3-5 幻界人と実界人、過去と今

■■■ 


「真田さん、この本はどうでしょう」


 ザッハトルテ捜索の手がかりや情報を収集していた宗治は、リリアンにミニチュアケルベロスの生態に関する本がないか調べてもらっていた。


「『幻界ペット大全集』……良さげですね」


 宗治はリリアンに差し出された分厚い本を手に取り、目次を確認した。

 ミニチュアケルベロスと記された項目のページを開くと、頭が三つの犬のイラストが描かれていた。

 本にびっしりと記されたミニチュアケルベロスの生態情報を隅々まで読み、宗治は箇条書きでメモを取っていく。


「なるほど、ミニチュアケルベロスは音に敏感なんですね。ああ、逃げるものを追う習性なんていうのもあるのか」


 メモを取りながら声に出して確認していると、向かいに座るリリアンが宗治のメモに記載されていない新たな情報を口にした。


「音に敏感だったり追跡する習性は、元の品種ケルベロスに由来するものなのだそうですよ。元々ケルベロスは大きな機関や大富豪が金庫や門番として飼育していた幻獣なんです。ミニチュアケルベロスは一般家庭用の番犬としてケルベロスを小型に品種改良した犬なんですよ」


 宗治はリリアンの詳しさに驚き、目を丸くする。


「リリアンさん、詳しいんですね」

「幻界で二十年生きてきましたから」


 リリアンは宗治にふわりと穏やかに笑いかけた。


「ということは、リリアンさんは幻界の方だったんですね」

「はい。両親も幻界で生まれ育った生粋の幻界人ですよ」


 宗治も彼女につられるように、柔らかな笑みを浮かべた。


「へぇ、通りでお詳しいはずだ」

「ふふ、幻界のことはお任せくださいね」


 リリアンはそう言うと、本と一緒に持ってきたおぼんの上の二つのグラスにアイスティーを注ぎ始めた。


「それは頼もしいな。ぜひともよろしくお願いします」


 宗治はアイスティーの入ったグラスをリリアンから受け取ると、一口飲んで言葉を紡いだ。

 宗治の言葉に、リリアンはふふっと嬉しそうに笑う。


「真田さんは実界の方なのに、幻界人を嫌がらない方なんですね」


 宗治の向かいで、リリアンは問いかけた。


「そうですね。確かに僕は、そういった差別を特にしていないかもしれないです」

「昔は本当に酷くて、いろんな事件がありましたね。最近は落ち着いてきましたけども、まだまだ差別は残ったままで……」


 そう話すリリアンから、少しずつ笑みは消えていく。


「はい。実界人の中には、未だに幻界をゲームの世界と勘違いしている人も居るみたいですね。それに伴って、幻界人もAIなどとして捉えられてしまっているようで」


 宗治からも笑みは消え、穏やかだった昼下がりに不穏な空気が流れ始めた。


「幻界の人だって、実界の人と同じ人間のはずなのに……そんな見方されたら、怒って当然ですよね」


 申し訳なさそうに、宗治は俯く。

 その言動には、一実界人としての謝罪の意が窺えた。


「二界統合のこともありましたし、実界の方は自分の身を守るために素性を隠してこちらに来られる方が多いのですが……そんな中、真田さんは堂々とされていてすごいです」


 リリアンは、再び優しい笑みを浮かべる。その言葉と表情に嘘偽りは感じられない。素性を明かした上で幻界人と関わろうとする宗治の姿勢に、心から尊敬しているようだった。

 しかし、リリアンの言葉を受けて彼が放った言葉は、決して前向きなものではなかった。


「……僕は、そんな大きな悩み事を持てるような器用な人間じゃないんですよ」


 平和を強く望む者とは、ひどくかけ離れた答え。


「……? それはどういう意味ですか?」


 宗治はグラスを傾けアイスティーを喉に流し込むと、首をかしげて問うリリアンに言葉を付け加えた。


「これ以上悩み事が増えると、きっと僕は壊れてしまいます。弱いんですよ」


 宗治はやんわりと、弱々しく笑った。

 そんな暗い言葉を紡ぐ宗治に、リリアンは静かに微笑む。

 彼女は宗治の前に置かれている空のグラスを見て声をかけた。


「お茶のおかわり、いかがですか」

「ああ、お願いします」


 リリアンは宗治から空のグラスを受け取ると、静かにアイスティーを注いだ。

 宗治はリリアンからそれを受け取ると、「ありがとうございます」と述べ再び本に目をやり、メモを取り始めた。


 そのとき、外から大きな物を転がすような重みのある音が響いてきた。

 宗治は何事かと窓の外を見る。昼過ぎまで快晴だった空は薄暗く、灰色の雲が空を覆っていた。

 分厚い雲を縦に引き裂くかのような稲妻が走り、町中に再び大きな物を転がすような轟音が鳴り響く。


「夕立、かな」

「お二人は大丈夫でしょうか……」


 宗治が振り返ると、リリアンは心配そうに灰色の空を見上げていた。

 宗治はリリアンの表情から彼女の心情を察し、優しく声をかける。


「二人なら大丈夫ですよ。姫奈ちゃんはしっかりしてますし。それに――」


 そして、ぽつぽつと雫が降り注ぎ始める空を見上げてもう一言付け加える。


「龍斗くんはもう、人一人を守れるくらいの力を持っているはずですから」


 真っ直ぐな眼差しで、宗治は空を仰ぐ。

 リリアンも落ち着いた様子で語る宗治を見て微笑みを取り戻すが――


「あ、いけない!」

「?」


 声をあげるリリアンに、宗治は振り返る。


「洗濯物を取り込まなきゃ」


 そう言うや否や、リリアンはスカートの裾を持ち上げ駆け足で居間を出て行くと、階段を駆け上っていった。

 宗治も手伝いに行こうと階段を一歩踏み出したとき、玄関の扉をノックする音が聞こえた。


 振り返り、玄関の扉を開けると。

 今回の依頼主であるミヤコが、雨合羽を着てにんまりと笑って立っていた。


「いやぁ、酷い雨だねぇ」

「そうですね。大丈夫ですか?」

「あたしゃ姫宮の娘さんから貰ってる薬のおかげで、体だけは丈夫さね」


 ミヤコはしわだらけの顔を歪ませて、二カッと歯を見せて笑った。

 杖を持つ手とは逆の手に、分厚い本が抱え込まれている。


「アルバム、ですか?」

「そうそう。姫宮の娘さんのアルバムさね。姫宮の夫婦から借りてきたもんさ」

「そ、そんな簡単に貸してもらっていいものなんですか……」


 宗治が問うと、ミヤコはカッカと笑い始め、にやりと笑って宗治に言う。


「娘さんの将来の旦那に見せる言うたらねぇ、喜んで貸してくれたさ」

「いや、ミヤコさん。僕たちはそういう関係ではないのですが……」


 宗治は否定するが、ミヤコは目を細めてゆっくりと話した。


「先のことはどうなるか誰にもわからんさぁ。あたしにもあんたにも、リリアンちゃんにもねぇ。昔のことも今のことも、未来のことも、全てを知ることは出来ないんだよ」


 ミヤコの意味深な言葉はゆっくりと紡がれ、単語一つ一つに重みがあった。

 宗治はミヤコの語る言葉に静かに耳を傾ける。


「自分を過信してどっかり座ってると、そのうち誰かが後ろから首を掻っ攫ってくかもわからんねぇ」


 突然物騒なことを言い出すミヤコに、宗治の表情は強張る。


「あんたの過去を知るものがいる限り、あんた自身は自分の過去を切り捨てて未来を知ることなんてできないのさ」


 その言葉を聞いた瞬間。

 宗治はどくりと重い心臓の一拍に、高所から落下するようなふらつく感覚に見舞われた。


「先のことはあんた自身が決めることだけどねぇ……このままじゃあ長くは続かないんじゃないかえ?」


 この一言で、宗治は確信した。


 ――彼女は知っている。

 ――真田宗治の、過去を。


「……」


 発する言葉も見つからず、宗治は黙ったまま目を伏せる。


 真田宗治は、誰よりも平穏な日常を望んでいた。

 誰も深く傷つくことのない、平坦な日常を。

 だがそれは、宗治が暴力沙汰を嫌う平和主義者であるからという単純な理由ではない。

 宗治の性格上そういった思いが全く無いわけでもないが、根本はもっと深く――彼自身の過去の記憶から生じる願いだった。


 真田宗治は、誰よりも平穏な日常を望んでいる。そう、誰よりも。

 それは、自分の陰を隠すために。自分の過去から逃げるために。


 彼は――自分を守るために、平穏な日常を望んだ。


 それが今、ミヤコの一言で崩れ去りそうになった。

 それでも宗治は、平穏な日常を守るために微笑み続けようとした。


「……何のことでしょう。僕にはさっぱりですが」


 すると、ミヤコはゆっくりと目を細め、宗治の顔をじっと見つめる。


「まぁ、これ以上細かいこたぁあたしゃ口出しせんさ。ささ、気分転換に将来の嫁さんの昔話でもしようかねぇ」


 宗治はゆったりとした愛想笑いを浮かべると、彼女を居間に通した。

 そして、心中で己に言い聞かせる。


 ――大丈夫、だ。

 ――まだ、大丈夫だ。

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