第4話
事務所を出た西条が奈美を引き連れて二番倉庫へ入ってゆく。西条と章平が担当していた倉庫である。近隣の地区から集荷された、その日の荷が運び込まれてくる場所である。荷は夕方までには区分けが行われ、別々の発送ゲートから夜間便で各地の配送センターに運ばれてゆく。
「佐々木君、今日は荷が少ないから定時で帰っていいよ」
中で荷分けをしていたフリーターらしい青年が、西条を振り向いて、どうも、と頭を下げる。見かけない顔である。立場が変われば態度も変わる。西条は、うん、とおうようにうなずいている。以前は彼もその言葉を待つ身分であった。どういう理由で西条がそんな立場になっているのか、前任の畑野係長はどうしたのか、なにより不思議なことは、そこにいるはずのもうひとりの章平がいないことだった。今の自分の姿が魂のようなものだとすれば、抜け殻の方はどうしているのか。非番でアパートにでも寝転がっているのだろうか。
「やあ、奥さん、また旦那に弁当を届けにきたのかね」
あわてて振り向いたのは奈美よりも西条だった。いつのまにか所長の笹原が後ろに立っていた。
「所長、帰っていたんですか・・・」
西条が応え、
「あ、ついでだったものですから・・・いつもお世話になります」
隣で奈美が腰の曲がらないぎこちないしぐさで挨拶をする。世話になったのはこっちだよ、と笹原が笑い、関脇くらいに突き出した背広の腹を叩いて、
「もう、落ち着いたかね?」
と奈美のマタニティーの腹をみやる。おかげさまで、順調です、と前頭三枚目くらいで腹づつみをした奈美が愛嬌を振りまく。それはよかった、と笹原。社交辞令用の顔を業務用に変え、西条のかたわらに歩み寄った彼が、耳打ちする。
「ちょっと、所長室へ来てくれないか」
西条がうなずくそばで、章平も弓子もいっしょにうなずいた。
奈美を見送った西条が、事務所の方へ向かう。章平はどうしたものか、と思案している。西条のあとを追って、なにやら怪しげな事の次第を見定めておきたいが。奈美の行き先も気になった。章平のどっちつかずでいる態度を察したのか、
「ねえ、私が彼女のあとをつけようか?」
弓子が停留所にいる奈美を振り返っていった。なるほど、名案だ。確か奈美の宛名の入った伝票には、松葉団地の名があった。いずれ弓子の秘密の玉手箱を開けに行かなければならない場所である。彼女の目はすっかり探偵気取りになっている。多少、世情にはうといようだが、章平よりは機敏で賢そうだ。うん、と協力を要請し、
「先に行って待っててくれないか。待ち合わせ場所は松葉団地の入り口にしよう。迷いそうになったら追跡は打ち切りにして、すぐにバス通りに戻るんだよ」
いい終わらぬうちに背を向けた弓子が、了解、といって停留所の方へ走り始めた。
西条のあとを追って、閉じかけた所長室のドアに飛び込むと、笹原が脱いだ上着といっしょに重たげな体をソファーに投げ出したところだった。手振りで促された西条が反対側に座るのを、脇に回りこんで章平も腰を下ろす。
「暑くなったな・・・」
いいながら、ネクタイの結び目を緩めている対面の笹原を西条といっしょの向きで眺める。が、どこか章平だけしゃちこばってしまっている。まだ記憶に真新しい、いまわしい光景が脳裏に蘇ってきた。
その日、所長室に呼び出されたのは、章平ひとりであった。笹原は長袖の作業着姿で、そっくり返った顎の先で章平をへいげいしていた。章平はただ、かしこまって上目使いに彼の視線を仰ぎ見る。仕事に特別な不手際があったとは思わないし、服務を乱した記憶もなかった。が、どこか威圧的な彼の態度に身をすくめてしまっていた。
「君は最近、荷物を外に持ち出したことはないかね?」
いきなり尋問口調であった。はい? 荷物といわれても、すぐにはなんのことだかわからなかった。
「例えば、これくらいの小箱にして・・・」
小脇に抱えるくらいの大きさを両手の間隔で測るように示して見せながら、どうだね、と詰問する。まったく身に覚えはない。目につくような所持品は、守衛所で中身を開けて見せるか、あらかじめ許可シールをもらって貼っておかなければ持ち出しもできないことになっている。首を横に振って応えると、
「配送主から紛失の被害届けが出ていてね・・・」
と笹原が話を続ける。
「単身赴任先で誕生日を迎えたご主人にと、奥さんが贈った銀の懐中時計らしいんだが。なかなかの値打ちものらしい」
だからなんだ? 章平には関係もない話だ。不機嫌に彼を見やる。と、
「実は君が高校を中退したときの話を聞いたんだ・・・」
古傷を抉るような話を切り出してきた。フリーターとはいえ、かれこれ在職十年になる。行く当てもないまま、期間契約を続けるうちに年を重ねてきてしまった。本来なら、とっくに正社員に登用されているはずのところだ。今頃。高校のときの話もあるまい。ほかに取り柄も能もないから文句もいわないが。真面目に勤め上げてきた青年に向かって、なんという仕打ちであろう。
「君にはご両親もいなかったね」
父親は呑んだくれたあげく、肝臓を患って死んだ。わけは知らないが、母親はもの心ついた頃からいなかった。父親が生きている間は戸籍にも名前があったと記憶するが、一度も母の名を口にすることもなく父の死とともに消滅してしまった。章平が中学のときである。
その後、章平は叔父の家に引き取られた。が、かすみを食わされて生きていただけの人生である。甘えることも叶わず、欲しいものひとつ買ってもらえなかった。ただひとつのわがままといえば、高校に進学させてもらったことだ。が、大半の学費はアルバイトでまかなっていた。
「まさかとは思うんだが、他に心あたりのある者がいなくてね」
笹原の言葉はただ厚かましい限りで、強引に心の胸ぐらをつかんでくる。ついでに中退の理由まで知っているというのだろう。それにこじつけ、魔女狩りをしているとしか思えなかった。
遊ぶ金もない高校生が、どんな惨めな生活を強いられたか、想像だにすまい。すさんだ心に魔がさしたのも、そんなときである。クラスメートのゲームウォッチを盗んだ。あとにも先にもそれが唯一の章平の罪暦である。相手の親が教育委員をしていた関係もあって、見つかったあと、叔父からの謝罪もないという理由で厳罰の退学に処せられた。
「こんなことまでしたくはないんだが・・・」
笹原は身を乗り出して、鼻息がかかるところまで顔を近づけてきた。
「君の潔白を証明するためにも、一度、君のアパートの部屋をあらためさせてもらえないだろうか?」
職場の権限をそこまで行使できるものとは思わない。が、疑いを晴らすには彼の無遠慮な要求を受け入れるほかなさそうだった。人を見損なうというのは、こういうことをいうのでだろう。笹原の顔から、日頃あがめていた所長の肩書きが剥がれ落ちて威厳を刻んだ顔のしわがだらしなくたるんで見えた。
その日の退社に合わせ、車で章平のバイクに付き添う格好でアパートを訪れた笹原は、ゴミ箱と化している章平の部屋に入るや、長居は無用だという顔で、そそくさと帰って行った。一晩、くやしさと涙にまみれて泣いた。コンビニで買ってきたビールを目が回るまで飲んで、バイクをすっ飛ばした。章平の記憶では、それがつい昨夜のことで、センターでの最後の出来事でもあった。
その笹原がソファーの反対側で、まいった、まいった、といいながら生え際の遠のいた顔の汗を拭っている。向き合った西条は妙に落ち着き払った顔である。したたかに薄笑いを浮かべているようにも見える。
「行かれたのは、静岡でしたか・・・それで、結果は?」
「うん、なんでも送った方は伊万里焼きのカラフルな壷だというんだが、届いていたのは変哲もない花瓶だった。送り主の宛名も間違いないが、中身が違うというんだ」
「違うといわれても、我々が当事者ではないんですからこまりますよね」
「ああ、その通りだ。我々は単なる運び屋だからね。中身のことは、一切わからん。発送の控えと受け取りの控えが符合しているし、配送経路をたどってみても伝票と時間に間違いはない」
「保険詐欺じゃないですか?」
「確かに保険を付けた荷だったが、面と向かってそんなことをいうわけにはいかんからな。高額品だから、いずれ被害届けが出れば、保険会社の調査も入るだろうが。今は頭を下げているよりしかたない・・・」
まいったよ、と額にまた汗を滴らせる。
「何か妙案はないかね。西条君」
西条のような下賎な男に、何を相談しようというつもりか。笹原の顔は、まるで彼に嘆願しているように見える。
「こういうことは、どこでも少なからずあることでしょう? もともとそういうリスクを背負った商売ですから、ある程度はしかたないじゃないですか」
やけに気取った口調である。係長の肩書きがついただけで人格まで変わるというのだろうか。章平は半信半疑で西条の係長面の顔を眺める。
「しかたないといっても、相手があることだからね。弁済はもちろんだが、究明もしなきゃならん。鈴木君や畑野君がいた頃は、彼らの横領が発覚して落着したが、今はわけもわからん・・・」
章平と畑野係長が横領したとは、どういうことだろう。二人ともだいそれた人物ではない。章平は小心者、畑野係長は律義者を絵に描いたような人格者だ。真面目に勤めていた者を、邪推で排除したというのか。悔しさと無念さがこみ上げてきて、拳を振り上げるが、ひとり相撲を思いだして、ぐっと堪える。彼らとは土俵が違っている。
「あれ以来、守衛も増員し、出入りのチェックも厳しくしたというのに、逆に紛失事件は増加している。今年に入って五件目だよ。一度や二度ならまだ弁明も効くだろうが、こう度々じゃ、保険も効かなくなるし、信用まで危うくなる。これ以上このセンターで事が起こればワシが責任を取らなければならん」
「せっぱ詰まっている、ということですか?」
「そういうことだよ、わかっているだろう」
「私にいわれても、こまるなあ・・・」
西条の態度には言葉ほどに困惑している様子は見られない。むしろ半開きにした駆け込み寺の門前で、思わせぶりに待ち構えているという雰囲気だ。
「そこをなんとか、例の方法で頼むよ」
「はて?」
西条がとぼけ顔で首をひねる。やけに冷たいな、と笹原の顔が青ざめた。顔の汗がひいている。西条は前髪の奥から涼しい目をのぞかせている。
「君を正社員にしてやったのも、早々に所長付きの係長に昇格させてやったのもワシだぞ。今さら恩を忘れたとはいわせんぞ!」
笹原の口調が穏やかではなくなった。が、
「あんたを助けたのは俺のほうだろう?」
西条の口調もヤクザまがいに変わった。まるで別人である。いや、仮面を脱いだところだ。笹原が調べるべきだったのは章平の過去帳などより西条の素性だったのだ。こいつは押し込み強盗よりタチの悪い、非情で卑劣な奴だ。
「保険屋に代わって示談をつけてやった俺の恩は忘れたのか? 工面してやった金を返してもらおうか? かれこれ、二百万くらい、いや利息をつけて三百万くらいにはなるだろうよ」
「それは、君の昇給分で埋め合わせる約束だったじゃないか」
「そうだな、忘れてなきゃいいさ」
二人の立場は完全に入れ替わっている。なんと哀れな男か。守勢に回った笹原は、すっかり所長の人格を失っている。
「じゃあ、もう一度、なんとかしてくれないか。百万でいいんだよ。君の金だって、たまたま海岸で拾った鞄に入っていたって話じゃないか。もう一度だけ、会社のために使ったって損はないだろう?」
「あんたも同罪ってわけだ」
「紛失事件のうわさも聞かないし、どうせまともな金じゃあるまい。もしもの事があったら、ワシが責任をとるよ」
笹原が合掌して西条を拝む。ニヤリとした西条が前髪を掻きあげ、しょうがない野郎だ、と蔑むように吐いた。
「これきりだ、この先のことは知らないぞ。もう金もない」
もうない? 他人からかすめた金をそんな邪悪なことにつぎこんでしまっているのか。遊び人の西条には金などなかった。資金源は元をただせば章平の通帳である。
「ああ、いいとも、今年一年無事に済めば、来年はまた保険も新規契約に入る。いつまでもこんなことは起こらんよ」
恩に着る、と笹原はだらしなく相好を崩して頭を下げた。はっは、と不遜にも西条が笑った。なんと愚かしく、あさましい根性だ。目からうろこが落ちた眼差しで、章平は改めて西条を眺めた。
大通りに出てバスを待った。停留所には他に乗客の姿はなかった。五分もすると、がら空きのバスがやってきた。一旦、歩道脇まですり寄ってきたが、乗客がいないと思ったのか、加速しながら素通りしてゆく。必死に並走したが徒労だった。
停留所に戻って時刻表を見る。バスはほぼ三十分おきくらいにあるが、そんな時間を無駄にはできない。弓子はしびれを切らして待っているであろう。松葉団地まではバイクで5分、歩いても二十分もあればいける距離である。待ったところで次のバスが止まってくれるくれるかはわからない。歩くのが賢明であろう。
サンダル履きを、このときほど後悔したことはなかった。思った以上に時間を費やしてしまい、途中、二台のバスに追いこされて、ようやく団地の入り口にたどり着いた。が、弓子の姿が見当たらない。しばらく回りをうろついて探すが、若妻風情はどこにも見えなかった。迷ったのだろうか。やはり一人にするのはまずかったかもしれない。無茶をするとは思わないが、世情にうとく、気性の激しい分だけ気がかりだった。ひょっとしてこのまま会えないのではないか、という余分な不安までつのってきた。苛立ち紛れにジーンズのポケットをまさぐる。
タバコ欲しさの無意識の動作であったが、くしゃくしゃに丸めたセブンスターの残骸が手の平に納まった。引き出して中を改める。と、折れ曲がってしなびたタバコの一本が現れた。しめた! 伸ばして口にくわえる。脳味噌がとろけそうな香りに、つかのま、気分がまぎれるが。火がない。たちまち気分の方は火事にみまわれた。と、
「タバコはダメよ」
水を差す言葉に救われた。振り向くと、待ちくたびれちゃった、と弓子が団地を背にしてやってきた。
「ごめん、どれくらい待った?」
「ソラでも団地の地図が描けるくらいよ」
秘密の玉手箱は一人で開けてしまったのだろうか。
「あとで、私にもつきあってね。ママのいるところなの・・・」
やはり目当ての場所はみつけたらしい。火のないタバコを耳に挟んで、回れ右をした彼女のあとについてゆく。
互いに離ればなれになっていた時間の空白を埋めあうように、見てきた事を報告し合う。章平は西条と笹原の話の続きを、弓子の方は奈美と、ママという人物がいる家をつきとめたという経過である。章平の話に憤慨していた弓子も、話が母親のことにおよぶと、トーンが落ちた。
「パパとママは私が小学校のときに離婚したのよ・・・」
立ち入った話になったが。章平は奇妙にめぐりあった、この小憎らしくも悩ましいパートナーのプロフィールに触れてみたくなった。弓子も心を開き始めている。街路樹の青葉に囲まれた小道の上空を、二羽のつばめがスクラムを組んで駆け抜けて行った。
「どうして別れたんだい?」
「性格の不一致・・・職業選択と愛情選択を間違えたのね。パパは事業家、ママは音楽家。もとはコンサートの会場で隣同士になったのがきっかけだったみたいだけど、かたや趣味、かたや本業。雰囲気で結婚までいってしまったのはいいけれど、今度はかたや淡白、かたや情熱。それが水と油になって喧嘩し始めたの。バカね、二人とも愛情オンチだったのよ」
「小学生がずいぶんとませた観察してたんだな」
「伯母さんに聞いたのよ」
「あのあやとり伯母さんかい?」
名も知らない、ひとなつこい愉快なオバサンを思いだして章平はそう呼んだ。
「伯母さんは父方の親戚だけど、おおらかな人だったからママも親しくしてたのよ。いざこざが起きると、いつも二人の間に入って仲裁してたわ。ママが家を飛び出してしまったあと、私の面倒をみてくれていたのは伯母さんなのよ」
「君はママにはついていかなかったのかい?」
「駆け落ちしたのよ、ママ」
「えらく情熱的なママだな」
「私はそんな身勝手な人、許せない・・・許せなかったの」
「じゃあ今頃、なんで行く気になったんだ?」
しばらく会話が途切れた。道は整然と立ち並ぶ団地のビルの一角を過ぎ、風の吹き抜ける高台に差しかかっている。その先はビルがまばらになり、山を切り崩したばかりの赤土の斜面が広がっている。
ここよ、といって弓子が丘の中腹に建ったビルを指した。まだ半分の部屋は空いていそうな、新築のビルである。先に玄関ホールに向かった弓子が、早く、といってサンダル履きのグズな章平の足をせかした。
扉の開いていたエレベーターに乗ると弓子がボタンを押した。扉が閉じ、ゆっくりと上昇し始める。体が重くなった。発作的な貧血症状か、視野が狭くなり、難聴になった。どこからか、鈴木君、という章平を呼ぶ男の声がした。振り返るが、弓子以外に人がいるはずもない。弓子の唇が動いている。が、声は虫の音のように遠い。
「ずっと知りたかったことがあるの・・・」
半ば口の動きで聞き取りながら、頭の角を小突く。と、ようやく耳栓がポンと外れた。チューニングが戻った耳に弓子の声が飛び込んでくる。
「ママは、私とパパと、大勢の親戚やお友達を裏切っていって、本当に幸せになれたのかどうか・・・」
途切れていた話の続きだとわかった。章平は一瞬、ふと考え、吟味し、
「幸せだったら?」
と尋ねた。
「絶対、許せないわ!」
彼女らしい答えだ。章平は苦笑した。考えてみれば章平も同じ境遇だった。章平の母もどこかへ蒸発した。が、行方は今も知れない。名前さえも忘れてしまった。どこかで偶然に会ったとしても、他人のまますれ違うだけである。戸籍や名前が結ばれていたところで、心の糸が切れていたら他人と同じである。が、憎しみや怒りや嫉妬を抱いている限りは、まだ他人ではない。だから彼女には許せないのだ、と理解した。
エレベーターを降りるとすぐに西条宏の表札がかかったドアが目に止まった。脇に北村奈美の名も並んで記されている。奈美は旧姓のままである。章平が、ドアとにらめっこしていると弓子が脇からノブをつかんで引いた。ドアが開く。あれ? 開くのか、不思議がっていると、
「わけはわからないけど、私達にも物を動かせるのよ」
平然と弓子がいった。そういえば、エレベーターもそうだった。しかし、見えない人間が勝手にものを動かすと、どういうことになるのか。章平は開いたドアの向こうにいた奈美を見やった。が、彼女の目はドアの動きには反応しない。
「たぶん、世界が二重構造になってるのね」
まるで見てきたように弓子がいうのを、なるほど、とあっさり納得する。目の前に展開している光景は、いわばホログラフィーみたいなものだ。が、置かれた環境は一致している。弓子がいうようにそこは二重構造になっていて、同じ機構に対して次元の異なる別々の物理作用が働く。つまり、ドアを開いたという状況は、二人だけの世界で生じたことだと理解すればいい。そういうことならば、と挨拶抜きでずかずかと土足で上がりこむ。
玄関を入ると三方に、居間と、寝室と、ダイニングが見渡せる。空間の広い贅沢な間取りである。居間の真ん中で、座椅子に背をあずけた奈美がテレビを観ている。大仏様のような格好で、手にはコーヒーカップを携えている。メロドラマのあいまに、ときおりそれを口に運ぶ、一口すすってはため息を漏らす。もたげたコーヒーカップが宙で止まった。ため息が喘ぎ声になったが、テレビの声らしい。ふと見やった視線の先で、男女の濃厚なベッドシーンが繰り広げられているところだった。思わずよだれを流しそうになったところで、
「いっしょになって楽しんでどうするのよ!」
弓子の顔に遮られた。そうだった。章平の楽しみを奪った張本人は、贅沢と幸福を背もたれにして、あぐらをかいている。部屋はこぎれいに整い、調度品が飾られホームバーがあり、クローゼットがあり、大画面のテレビと、ダブルベッドが揃っている。悪党達にこんな幸福が許されてしまっていいものか。火をつけてやる! が、火はない。ダイニングにいって、ガスコンロを焚く。何を考えてるのよ、と弓子の呆れた視線を浴びながら、おあずけを食らっていたタバコを近づけると火がついた。便利な二重構造だ。
一服して気持ちを落ち着けたあと、改めて居間に戻る。メロドラマに飽きた奈美がリモコンでチャネルを回していた。弓子の姿が見あたらない。おーい、どこだ? ユミ! 呼び捨てすると、ショウヘイさん、こっちよ! と、若妻もどきの声が返ってきた。新婚気分で寝室に入ってゆく。と、クローゼットのドアの陰に弓子の尻が見えた。何やってんだ? 腰をかがめている彼女の背中ごしに中を見やる。
「ほら、これ・・・」
弓子がハンガーから垂れ下がった衣服をどけて見せた。床に装飾品や調度品が無造作に置かれている。素焼きの花瓶や、象牙の人形や、サンゴの飾りものだった。一見してそんなところに置くものではないというのは、素人目にもわかる。隠したというべきであろう。
「ずいぶん粗末にしてるわね・・・」
弓子がしげしげと眺めているのは、カラフルで上品な光彩を放っている大きな壷である。あれ、といって何かを見つけたらしい弓子が、壷の口に指を差し込んで丸めた紙切れをつまみだして広げた。見慣れた伝票である。どれ、といって彼女の襟足から覗き込む。木下祐子の偽名が入った宅配伝票の控えだった。そういうことか。即座に疑問の結び目が解けた。所長が西条に穴埋めを頼んでいた被害の品らしい。静岡に届くはずだった骨董品の壷である。
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