第7話

 聖なる夜に全ての幸せが失われてしまった後、新年の幕開けはわたしにとって、一生を共にする灰色の世界の幕開けの様でした。

 わたしは年末を高熱に苦しみながら過ごし、元旦の朝にようやく熱は治まり、清々しい灰色の初日の出がわたしを迎えてくれました。わたしは十二月の様な内面世界に籠る生活を止め、何もなかったかの様に日々を過ごすのでした。この一年の機微や人間関係は白紙に戻り、わたしは何でもない何かになり、暖かい灰色の世界を無意味に生きていくことが人生でした。初詣や新年のテレビをひとしきり楽しみ、クリスマス後に降らなくなったあの雪の所為で補講に通っていました。冬休み突入前の講義を丸ごと補講に変えてあの雪はぱったりと消えていたのです。どれだけ人様に迷惑かければ気が済むんだ、と文句の一つも言ってやりたいのですが大自然相手に怒っても仕方がありません。わたしは友人と共に、程々に真面目で程々に気を抜いた普通を過ごしていました。

 一月二月と、何事もない日々が送られました。楽しいことはあるが悲しいこともある。退屈が過ぎる時もあれば小さな事件も起こる。平穏というのがぴったり過ぎる日々でした。幸せが蔓延る光景は見られなくなっていましたが、わたしの自己完結の内面世界も灰色に塗り変わったのでまともな精神状態で日常を過ぎていきます。I君などからはようやく落ち着いた様な顔をしていると言われる様になりました。平穏は希望を諦めたことを隠すので彼等には分からないのです。しかしそれは仕方のないこと、誰も悪くありません。そんな日々では、あなたを思い出すことも無くなっていきました。その事を罪だとも思わなくなっていました。

 三月に入り、少しずつ寒さが和らいでいました。重ね着をして耐えていた中から、一枚上着を脱いでも支障ないくらいの気温になり、外出するのが少し楽になってきていました。

 わたしは学内で知り合った女性と仲良くしていました。性格には一癖二癖と見られ難ありの人でしたが、かなりの美人であったのです。顔を見て話しかけようと思ったのですから当然と言えば当然です。お付き合いはしていませんでしたが、お互いにどうでもいい用事を作っては合う様になっていました。わたしは彼女が何を話し何を考えているかなんて微塵も興味はなく、話している時はいつも顔と身体を見ていました。そしてこの女はどんな表情で喘ぐのだろうと毎回思いながらその顔を見る機会を窺っているのでした。灰色の世界では思考や愛などは意味をなしません。快楽が全てです。年を越してから増えていた自慰の回数を気にもとめずに彼女と親しくします。

 その女性との関係は進展せず、悪い事件が起きない代わりに良い事件も起きない日々が続きました。三月も中旬に入り、灰色の世界にも慣れていきます。期待もしないし希望も望まない。その代わりに享受した平穏の暖かさのなかで目先の快楽を求めて生きていく。案外それは悪いものではなく、楽に生きています。嫌な事はすぐに忘れられます。世界が用意してくれている灰色の道を歩いていけば良いのだから楽な筈です。満足もしなければ文句もなく完結した世界でした。

 その日のわたしは、朝からバイトに入り昼間に下宿先に帰りました。平日でしたが大学は春休みに入っていたのでいつでも暇でした。何も考えずにただ空を眺めながら自転車を漕ぎ、駐輪場に自転車を停めました。適当な鼻歌を演奏しながらポストを漁り、何通かの郵便物を手にとって眺めながら歩きました。宅配ピザの広告や電気会社からの書類を流し読みし、部屋に戻ったらすぐに捨てようと思って残りの郵便物を確認しました。

 最後に確認した郵便物の異質さにわたしは驚き鼻歌の演奏を止めます。わたしの右手に残された最後の郵便物は一通の手紙でした。手紙なんてインターネットが蔓延した今の時代にはとても珍しい代物です。わたしが最後に見た手紙はいつのものだったかと記憶を探っても思い当たりません。もしかすると人生で初めて貰った手紙かもしれません。今時この様な手段を選ぶ人間が自分の知り合いにいるとは、と思いながら差出人の名前を確認して愕然としました。廊下のど真ん中で思わず足も止めてしまいました。他の郵便物も落としてしまいました。あなたからの手紙だったのです。


 稲妻の様な速度で部屋に戻ってわたしは鍵を閉めます。机の上の物を全て除け、必要のないものは全てベッドの上に投げ込みます。上着も脱ぎ捨て鋏を手に取り、座布団の上に正座します。机の上には鋏とあなたからの手紙のみです。手紙は灰色なのに何処か鮮やかです。

 この三ヶ月強で味わったことのない緊張が襲ってきました。体がこうまで上手く支配出来ないのはいつ以来でしょうか。わたしは大きく深呼吸をして鋏を手に取ります。手が震えて力が入りません。それでも細心の注意を払いながら手紙の上部を切っていきます。中の便箋を切ってしまわぬよう、ゆっくりと慎重に切っていきます。まるであなたの頬に触れたあの時の様に。鋏で切り終わって、手紙を開封した瞬間心地良い匂いがしました。それはあなたと一緒にいた時に感じていた、春の匂い。外から香ってきたのかと窓を見ても隙間はありません。紛れもなく目の前の手紙から漂うものでした。わたしはそこに生命の予感を感じました。あなたが生きてそこにいると感じました。灰色の世界に現れたあなたは、唯一極彩色に色付いていました。

 赤ん坊を手に取る様に便箋を取り出し、あなたに触れる様に開いていきます。便箋に書かれていた全文は、以後の通りです。


〈拝啓。お元気ですか。近頃は寒さも大分和らいできて、重ね着をして過ごしていた中から一枚上着を脱いでも過ごせる様になりました。日本の何処かでは既に桜が咲き始めている様ですし、日に日に春を感じますね。私の一番好きで大切な季節がやってきます。思えば、今から一年前の今頃、私が貴方と出逢った日ももうすぐやってきます。

 あの頃は例年と違い、桜の開花が非常に早い様でした。今頃でも花は咲いていましたもの。私はあの春が人生の中で一番好きで、毎日外に出ては桜を眺めていました。

 貴方と出逢った日も、そんな日々の中の一つでした。こんな言い方をすると埋没してしまいそうでいけませんね。本当に特別な日です。わたしはあの日、友人と遠方に花見に行く約束をしていました。その約束の待ち合わせ場所として友人が指定してきたのが貴方の座っていたベンチでした。あの場所は待ち合わせ場所として有名な様なので、貴方も誰かを待っていたのでしょうかね。私が大学に着いた時には既に貴方がそのベンチに座っていて、しかも中心で大きく足を広げながら黙々と読書をしていたものですから、少し弱気な私は声を掛けられずにベンチの端に座るのも躊躇っていて、少し離れた場所で立って友人を待つことにしました。今思えば最初に貴方の姿を目にした時からやけに気になっていた様に思えます。どの様に気になっていたかを尋ねられると言葉に困るのですが、ずっと見ていたいと思った気がします。

 暫く立ったまま友人を待っていた私ですが、友人から待ち合わせの時間に遅れてしまうという連絡を受け取り、このまま立っているのでは少し足に良くないと思いました。その為にベンチに座りたいなと思ったのですが、ベンチには貴方が鎮座しています。貴方を責めている訳ではないのです。弱気な私が必要ない遠慮をして勝手に座ろうとしなかったのですが、出来ればベンチに座りたいと思ったので貴方が立ち上がる事を祈りながら様子を窺っていました。あの時の貴方は本当に黙々といった様子で本を読んでいました。私にも少しくらいは本を読む事はあったのですが、いつも少し集中を欠いてしまう癖があり、一冊読むのに何日もかかっていました。それに比べて貴方の読書に対する姿勢と言ったら、当に他の何物も目に入っていないと言わんばかりで、尊敬はしませんでしたが純粋にすごいと思いました。

 そうやって感心しながら眺めていてもベンチは空きそうにありませんでした。これはいよいよ声を掛けて座らせてもらうしかなさそうだ、と決断を迷っていた時でした。少し強めの風が吹いて、貴方が右手に持っていた栞を私の方に吹き飛ばしてしまいました。あの風は妙に暖かかったなと今でも思います。きっと私たちの運命の風なのでしょう。今の台詞は書いた後に恥ずかしく思えてきたので、この手紙を読み終わる頃には忘れてください。

 栞を拾おうとして貴方がベンチを立ったのが見えました。この機にベンチの端っこに黙って座ってしまえば貴方も端っこに座るはずだ、と思ってベンチの方に走ろうかとも思いましたが、一直線に私の方に向かってくる栞をどうしようかとあたふたしている内に、栞は私の足元に落ち、貴方はどんどん近づいてきます。そんな状況で栞も貴方も無視してベンチに走れる様な人間ではないので、少し仕方なく思いながら身を屈めました。

 栞を手に取って顔を上げると、貴方も栞を取ろうとしていた様で思いの外近くまで来ていて少しびっくりしました。でも私は感情をあまり顔に出さない人間なので、落ち着き払った振りをして「どうぞ」と栞を貴方の方に差し出しました。

 そして初めて貴方の顔を近くで見たのですが、その瞳の不思議さに私はすっかり心を奪われてしまいました。灰色がかって見える様な気もするのですが、その中にちらほらと輝くものが見えて、それはそれは綺麗なものに見えたのです。地中に埋まっている宝石はこんなかしら、とも思いました。貴方がなかなか栞を受け取ろうとしないのでゆっくりその目を眺めることが出来たのですが、これからもずっと見ていたいという様な気持ちになりました。

 そんな貴方は本当になかなか栞を受け取ろうとしませんでした。私は何かおかしな事をしたのだろうかと思い、貴方がじっとしているのも謎だったので首を傾げてみました。すると貴方はようやく栞を手に取ってくれて、そして何かを言おうとしていた気がするのですが何も言わずに走り去ってしまいました。

 貴方はまたベンチに戻るものだと思ってばかりいたものですから、あっけにとられてその場で立ちすくんでしまいました。全力で走りながら大学の門から出ていく貴方の後ろ姿を呆然と眺めながら、我に返るまで思考停止していました。だってあまりにもおかしな状況に思えたのですから仕方ありません。誰でもああなります。

 我に返った私の脳内には「運命」という言葉がずっと浮かんでいました。語彙が豊富な貴方のことですから、陳腐な表現だと笑われるかもしれませんがそれ以外に何も浮かばなかったのです。「運命の人」とか何とか言うのは自分でも少しありきたりな表現だとは思いますが、みんなそう言うしかないから同じ言葉を使ってしまうのでしょうね。そう思いたいです。

 私は貴方がいなくなったベンチの中心に腰掛け、少し残っていた貴方の体温を感じながら桜の樹を眺めました。大学で一番大きな樹です。綺麗な花が舞っており、この春は忘れられないものになるかもしれない、という予感がしました。遅れてやってきた友人と見に行った桜も、貴方と出逢えたことで美しく見えるのだと思いながら見ていました。無機物がまるで生き物の様に生き生きとして見えたのです。それでも貴方と一緒に見た桜の美しさに比べれば大した事はありません。


 その日から私の世界が色付いたことは前にも話しましたね。絶望していたというと大げさでしたが、確かな希望を抱けないまま過ごしていた私の世界はいつしか灰色に見える様になっていました。楽しいことも悲しいことも同じ様にあり、退屈でこの先もこのままかという諦めで生きていました。そんな日々が貴方のおかげで幸せなものに変わったのです。根拠はありませんでしたが、明日からずっと貴方と会えるのかもしれないと思えて嬉しかったです。心に嵐が訪れた気分でした。

 貴方と出逢った次の日に私たちは街へ行きましたね。まるで待ち合わせをしたかの様に大学で会うことが出来たときはすごく幸せでした。初めて会話した時の台詞は、今思うとものすごく恥ずかしいのでどうか忘れてください。そもそも覚えていないでしょうか。それならありがたいですが。

 当時の私は大学の講義だけでなく、小学校も中学校も高校も授業をサボった事はありませんでした。真面目な人間だとよく言われていました。そんな私でもあの日授業をサボって街に行くことがとても自然な事の様に思えて、貴方と手を取り合って大学を出ていく時にはすごくどきどきしました。

 私は神に誓って気が弱い人間なのですが、普段は感情を表に出さない様に生きてきたのでその様には思われていないのでした。また、貴方と一緒にいる時は母親の様な気分になれて、なんだか堂々として包容力のある女性になれた気がしていました。また、対照的に自由奔放な女の子でもあれました。何も気にせずに振舞うことも出来たのです。それは貴方の前だから偽りの自分を演じているという事ではなくて、逆に貴方の前だからこそ本来あるべき自分になれたという事なのです。やりたいことや思っていることを包み隠さず表に出せる人間になれていたのでした。

 雨が降った日のことは覚えていますか?桜は見れませんでしたが、貴方の部屋に行けたのは思わぬ幸運でした。貴方の部屋には想像してた通りに本がたくさんありました。あまりに想像通りだったので私は一切緊張しませんでした。まるで自分の部屋の様にしっくりくる居心地で、このままずっとここで暮らしていけると思わされたのを覚えています。テレビを見たりただお喋りをして過ごしました。でもあんまり居心地の良いものですから、私はうとうとしてしまいました。あの時は本当に申し訳なく思っています。出逢って数日の男性の部屋で眠りそうになるなんて私自身も思っていなかったのです。でも、それくらい気を許してしまう相手であったという事ですね。

 貴方が私の頬に手を触れた時に目を覚ましました。父が娘を可愛がる様な優しさだったので私は動きませんでした。キスでもされるかもしれないとも考えたのですが、貴方は急に手を離して私に毛布を掛けようとしてくれました。そうして貴方の体が目の前まで迫った時、どうしても愛おしく感じるのが我慢できなくなって貴方に抱きつきました。誰にでもあんな風に抱きつく女だなんて思わないでくださいね。あの時はどうしても衝動を抑えられなかったのです。

 それからちょっとした葛藤があったのですが、愛しさを貴方にぶつけるには頬がいいだろうと思ってキスをしました。貴方がいつか訪ねようとしてた口づけの本当の答えはこれです。面と向かって答えるには恥ずかし過ぎたので書面でご容赦ください。夢の様なひと時でした。


 私は貴方の影響で本を読む量が増えました。紹介されるがままの本を読んで、書店に足を運ぶことも多くなったので自分で気になる本も買い始めました。『桜の樹の下には』を貴方はすごく気に入っていたのを覚えています。あの話は私も素晴らしいと思います。そして貴方も花を育て始めましたね。部屋には花が何本も飾られる様になって、貴方の部屋に私が住んでいるかの様になっていました。お互いの趣味を知って共有するのは楽しかったです。今でも花は育てていますか?私は本をよく読んでいますよ。

 そして何よりも思い出されるのは二人で出かけたことです。あの場所が桜の名所だと貴方が知っているとは思っていませんでしたが、おそらく私の為に調べてくれたのでしょう。ありがとうございます。

 今だから告白しますが、あの日の前日の私はあまりにもどきどきし過ぎて上手く眠れませんでした。まるで遠足前の小学生の様な状態だったのが恥ずかしかったので黙っていましたが、わくわくが止まらずに眠れませんでした。笑ってくれれば幸いです。

 全ての観光スポットを巡ると誰かを幸せにする願い事が叶うというのは素敵でしたね。願いが叶うのはどこにでもある様な話ですが、誰かを幸せにするという願い事に限定しているのが素晴らしいと思います。家族や友人の為に祈るという選択肢もあったはずなのですが、あの時は貴方の為に願うことしか頭になかったのです。不思議かもしれませんね。

 私たちがお互いにお互いの幸せを祈った場所で、あそこにあった大きな樹は人生上の重要な場所として私には残っています。いつかまた、あの場所に貴方と行って桜を見る日がくればいいなと思っています。


 私たちがお互いに願いあった幸せ。その幸せとはどういうものだと思っていますか?私はあの桜に願った時は、貴方と共にいることが幸せだと思っていました。それも確かに一つの答えだと思います。正しい幸せの定義でしょう。でも、最近になって私は幸せとは本当は違う形をしてるのではないか、と疑う様になったのです。

 例えば私たちが今も一緒にいるとして、幸せだと思いながら日々を過ごしているとしましょう。それはとても魅力的で素晴らしいことですが、私はその状態が壊れてしまうことがどうしても耐えられないのです。だってそれはいつか必ず訪れること、人間には死があるのですから別れは必然的にやってきます。本当に一番確かに信じられる幸せの定義を他に作らなければいけないと思いました。そして今、私が信じている幸せの定義は、貴方が私の人生にいたこと、だと思っています。目に見える形で存在するものよりも確実に心で生き続けてくれる幸せの形です。貴方も私もお互いのことを覚えていれば消え去ることはありません。私がどうしても貴方に忘れられることが怖かった理由がようやく分かりました。ずっとその理由は分かっていなかったのです。ただ本能的に湧き上がる恐怖で私は貴方に忘れないでとお願いしました。あれは間違ってなかったんだと今は思えます。忘れなければ永遠はある。永遠を信じましょう。私たちで作る永遠を。


 私が貴方の前からいなくなったことをどう思っているのでしょうか。ちゃんと説明もせずに去ってしまったことは本当に申し訳なく思っています。ごめんなさい。でも、理由は言えません。世界で一人だけ、愛している貴方だからこそ言えない理由があるのです。私のことをどう思われているのかは分かりませんが、私は貴方を忘れないという事だけは分かっていてください。

 もし幸せを見失ってしまっているなら、私のことを思い出してください。二人でいた瞬間ではなく、その思い出を幸せとしてほしいのです。私はそうしてこれからも生きていきます。その事を伝えたくて私はこの手紙を書きました。貴方とこの幸せを共有しないと、私だけが幸せでは意味がありませんからね。

 二人が共に過ごしたこと、そしてそこには確かに愛があったこと。それを永遠の思い出として幸せとしてください。私もその幸せを抱えて歩いていきます。貴方が幸せでありますように。敬具〉


 わたしが苛まれていた灰色の世界は、今はもうありません。幸せはここにあって、世界も充分に色付いて見えます。

 あなたからの手紙で、世界は色を取り戻したのです。手紙に乗せたあなたの想いによって、救われることのなかった筈の灰色の世界からわたしは救われたのです。わたしが信じていた幸せ。あなたと共にいることが幸せと信じていましたが、それは形を変えました。幸せは思い出の中にある。そしてその限り、永遠に続いていくものとなる。あなたがいないから幸せは訪れないと思うのではなく、あなたが我が人生にいたことが幸せであると思う様になりました。

 その事に考えが及ばず、あれ程精神が荒れ狂って明るく振舞ってみたり、独りに寂しさを感じてみたり、内面世界に閉じ籠っていったのはなんとも愚かです。愚かですが、若さ故のその激動の精神の変化には、面白い一年を過ごすことが出来たから悪くないと思えます。二人で願い合っていた幸せのあり方に、二人とも気付かずにいたのは少し滑稽でもありました。それでもお互いが気付かない内に幸せを願うことが出来たのは、やはりあなたが言う様に本能のなせる技なのではないでしょうか。本能の愛。いい響きです。

 手紙を読み終えた直後は様々な感情が渦巻き、その感情を整理出来なくて二日程時間をとって考えました。幸せの形の変化、それは本当に正しいのか。あなたがこれからもいないままでわたしはやっていけるのか。そもそも愛とは何か。灰色の世界はどういう問題を抱えているのか。あなたがいなくなった理由は何で、何故それをわたしには教えられないのか。本当に、様々な事を思考し続けました。部屋で胡座をかいて思想の世界に集中し、脳内で繰り広げられる疑問提供に一人で討論していく内に宇宙空間を漂っている気分になりました。脳内に存在する小宇宙は永遠に拡大を続けていき、ここでならあなたとの思い出を幸せとし、永遠に守り続けていくことも可能だと思った時に現実に戻ることが出来ました。その頃には桜も見られる様になり、春風が吹く色鮮やかな世界になっていました。

 わたしは日々の小さな出来事にも一喜一憂する様になり、他人との関わりも丁度良い関係になっていきました。I君とは互いが認めた親友として仲良くしていますし、顔と身体だけしかみてなかったあの女性とも中身も含めて向き合う様になり、その後どうなったかはご想像にお任せします。

 永遠なんてない、というわたしの考えはあなたによって覆されましたが、あなたの事を「運命の人」と感じたのは正しいと今でも思っています。「運命の人」とは最終的に結ばれるかどうかは関係なく、出逢った時や共に過ごす内に、この人だ、と感じられればそれで良いのではないかと思います。運命なんて人それぞれなのですから、人それぞれの「運命の人」があっても良いのです。ハッピーエンドは一つじゃありません。どんな道を辿ろうとも、最後に幸せだと思えればそれはハッピーエンドです。齢二十にしてあなたと出逢い、幸せのなんたるかを知ってその幸せを手に入れたわたしはもう何にも苛まれることはありません。灰色の世界とは永遠におさらばです。

 わたしの部屋に飾ってあった桜の樹の枝と名前も知らない花はいつまでも元気で残っています。それこそ、わたし達の永遠となった幸せを象徴しているかの様です。春になったら最も美しい姿になって咲き誇ります。これまでも、そしてこれからも、ずっと枯れることはないのでしょう。

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春雷 稲光颯太/ライト @Light_

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