第5話

 坂を下って、一旦、もときた道を引き返す。バス通りの手前の角を右に折れてしばらくゆくと、町並みが変わる。高層団地から、一転して、戸建ての閑静な住宅街である。公園で子供達が無邪気にはしゃいでいた。声をなごませた弓子が、

「子供は好き?」

 と不意に尋ねてきた。さあ、どうかな、と他人ごとのように答える。西条や奈美のことで脳味噌がふさがっていたせいだが。顧みれば、子供どころか本気で人を好きになったことすらないかもしれない。まったく人情味も愛想もない男である。

「そう・・・」

 弓子が肩をすくめた。表情にも失望の色がにじんでいる。今さら彼女の敵対心をそそりたくはなかった。つい、

『僕たちの子供なら好きになれるかも・・・」

 と舌先がツルンと滑った。これではプロポーズだ。が、バカみたい、と背中で笑われた。言い方が短絡すぎたが、バカはなかろう。面と向かって、好きなのは君だ、とはいえない。夢だと思っていたときに抱いてしまうべきだった。章平の恋愛の程度はしょせん、そんなものである。

「ねえ、いつかあなたのバイクに乗せてくれない?」

 振り向いた途端に媚を売ってきた。まったくイイ性格をしている。男の純情を弄ぶ小悪魔め! 当てのない約束などできるわけがない。不機嫌に、だめだ、と断る。鼻の頭にしわを乗せた弓子が、ケチ、と口を尖らせる。

「そういうことは話を合わせなさいよ」

 女性に恥をかかせるもんじゃなくってよ、のおまけつきでいう。ならば、と章平も応酬する。

「明日もあさってもない世界で、いつかの約束はできないだろう?」

「どうしてないとわかるの?」

「だって出口もわかってないじゃないか」

「どこの世界にだって入り口と出口はあるわよ」

「入り口はあったって出口のないところもあるさ」

「ないわよ、そんな世界」

「棺桶の中ならどうだ? 一度入ったら出られないだろう」

「ずいぶん怖い例えね」

「天国や地獄だってそうさ。入り口はあっても、出口はない」

「ここはそんなところじゃないわよ」

「誰がそれを証明できるんだ?」

「私達にきまってるじゃない!」

「私達っていうのは君と僕のことか?」

「他に誰がいるっていうのよ。二人の問題でしょ?」

「なるほど、ここで頼りになるのは君だけってことか」

「そうよ、逃げたって隠れたって、パートナーは私しかいないのよ」

「へえ、そうかい、なら、いわしてもらおうか」

「なんなの?」

「パートナーならパートナーらしく、もっと協力的な態度をしたらどうだ?」

「めいっぱい協力してるじゃない!」

「そんな態度のどこが協力的っていうんだ」

「これ以上、何をしてほしいっていうのよ・・・ちょっと待って、まさか、私を抱かせろっていうつもりじゃないでしょうね?」

「・・・」

 否定しきれずに、思わず言葉が詰まった。単刀直入かつ単純明快にいってしまうなら、そういうものかもしれないが。もう少し複雑にしてデリケートにいうなら、男としてのプライドをくすぐってもらいたかったのだ。

「なんて不潔で不謹慎なひとなのよ。この超ドスケベエッチ!」

「またずいぶんハデに飾り立ててくれるじゃないかい。このジャジャ馬乱気流娘が!」

「なんですって?」

 すっかりはしたない罵り合いになってしまった。些細なニアミスである。本当に他人同士でいたいなら、和気あいあいスクラム組んで「協力」のプラカードを振り合っていればいい。どういう因縁かは知らないが、ゆきずりに出会っただけの仲とは思えない。腹を立てても、逆に愛しさが増してきてしまう。

「何をムキになってるのよ・・・」

「ムキになってるのは君だろう・・・」

 バカね、と笑った弓子が身をすり寄せ、腕を絡ませてきた。休戦と和睦が成立し、図らずも彼女との距離が縮まった。章平を見上げた顔にも、穏やかな笑みが戻っている。

「あなたって、本当はすごくシャイなんでしょ?」

 円い目が章平の心の淵を覗き込む。

「・・・」

 唐突に進入してきた内視鏡にたじろぐ。確かに世渡りのへたくそな臆病者だ。

「私もあなたも、きっと、ここでは伸び伸びしていられるのかもしれないわね」

 ふっと、母親のような情愛のこもった目で笑い、

「あなた、奇跡は信じる?」

 と感慨深げに尋ねてきた。が、章平には彼女の願う奇跡がどんなものかはわからなかった。

「悪いが、迷信と天気予報は信じないことにしてるんだ」

 ついでにオンナも、と小声でつけ足す。

「もしもこれが夢だとして、目が覚めたあなたのそばに私がいたら?」

「同じベッドに寝てたら、信じるかも・・・」

「相変わらずストレートね」

 弓子は呆れて笑った。今、章平は幸福を肌身にまとっている気がした。腕に巻きついた弓子の温もりがやさしい。現実では決して味わうことのなかった充実感である。このまま幸福を抱きしめてしまえる現実があるのなら、もう一度、本気で生きてみたい、と切に思った。


 団地の中ほどまで来たところで、弓子が歩を止めた。どこからかショパンが聴こえる。ここか? と振り返る。うん、とうなずいた目が道の反対側の家を眺めている。檜造りらしい端正な和風構えの家である。あの曲は? 耳を傾けながら尋ねると、

「子犬のワルツよ」

 と彼女が呟く。

「ママかい?」

「違うわ・・・」

 門柱の表札には児島幸恵の名が刻まれている。弓子がいうママの名前である。なぜ旦那の名前がないのかはわからない。しばらく息をひそめるようにしていた弓子が、

「入るわ!」

 と決意をこめた声で言った。

 先に玄関に立って、さあ、と引き戸を開けてやる。一歩足を踏み入れて立ち止まった弓子が、来て、と章平の手を引っ張った。スクラム組んで上がりこむ。檜の香りがたちこめる廊下を過ぎ、奥の間に押し入る。と、日差しの溢れた空間が開け、部屋には父親兼夫と母親兼妻と娘兼少女が幸福のプラカードを提げて団らんしていた。不幸の看板を背負っている人間には妬ましい光景である。

 軽やかに踊っていた子犬がつまづいた。

「ママ、ここ、わからない」

 ピアノに向かっていた少女が鍵盤の手を止め、脇で拍子をとっていた母親を振り返る。弓子の母親でもある。どことなく似通った表情やしぐさが窺える。

「ほら、こうでしょ?」

 楽譜を指でなぞりながら、母親が片手で弾いてみせる。少女はまねて両手で弾く。が、うまく弾けない。また、母親が、ほら、といって手本を示すが、少女の手は鍵盤の上でもつれる。気持ちはとっくに音を外れ、ソファーで見守っている父親の方に甘えた視線を投げている。

「もう、今日はそこまでにしてやったらどうだい?」

 父親の援護射撃で、子犬になった少女が跳ねる。ピアノのイスを降りて、あそぼ、とじゃれつく。NHKのアナウンサーのように、とびきり人の好さそうなオジサン風情が娘を抱きかかえる。その笑みには優しさと、逞しさと、ゆとりと、自信がみなぎっている。

「発表会でママに恥をかかせたら、二人ともおしおきよ」

 しょうがないわね、と母親が首を振っている。なんとも平和な光景である。

「ママ・・・」

 気がつくと、かたわらで弓子が涙ぐんでいる。きっと、彼女の瞼の奥にも同じ光景が焼きついていたのであろう。懐旧と、慕情と、嫉妬をこめた目で彼らを見つめている。いたわる言葉が見つからず、章平はだまって見守るだけだった。

「ずるいわよ、自分だけ幸せになって!」

 バカバカ、といきなり彼女の気性が爆発した。子犬のワルツをわしづかみにして引きちぎり始めた。あわてて取り押さえて、取り乱している娘を必死でなだめる。が、手に負えない。苦し紛れに、

「君も幸せになればいいじゃないか!」

 と怒鳴ってしまった。もみ合ううち、弓子は章平の胸にすがりついてきて顔を埋めた。熱い吐息が章平の胸を焦がした。

「もう、帰ろう・・・」

 くしゃくしゃになった楽譜を元に戻し、彼女の肩を促す。平和のたたずまいをあとに、二人は重い足取りで外に出た。

 

 帰るといっても、あてはない。押し黙ったまま、二人は団地の中をめぐり歩いた。見なれぬ景色にも慣れてくる。歩き疲れた頃、互いの足はふらりと公園の中に踏み込んでいた。

 いつのまにか日が暮れ始めていた。公園には街灯が点り、昼の活気に疲れた遊び場もひっそりと影絵のようにたたずんでいる。ブランコに並んで座った。沈んだ空気が、静かに二人の影も溶かす。

「どこに帰るの?」

 黙ったまま影を揺らしていた弓子が、身をきしませるように振り向いた。久しく聞く彼女の声だった。が、口を閉ざしたときから、事態はなんら変わってはいない。行くあても返す言葉もなかった。

 探していた出口も見つからず、とうとう日も暮れてしまった。最初に目覚めた場所で無邪気に過ごしていれば、惨めな思いもしなくて済んだだろうに、と悔やまれた。弓子も同じ気持ちであろう。事実を知ってみたところで、何ひとつ心を満たしたものはない。互いに自身の無知と無力さに気づいただけである。

「ママゴトでもするか?」

 目の前には、砂場も水場もある。このまま無垢に身をくるめ、童心の殻の中に閉じこもってしまいたかった。そのまま餓死しようが、野垂れ死にしようが、あとは野となれ山となれだ。

「ここが天国だなんて思えないわ・・・もし死ぬとしても、最後はひとりよ」

「え?」

「私、もう一度、自分を確かめてくる・・・」

 ブランコを降りた弓子が一人で歩き出した。

「何を?」

「私とパパがどうしてるか、見ておきたいの」

「自分の家か?」

「そう、T市よ」

「だいぶ先だな・・・」

 バスと電車で小一時間ほど先になる。章平にはあまり馴染みのある町ではない。が、奈美と暮らすはずだったマンションがある、印象の暗い町でもあった。二度とゆくこともないと思っていたが、弓子を一人で行かせるわけにはいかない。あわててブランコを飛び降り、あとを追う。

「ついて来ないで!」

 振り向いた弓子の目が険しい。一人で見てきたいの、と章平を寄せつけない。別に冷やかしについて行くわけじゃない。心配だからだ。

「なんだい、今ごろ厄介ばらいしようっていうのか?」

「違うわ、お互い相談して決めることじゃないってわかったの。あなただってそうでしょ。結局、最後はひとりで決めなきゃいけないのよ」

「決めるって何を・・・最後ってのは、ひょっとしてもう会えないってことなのか?」

「生きるか死ぬかってことよ。その結果、会えないかもしれないし、また会えるかもしれない。今はそれしかいえない」

「さよならも、いえないのか?」

「いったら、決心が鈍るもの」

 わかって、といって唇を噛んだ。身をひるがえして駆けてゆく弓子を見送りながら、章平はとめどない寂寥感にひしがれていた。

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