじゃない。君自身を好きになったんだ。世間知らずだろうが、わがままだろうがブスだろうが、病弱だろうが、君が僕の前で生身の人間であってくれればいい。どうせ僕だって、たいした男じゃないんだ」

「あなたのストレートなとこは願望?」

「本心さ」

「ごめんなさい、意地悪ばっかりいって、本当は私、あなたに賭けたかったの」

「何を?」

「私を救ってくれるナイト・・・」

『僕がふざけた男だから、がっかりしてたんだな?」

「初めはそうだった。でも、今は素敵な男性だって思うわ」

「じゃあ、一緒に暮らそう」

 正真正銘、まことの気持ちだと、じっと弓子の瞳に訴える。黙ったまま視線がうなずく。やった! 思わず抱きしめようとすると、

「ねえ、これとって!」

 目の前にあやとり糸が差し出された。弓子の瞳が少女になっている。やっぱり娘心はわからない。呆れ半分、憤慨半分で、不器用なんだ、と断わる。が、いいからとって、と強引だ。めくるめく抱擁の夢は断たれ、少女のママゴト遊びにつき合わされるはめになった。

 いわれるまま、指と指で糸を摘み手に絡ませる。両手に絡まった糸を張ると、素早く彼女の指が絡んできて、別の模様を作る。顎の先で、ここ、ここ、と教えられながら、また糸をたぐる。たんぼ、川、と繰り返す。最後の仕上げは彼女がとって、つづみになる。はい、もう一度、とうんざり気分の手を、よしよし、とでもいうようにあやして、糸を絡ませてくる。

 百回もつき合わされたろうか、いいかげんにしろ、とバカのひとつ覚えになってしまった手を引っ込めると、もういいわ、とようやく放免された。はい、とつづみの模様を目線にかざし、

「私とあなたの手で作った最初の作品よ」

 と嬉しそうにいい、覚えていてね、と媚びたしなを作る。嫌でも手にこびりついて忘れない。わかった、という代わりに親指と人差し指でOKサインを作ってやると、何を思ったのか、弓子が同じように二本の指を輪の中に絡ませてきた。鎖になった指を見つめ、

「私達の結婚式・・・」

 はにかむようにいう。いつまでママゴトを続けるつもりでいるのか、そろそろ大人に変身してもらって、愛の交換会を始めたい。章平は今度ばかりはと、すきを与えず突進した。

 彼女の肩を抱え、あやとりもろともベッドに押さえ込む。

「もう時間よ」

 章平の鼻の下で、弓子がささやく。今度はなんだ? 二度と離すもんか、と羽交い絞めにしたまま、彼女を見やる。

「ほら、誰かが呼んでる・・・」

 澄ました耳に、鈴木君、という男の声が聞こえた。せっかく迎えたクライマックスというのに、なんと融通の利かない夢だ。そら耳だ、と振り払ってことさらに弓子を抱きしめる。

「あったかい・・・」

 と鼻の下で彼女が喘ぐ。温かいどころか、熱いくらいだ。まるで湯たんぽだ。冷え性の彼女がなぜ、そんなに熱いのか。ユミ、と呼びかけるが返事がない。あわてて額に手をやる。火傷しそうな熱である。円らな瞳が閉じ、息の音も微かになっている。いつのまにか、弓子は章平の腕の中でぐったりとしている。おい、ユミ、しっかりしろ! と叫ぶ。返事がんない。ユミ・・・。

 鈴木君! 鈴木さん!

 先生、二二六号室の患者の様子がへんです!

 男と女の声がやまびこのように錯綜し、頭の芯で響き渡っている。章平は弓子を必死に抱きかかえ、夢なら彼女もいっしょに連れ出してくれ、と訴えた。

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