第3話

 池のほとりに沿って、たいさんぼくの小道をゆく。弓子のスニーカーの足は速い。まるで、かけっこである。必死で彼女の尻をおっかける。が、水虫予防と散歩気分のサンダルでは追いつけない。

 たいさんぼくが山ぼうしになり、柳になり、プラタナスになった頃、忽然と町並みが現れた。と、章平は不意に立ち止まった弓子の尻に、ドスンと突き当たった。図らずもオカマを掘ってしまった格好だ。よろけた彼女が振り返る。思わず平手打ちを覚悟したが、

「ここ、どこ?」

 と困惑の表情である。呼吸を整え、さて、と彼女の肩越しに町並みを見やる。と、そこには章平の馴染みの風景が広がっていた。

「なんだ、センターのそばじゃないか」

 配送センターの倉庫の屋根が通りの外れに見える。目の前の大通りには、車も走っている。突如、夢から覚めて現実に帰ってきてしまった。というより、投げ出されたといった気分であろうか。非番の日にすき好んで仕事場に出向く気はしない。一八〇度傾いた気候とはいえ、章平の意識のカレンダーには休暇マークがついている。まったく時間も場所も脈絡のない世界である。

「あなたの?・・・」

「たぶん・・・」

「自分の景色もわからないの? もう、いいかげんな人ネ」

「どうせ僕はいい加減な人間さ。生まれも、育ちも、仕事も、家族も、仲間も、オンナも、まともなものなんてひとつもないんだ。ほっといてくれ!」

 つい、語気を荒げてしまった。が、

「誰もあなたの人生のことなんかかまってないわ。ここが、どこだか知りたいだけよ」

 弓子の無関心な声に、気をくじかれて我に返る。もう一度、配送センターの屋根の見える町並みを眺める。微かな潮の香りが鼻先に絡みつく。まちがいない。

「K市の町外れだよ」

 一瞬、弓子の顔がこわばったのがわかった。

「K市・・・松葉団地のある?」

「それなら、この三つ先の信号を入ったとこだ。知ってるのか?」

 停留所で言えば、松葉団地の入り口は配送センターからちょうど五つ先になる。通りを遠望するように、章平は答えた。

「行ったことはないけど・・・」

 弓子の声をひそめた顔に狼狽の色が漂っている。しばらく押し黙っていたが、ほぞを固めた顔で、行きたくても行けなかったの、と彼女が呟いた。他人のはずの彼女に、妙に親近感を覚えさせる響きがあった。章平が見守るそばで、弓子は補足するように言葉をつないだ。

「怖かったし、一人では思うようにならなかったし・・・」

 なにやら秘密めいた口調の裏に、打ち明けたいそぶりも見える。

「ひょっとして、僕となら行ける気がしてるんじゃ?」

 それとなく誘いをかけてやる。と、呼応した視線が重なってくる。弓子の円らな瞳の中に章平がいる。吸い込まれそうな瞳の深さに、思わず溺れそうになって目をしばたく。と、ふっと彼女が唇の奥に白い歯をのぞかせた。線香花火のように淡い笑顔だ。

「たぶん、あなたとはどこかで運命の糸が絡まったのね。結び目になってる部分を見つけて解かなければ、あなたとも離れられない気がするわ」

 あきらめと、心の錠前を外したような親しみをこめた声でいった。章平もしいて結び目を解きたいとは思わなかったが、二人の出口がそこにあるような気がしていた。あと戻りは効かなかった。既にもと来た道も景色も、ファインダーの蓋を閉じてしまったように消え失せている。

 目の前に横たわるのは、町を南北に貫く幹線道路である。車の往来も激しい。が、どれもがそっけない様子で走り去ってゆく。学童用の横断歩道の前に立って、信号機の変わるのを待つ。待てど暮らせど一向に変わる気配がない。わずかに車間の空いた隙を見て、それ、と章平は弓子の肩を叩いた。

 センターラインの部分を駆け抜けたところで、足がもつれてサンダルが空に飛んだ。明日の天気を占ったサンダルが雨模様でひっくり返ったのを、ケンケンで駆け寄って裸足の爪先で起こす。渡り切っていた弓子が、振り向いて悲鳴を上げた。顔をもたげる。と、トレーラーがうなり声を上げて襲いかかってくるところだった。わ、と横っ飛びして転げる。間一髪、ノシイカにされるところだった。拳と罵声を投げつけたが、トレーラーは轟音をけたてて走り過ぎて行った。

「もう少しで殺されるところだった・・・」

 自殺願望の男がこぼすには、まの抜けた言葉だ。が、本音でもあろう。わけもわからないまま殺されるのはいくらなんでも不甲斐ない。胸をなで下ろし、弓子を見やる。

「おどかさないでよ・・・」

 彼女の顔にも安堵の色がある。おかしなものである。ひょんなところで二人の連帯感も強まった。

「それにしても、こいつらへんだな」

「へんよね・・・」

 行き交う車の群れに目をやりながら歩道を歩き始めると、弓子が肩を並べてきた。二人の疑問符は一致している。通りを走っている車は、どれもが無表情で、誰も二人には気づいていない様子なのだ。人を轢きかけたトレーラーが、警笛ひとつ鳴らさなかった。

「見えないのよ、きっと・・・」

「そうだな・・・」

 互いに呟いて、納得しがたい光景を訳知り顔に眺める。まともな世界ではないのだから、どんな事情だろうと、原理だろうと、不思議がることなどないのだ。うなずきながら歩くうち、ほどなく配送センターのバス停が見えてきた。

 二人を追い越して行ったバスが、停留所に止まる。あれに乗ろう。弓子を促して、バスの乗降口に駆け寄る。開いたドアから、前頭三枚目くらいの腹を抱えたマタニティー姿の女が、手提げ袋をさげて降りてきた。もしその女が二人に気づかない様子なら、やり過ごして、ドアが閉じる前に乗ってしまおう。無賃乗車も透明人間の特権だ。

 脇によけて、女の顔を見すえる。が、思わず章平は、ぎょっと立ち尽くしてしまった。なんとしたことか、それは章平の夢を無残に打ち砕いたあの奈美の顔であった。

「大丈夫そうよ、ほら、乗りましょう」

 ぼう然と突っ立っている章平の腕を、弓子が引っ張っている。あわてて閉じかけたドアから彼女の体を引きはがす。キャン、と子犬のように一声吠えたが、章平の顔があさっての方角に向いていることに気づいて、

「どうしたの?」

 けげんな面もちで身をひるがえしてきた。章平の目はマタニティー姿の女の背を追っている。確かに奈美である。


 配送センターの入り口を入ってゆく奈美を追いかける。守衛所のチェックも、愛想だけの会釈で通り抜けている。フリーパスである。以前は入門手続きをして入っていたはずである。よほどの面識ある業者か、従業員やその家族とわかる人物でなければ簡単には通れない。おそらく、章平の記憶を超えた時間の経過が生じているのであろう。彼女はすっかり妊婦になっている。

 なんなの? という顔で章平のシッポになった弓子がくっついてくる。三人の守衛はめいめいが持ち場で与えられた職務をまっとうしていたが、二人の姿には気づかなかった。

 倉庫が並ぶセンターの脇に事務所がある。向かい合わせに机の並べられた部屋では、顔なじみの事務員達が電話の応対をしたり、配送の伝票の整理をしたりしている。顔を振り向けた女子事務員の笑みに思わず、やあ、と手を振る。が、彼女が会釈を交わした相手は奈美だった。部屋の奥に向かって、

「係長! 奥さんですよ」

と声をかける。所長室から作業着姿で現れたのは西条であった。一瞬、章平は頭が混乱した。フリーターの彼が係長というのはどういうことだろう。奥さんというのは奈美のことだろうか。西条が笑顔で奈美を迎えている。ひとまず、彼らの様子を窺うことにする。

「へー、これがオフィスなの?」

 弓子が目を輝かせて事務所の様子を眺め回していた。伝票だらけの乱雑な部屋だ。横文字にするほどしゃれた職場ではない。世間知らずの、娘の手を引っ張って、彼らのあとを追う。

 西条が奈美の肩をとって、所長室に招き入れた。ドアが閉まる寸前に、素早く

内に紛れ込む。

「所長さんはいないの?」

 ためらいがちにソファーに腰を下ろした奈美の反対側で、ああ、とうなずいた西条が前髪をかきあげる。半袖の替え着にすればいいものを、暑苦しそうな長袖の作業着の袖をたくしあげている。

「例の件で出かけてる。奴がいない間は俺が所長代理だ。まあ、くつろげ」

「えらくなったのね・・・」

 奈美が身重の体をソファーにあずけて、ふっと息をつく。手提げ袋の中から、折り詰めの弁当らしきものと、小ぶりのヘアドライヤーらしきものと、宅配便の受け取り伝票らしきものを取り出してテーブルの上に置く。

「いずれは。気兼ねなくこの部屋を使えるようになる。もう少しのしんぼうさ」

 西条はいいながら、ヘアドライヤーを手にとって眺めた。作業着の胸元を開いて確める。暑苦しい作業着を着ているのもそれを身につけるためだったらしい。懐にドライヤーをしまい込み、二,、三度ファスナーを上下に開閉している。

「急だったからさ、時間がなくてあまり選んでいられなかったのよ。でも、前のよりは小さくっていいでしょ?」

 奈美がいい、これでいい、とうなずいた西条が今度は伝票を手にする。

「また前の係長さんのときみたいに、誰かが責任をとることになるわけ?」

「ああ、本部の担当マネージャーか、所長ということになるだろう。仮に本部の責任になっところで、奴も他所へ左遷ってところだろうさ」

 なにやらあやしげな会話である。伝票に目を据えた西条が、

「今日は横浜からだな・・・」

 記された内容を確認している。ソファーの背に回って、章平は西条が手にしている伝票をのぞき見た。いつも章平が扱っている伝票と同じものだ。横浜の取次店から発送した、荷物の控えの部分である。荷姿の欄には装飾品の品名が記されている。

「スーパーからタクシーを呼んで、その店まで運んでもらったのよ」

 荷の送り主は木下祐子、横浜からK市の松葉団地宛、受け取り主はなんと北村奈美である。彼女の旧姓でもあるが、木下祐子の名前で自身宛に荷物を送っている。しかもスーパーの配送サービスは利用せず、わざわざここの宅配便を使っている。

 西条が伝票を二つ折りにして胸ポケットへしまいこむのを、すんでのところで走り読みして確かめる。伝票の受理日、つまり今日の日付は六月半ばになっている。部屋の壁に貼ってあるカレンダーも六月だ。夢か幻想か、いまだこの世界の実体もつかめないままだが、時は章平の記憶を隔て半年あまりを経過している。

「うん、今夜の便にはまにあう。ご苦労さん」

 西条が労うように言い、対面の奈美が流し目で見やる。

「あんたって、生まれつきワルなんだね」

「それもこれもおまえと暮らすためだ。まさか嫌になったわけじゃねえだろ?」

「今さら好きも嫌いもないわよ。章平のときにわたしを信じたあんたを、わたしも信じることにしたのよ。似たもの同士。こうなったからには、もう一生腐れ縁だわネ」

 奈美がマタニティーの腹をさすって笑うと、もっともだ、と西条も高笑いで応えた。改めて奈美の膨れた腹の具合を見やり、どうだ、と尋ねる。

「まったく順調だってさ。つわりも治まったし、たまにはこうやって出歩くのも体にはいいみたいだよ」

 そうか、と西条の目が細くなった。彼らを眺めていた章平の目は吊りあがっている。こいつら、謀ったな? 思わず、おい、と怒鳴ったが、彼らの耳には届かない。この野郎、と逆上した拳を西条の顔面に向けて振り下ろすが。次の瞬間、章平の体は宙に飛んでいた。

 床に転がった章平の元に、弓子が走り寄ってきて、バカね、と抱き起こす。異次元の影とけんかをしたようなものだ。相容れない二つの世界では、エネルギーの衝突も起こりえない。章平は自身の力でひっくり返っただけである。

「この人達、誰なの?」

 彼らを見やった弓子が、改めて章平に問いただす。

「僕を罠にはめた連中だ」

 怒気のこもった声で答えると、なにを? と弓子がまた尋ねる。母親に告げ口をするような口調で、章平は彼らとの関係やいきさつをかいつまんで話した。

 命よりも大事にしていた貯金通帳だった。給料日にだけそれを使う。その日も自慢の通帳をポケットにしのばせ、一日を幸福な気分で満たしていた。昼休みを待って、銀行へ出かけるしたくをしているときに、昼飯をおごってやる、と西条に誘われた。職場ではバカを言い合っている仲だったが、飯をおごられるほど親密ではない。気味悪さに一旦は断ったが、今日は気分がいいんだ、つきあえよ、とさりげない。断る理由ももないまま、西条をバイクに乗せていっしょに街へ出た。

 たらふく贅沢を腹に詰め込んだあとで、財布がない、と西条がわめきだした。店の主人が無銭飲食だ、といって騒ぎ出す。職場の名や免許証を見せても納得しない。しかたなく通帳を見せ、すぐに銀行に行ってくる、と西条を残して店を出た。顧みればあのとき、通帳を見せてやれ、といったのは西条であった。しかもちゃっかりそれをめくって、ほら、ほら、と得意満面に振りかざして見せたのも彼であった。

 奈美がセンターに姿を見せるようになったのは、まもなくのことである。それから先の、過去でも未来でもあることの次第は目の前の光景が語っている。

「ひどい話ね。本当なら許せない」

 弓子が信じられないという顔で、彼らをにらむ。章平のやるかたない憤懣が弓子の感情にも火をつけ、二倍の憎悪となった。



 

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