1-5 悪夢を溶かす魔法

 いつの間にか、少女は森の中で迷っていた。

 身体は異常に重く、まるで沼のようにぬかるんだ道は、急ぎ足にしつこく絡みついてきた。

 身体の重みで声すら奪われてしまった少女は、少年の名前を叫ぶこともできなかった。


 ぬかるんでいた道は進むにつれて水気を増していく。

 次第に身体の重みもなくなり、乾いた地面が少女の足元を受け止める。

 少女は遅れを取り戻すように走り出した。


 そしてその名前を叫ぶ。


 少女はどれくらい走り続けただろうか。

 ようやく現れたその名前の主は、うつ伏せになって倒れていた。


 周囲には濃い鉄の臭いが充満していて、彼はその臭いの元に浸されていた。

 彼女はそれが何であるかを瞬時に理解する。


「龍斗――」



 姫奈がはっと目を覚ますと、そんな光景はそこに無かった。

 狭い見慣れた部屋のベッドの上で、見慣れた天井をぼんやりと見つめる。

 いつの間にか眠ってしまっていたようで、壁に掛かった時計を見ると、十一時半過ぎを示していた。

 両手に握りしめていたペンダントを上着のポケットにしまうと、数時間前に朝食を食べていた居間へと降りて行った。



 居間を覗くと、静かに紅茶を飲みながら本を読むリリアンの姿があった。

 畳の部屋で上品に正座をして紅茶を飲む姿は、アンバランスのようでうまく和洋折衷がなされており、彼女をより一層美しくみせた。

 彼女自身がどちらの美しさをも兼ね備えているからこそそう見えるのであろう。


「リリアンさん、龍斗は?」

「龍斗くんは三十分くらい前にお昼ご飯を食べて、お出かけになりましたよ」


 リリアンは紅茶を一口飲み、姫奈の表情を見た。少女の顔には不安と焦りの色が見えた。

 リリアンはそんな姫奈の精神状態を察し、読んでいた本を閉じて手招きした。


「姫奈ちゃん、一緒にお茶を飲みませんか?」


 リリアンはいつもの優しい笑顔で言った。

 こくり、としおらしく少女は頷いて、リリアンの向かいに座った。

 リリアンは姫奈に甘酸っぱい香りの紅茶を差し出した。


「柑橘系の香りは、心を元気いっぱいにしてくれる魔法の香りです。姫奈ちゃんにピッタリの香りです」


 姫奈は差し出された紅茶の入ったティーカップにそっと口を付けた。

 つんと甘酸っぱい香りが口の中に広がり、その柑橘系独特の香りと風味が悪夢から目覚めたばかりの姫奈を徐々に覚醒させていく。

 少女が見た最悪な情景が夢であることを優しく言い聞かせ、元気付けてくれているようだった。

 リリアンは包み込むような微笑みを浮かべ、少女に言葉を紡ぐ。


「龍斗くんが帰ってきたら、美味しい紅茶を淹れてあげてくださいね」


 姫奈はうん、と柔らかく笑って頷いた。


「そういえば、あの人はまだ寝てるの?」

「どうでしょうか……少しご様子を見てきていただけますか?」


 姫奈は居間の向かいの部屋の襖をそっと開けた。

 男は既に起きていた。彼は布団を丁寧に畳み、何やら身支度をしている。


「おはよう、起きてたんだ」


 姫奈が声を掛けると、男は軽く会釈をした。


「おかげさまでゆっくり休めました。少し散歩に行ってきます」


 男は早足で玄関に向かって行った。


「どこに行かれるのですか?」


 リリアンが尋ねると、男はもう一度同じことを、一言付け加えて言った。


「少し散歩に行ってきます。山の麓まで」

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