3-6 いつかの丘の上の約束
■■■
時間は雨が降り始める少し前に遡る。
宗治がミニチュアケルベロスの生態を調べている間、龍斗は自分の決意を姫奈に打ち明けようとしていた。
「姫奈、オレはやっぱり――」
そのとき。
空中から地上へ響き渡る低音。
姫奈は空を見上げた。
「雷?」
その瞬間、ザッハトルテは森の先にある丘の方へと勢いよく駆けていった。
「あ、おい! どこ行くんだよ!」
龍斗はザッハトルテを追いかけた。
「え、ちょっと待って!」
姫奈も一人と一匹の後を追う。
「どこまで行く気だよ……っ!」
全速力で駆けるザッハトルテを龍斗は追い続ける。
森の中は木の根や石がごろついている。
龍斗はバランスを崩して何度も転びそうになったが、走り続けた。
ぽつぽつと雨が降り始め地面がぬかるみ始めるが、ザッハトルテを見失うことはなかった。
三つの頭が重いせいか、ザッハトルテの走る速度はそこまで速くない。
龍斗とザッハトルテの距離は、徐々に縮まっていく。
しばらく追い続けていると、頭上を覆っていた木々は少しずつ減っていき、龍斗は広い丘に出た。
雨は次第に土砂降りへと変貌し、少年に容赦なく降り注ぐ。
ザッハトルテは丘を真っ直ぐに突っ切り、崖の方へと駆けていく。
小さな体は、息を切らして丘の端の崖の前で立ち止まった。
「はぁ……どうしたって言うんだよ」
龍斗は呟くと、膝に手をついて肩を上下させる。
「姫奈、大丈夫か――」
龍斗が自分の後ろを走っていたであろう姫奈に声をかけ振り返ると、そこには誰もいない。
ただ走ってきた丘が、広がっていただけだった。
「姫奈……?」
辺りを見回すが、見渡す限り丘で返事も無く、ザァザァと雨音が響くだけだった。
ふとザッハトルテの方に向き直った。はぁはぁと舌を出してこちらを見上げるザッハトルテの背後に、文字が刻まれた石碑のようなものが見える。
「何かの記念碑か?」
龍斗は崖のふちに建つ石に近寄っていく。
雨で視界が遮られて見にくいが、石の前に黄色や赤で彩られたものが見えた。
もう数歩歩み寄ったとき、龍斗はそれが花束であることに気付く。
石に刻まれた文字も、少しずつ鮮明になって行く。
龍斗は少しずつ近づきながら、鮮明になった文字を読み上げる。
「MAY 8.2037 - AUGUST 21.2057」
少年は立ち止まった。
二つの日付が刻まれた、建てられてそう時間は経っていない墓石。
だが、少年はそこに誰が眠っているのかを、始めに刻まれている日付だけですぐに理解した。
時間にして約三年。
ずっと長い時間をかけて探していた人を、彼はようやく見つけた。
「こんなところにいたのか」
雨は少しずつ止み始め、崖の向こうの空が明るくなっていく。
「8月21日って。去年の今日かよ」
ずぶ濡れの体からふいに力が抜け、少年は墓の前に跪いた。
たっぷり水を含んだ草から、ぴしゃりと泥水がとびはねる。
少年は微笑んで、そこに眠る彼に再会の挨拶をした。
「やっと逢えたね、兄さん」
ノイズのような雨音は静かに消え、代わりに崖の向こうの水平線から打ち寄せてくる波の音だけが辺りに響き渡る。
前髪を伝って頬に流れてくる冷たい雫に交じって、温かい雫が彼の頬を伝う。
雨が止んでわずかに感じられるようになったその温かい雫で、少年はやっと自分が泣いていることに気付く。
そして同時に、彼は自分の果たしていなかった目的に気付いた。
「そうだ。オレ、まだ兄さんを見つけていなかったんだ」
――だから、前に進めなかったんだ。
――なんて、簡単なこと。単純なことだろう。
灰色だった空は赤く染まり、水平線から夕日が覗く。
その色は丘の入り口にも届いて、木々を染めていく。
その染まる木々の向こうで、跪く少年の背を――幼なじみの少女はそっと見守っていた。
■■■
「本当にいいんですか? 勝手に見たりなんかして」
「あんた、リリアンちゃんに住まわせてもらってるんだろう? 家主のことを知る権利くらいあるさね」
ニカリと笑ってミヤコは分厚いアルバムを机の上で広げた。
アルバムには、真っ白なワンピース姿で麦藁帽子をかぶった幼い少女の写真が載っていた。
広い丘におかっぱの少女が一人、帽子のつばを押さえてこちらに笑いかけている。ミヤコは、その写真を指差して語り始める。
「これはねぇ、川の向こうの丘でみんなでピクニックに行ったときの写真だよ。可愛いだろう?」
「へぇ、綺麗な丘ですね」
宗治はミヤコの問いに対して少しずれた回答を口にした。
ミヤコはそれを特に気にも留めず、丘に関するあるエピソードを語り始める。
「あの丘は絶景で有名さね。去年の春、ここに訪れた旅人も大層気に入っていたみたいでねぇ。よくあの丘の崖から海を眺めていたさ……あの旅人も、もうこの町にはいないけどねぇ」
「そうなんですか……また戻って来られるといいですね」
宗治がそう言うと、ミヤコは感慨深げに目を細めた。そして、聞くものによっては重要な情報を口にする。
「戻ってくるも何も……旅人は、去年の今日からずっとあの丘の崖で眠っているのさ。自分の意思でね」
自分の意思で。
その言葉が何を表しているのか、宗治にはすぐに理解した。そして、彼が最近知った、自分の意思で眠ることを選んだ者の名字を口にする。
「その旅人はもしや、黒井という名字ですか?」
「あぁ、黒井アクトだったかねぇ。こう書いて『アクト』って呼ぶのさ」
ミヤコは宗治のメモ帳の隅に『明斗』と書いて説明してみせた。
「姫奈ちゃんのボーイフレンド……龍斗くんは彼の弟さんだろう?」
当たり前のように淡々と語るミヤコに、宗治は少し驚いた様子で言う。
「ミヤコさん、何でも知ってるんですね」
「伊達に長生きしてないさ。あたしゃまだ山に捨てられる気ゃないよ」
ミヤコはにんまりと嬉しそうな笑みを浮かべると、再び彼らのことについて語り始める。
「明斗さんは家族思いでねぇ、特に弟のことを可愛がっていたみたいだよ」
「そうなんですね……」
「あの丘を弟と一緒に歩きたいなんてよくぼやいてたもんさ。故郷の丘に似てるんだとさ」
ミヤコは懐かしそうに微笑むと、ゆっくりと呟く。
「今日こそ、一緒に歩けたかねぇ」
「……どうでしょうね」
宗治は窓の外に映る空を見上げた。
まばらに浮かぶ雲は夕日に照らされ、赤く染まっている。
一人の少年の顔を思い浮かべる。
弟は――龍斗は今頃その丘にいるのだろうか。龍斗は眠る兄を見つけられただろうか。そんなことを考えていた。
「皆さんお疲れ様です」
宗治が龍斗のことを考えていると、洗濯カゴを持った家主が居間に顔を覗かせていた。
「おう、リリアンちゃん。いいところに来たねぇ」
ミヤコはリリアンを手招きすると、机の上のアルバムを指差した。
「八歳の時にピクニックに行ったのは覚えてるかい。そのときの写真さね」
リリアンはミヤコが指し示す写真を見て、柔らかな笑みを浮かべた。
「あの丘の……懐かしいですね」
「もう10年以上も前になるんだねぇ。ところで……」
ミヤコはニカリと笑ってリリアンに問いかけた。
「この人との結婚はいつの予定だい?」
ミヤコに突然指を差された宗治は、否定の言葉よりも先に慌てて首を横に振った。
代わりにリリアンがやんわりと否定する。
「おばあちゃん、真田さんは色々あって一緒に住んでいるだけですよ」
リリアンは笑顔で言うと、洗濯カゴを持って居間を出て行った。
「おやおや、リリアンちゃんにまで言われちゃあ、何でもないのは本当みたいだねぇ」
ミヤコはゆっくりと言葉を紡ぐと、肩を竦めて見せる。
「ミヤコさん……僕の言葉、信じてなかったんですか……」
「恋人のことを隠す男子なんてザラにおるさね。うちの息子がそうだったもんでねぇ」
「……隠す相手もいないですよ、僕」
カッカと楽しそうに笑うミヤコをよそに、宗治は携帯電話を取り出した。
連絡先一覧からつい最近登録したばかりの名前をタップする。
携帯電話を耳に当てて相手が出るのを待つ宗治の向かいで、ミヤコが誰に向けるでなく、独り言のように呟く。
「それにしても姫宮の娘さん、前より柔らかく笑うようになったねぇ。あなたたちのおかげかねぇ」
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