第11章 青年と彼女
11-1 もしも
雨。
土砂降りの雨が、僕の全身をあっという間にずぶ濡れにした。まるでバケツを頭の上でひっくり返したみたいに。
つい数分前までは雨音ひとつしなかったというのに、頭上では元から悪天候であったかのように薄暗い雲が轟音を立てている。
だが僕――
相牙は多くの人間を殺めた殺人鬼として知られていた。故に、彼は目撃されたとき度々返り血で赤く染まっていたという。
雨はその返り血を流すのに好都合だったろう。そんな罪人の僕には、こういった雨がお似合いだ。
だが、心の何処かで未だ救われることを望む僕がいた。
「過去の罪も流れ落ちたらいいのに」
ぽつりと独り言を放つ。
もしもこの罪が全てなかったことにできたとしたら、どんなに楽になれるだろう。
姫宮家で一点の曇りもなく、手放しで笑えるだろうか。
過去を平穏で塗りつぶすのとは異なった、晴れ晴れとした心持ちでいられるだろうか。
そんな有り得ない、とりとめのない“もしも”を頭の中で巡らせ、もう二度と戻らない平穏な日常に思いを馳せた。
化け猫の一件後、僕はレンガの町に一日滞在したのちに、再び盗賊の山を歩いていた。
特に定まった行先もなく、ひたすらに放浪する。姫宮家に居候する前と同様の生活だ。
帰る場所もなく、誰とも繋がることもない。過去から逃れるには、やはりこの生き方が一番いいのかもしれない。
そんなことを考えながら歩いていると、遠くに山に囲まれた小さな村が見えてきた。
実界の住宅地にある家のような、ごくありふれた民家が立ち並んでいる。
その数は両手で数えられる程度で、村というよりは集落と呼ぶ方が適切かもしれない。
いつの間にか土砂降りの雨は止んでおり、雲の間から差し込む日差しが濡れた背中を温めてくれる。
草木は艶やかで、水滴が日の光を受けてきらきらしている。
僕はポケットから携帯電話を取り出し、現在時刻を確認した。
「午後五時か……今夜はあの村で休もうかな」
ぬかるんだ山道をゆっくり下りて、村の方へと向かう。
ぴちゃぴちゃと水を含んだ落葉の上を歩く自身の足音。
ふとその足音に注意を払うと、ある違和感を覚えた。
「……?」
立ち止まって見ると、当たり前だが足音はなくなる。
もう一度歩き始め、足音を聞いてみる。
――やっぱりおかしい。
その足音は、どうも一人分でないように思えた。
自身の足音に重なって、もう一人分の足音が少し離れたところから聞こえる。
再び立ち止まって振り返ってみるが、人の影は見当たらない。
幻獣か何かだろうか。一瞬そう思ったが、その足音は明らかに僕と同じ人間の足音だ。
向き直り、また歩き始める。
だがやはり、足音は一つではない。心なしか、先ほどより近くに聞こえる。
ゆっくり歩いてみると、もう一つの足音も同じようにゆっくり近づいてきた。
間違いなく、明らかに僕という存在を意識した歩き方だ。
ぴちゃぴちゃと、足音は迫ってくる。
それは迫り、迫って、僕の真後ろにやってきて――。
「――っ!」
カッ、という硬いもの同士がぶつかる音と、強く刀を押される感覚。
敵意を感じて咄嗟に構えた鞘付きの刀には、ナイフがあてがわれていた。
そのナイフの持ち主は深く帽子を被っており、素顔が見えない。
ナイフの持ち主は後ろに飛びのいて僕と距離を取り、こちらの出方を伺う。
――この身のこなし、どこかで見た気が。
思い出そうとするが、そんな間もなく相手は再び僕へとナイフを振りかざす。
カッ、カッ、と振る舞われるナイフを刀で防ぐ。かなり素早い動きだ。
しかし、僕の筋力で鞘付きの刀で防ぐことができるあたり、相手は女性か子供のようだ――。
――女性か、子供?
「思い出したっ!」
僕がそう声を上げるや否や、相手は僕の刀で弾き返され、よろめいた。
「あなたは、夜の海の……」
ミヤコさんからの依頼で海に行ったときに僕に攻撃を仕掛けてきた相手だ。
「何故僕を、狙うのですか」
問いかけるが、相手は無言のままだ。
紺色のジャケットに、白のトップス。スキニージーンズはよく見ると下半身のラインがはっきりわかるようになっている。
中性的な服装だが、下半身の骨格や肉の付き方を見る限りでは――なんて言い方をするとなんだか変態的だが、向こうはどうやら女性のようだ。
「あなたは、
何を聞いても、彼女は表情を帽子に隠したまま立ち尽くす。
かと思えば、彼女は一歩、二歩と踏み出し、再び僕にナイフを突き付ける。
「……っ!」
突き付けられたナイフを、刀で弾き返す。
弾かれた彼女は反動でのけぞり、足元の木の根っこに踵を引っかけ後ろに倒れた。
僕は倒れた彼女に覆い被さるようにして左手で両手を取り押さえる。
女性を相手にあまり手荒な真似はしたくなかったが、空いている右手でラズの短剣を取り出し、首元にそれを突き付ける。
「――――!!」
彼女は暴れだし、突き出した短剣が彼女の肩を掠めた。
「君、そんなに暴れたら――」
滲み出す血に焦り、僕は彼女をなんとか落ち着けようとした。
そのとき、深く被っていた帽子が取れ、彼女の素顔があらわになった。
「な……」
言葉を失った。
彼女は顔を上げ、こちらを見る。
よく知っている、赤い大きな瞳で。
「瑠、里?」
有り得ない。そんなことは。
だが、この雪のように白い髪に釣り目がちの大きな赤い瞳は、間違いなく彼女――
「――うん」
ざわざわと風に揺れる草木に混ざって、僕の問いかけを肯定するか細い声が聞こえた。
僕の、大切だった友人。
殺されたはずの、少女。
元に戻らないはずの過去の罪の一つ。
それが、三上瑠里の死だったはずだ。
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