第6話

 着実に精神は泥濘に潜ることを始め、惰性のみでわたしは山を下り下宿に帰り着きました。この惰性というのは今思えば非常に役に立つもので、この後大学に行くのもバイトに出るのも人と会話するのも外に出ることも食事も風呂もトイレも全て、惰性がわたしに代わってやってのけてくれました。陰の恩人です。惰性のおかげでわたしはその日も通常通りの生活を送り寝床に就きました。唐突に気付いてしまった幸せの真実にわたしの脳は打ち拉がれている最中だったので、紅葉狩りから帰って何をしたのかは記憶にありません。ただただ「不幸」という意識があった気がします。現在生きていることを考慮して、普段通りの生活を送り寝たと判断しています。

 翌日から秋は急に姿を晦ましてしまい、冬将軍のおでましとなりました。涼しさを感じさせていた風は、凍てつく様な風に顔を変え世間の人々を大変困らせていました。齢二十にして己の幸せは永久に訪れないと悟りを開いていたわたしは、寒くて困るなあ、程度に困っていました。

 大学に行くと多くの学生が着てくるものを間違えたと後悔を垂れ流していました。垂れ流された後悔は学内の床の三分の一が埋まる程の量はあったでしょう。そんな彼らは一人残らず幸せの希望が将来で輝いているのだと思うと憎く思えてきました。金属バットでも手に持っていたなら、きっと日本史に残る大事件を引き起こしていたことでしょう。

 数日も経つと寒さは度を増していき、日本列島全体が寒波で覆われました。北海道では吹雪が連日の様に住民の命を危険に晒し、沖縄では今にも氷点下を下回るという未曾有の経験をもたらしていました。この年の時点で、沖縄では観測史上では二回しか雪が降ったことがなかったと言うのですから、氷点下になるだけでも未曾有です。わたしの大学二年生の年は、進級直前から一年を終えるまで、異常気象と共にあったのです。良くも悪くも、です。よくぞ生き延びたと当時のわたしに賛辞を送ります。

 寒波が人々の衣替えと防寒を強烈な剣幕で追い立て、皆が悲鳴を上げている間に十一月は去り、十二月がやってきました。一年の終わりを総括する大きな背をした一ヶ月です。わたしも世間と同様に悲鳴を上げながら寒さを耐え忍ぶ準備を進めていきましたが、わたしの周りでひいひい言っている彼らは幸せが訪れるのだから黙っていろ、と自己完結の昏い世界に思考が潜り込んでいくのでした。そんな状態でも惰性は最低限度の人付き合いを請け負ってくれたので立派なものです。賛辞を送ることにしましょう。

 十二月が始まって、師走だ師走だと世の中が忙しそうにしていると各地で雪が降り始めました。わたしの通っていた大学がある街は、三年に一度雪が積もれば子どもや犬は喜んで駆け回るくらいに雪は珍しい存在で、十二月も始まったばかりなのに週三のペースで雪が降る気象に人々は大慌てでした。普段は用意もされていない雪掻きグッズがスーパーに陣取り、我先にと買い漁っていく婦人たちの群れ、公共交通機関が悉く止っていくので通勤・通学も満足に出来ずに涙を飲む会社員と学生の群れ、小学校は臨時休校が相次ぐのでもう冬休みに突入したも同然だと喜んで寒い中遊びまわる小学生や幼児の群れ、燥ぎ回ったり炬燵で丸くなったりする犬・猫・その他ペットの群れ。街はあらゆる群れで溢れかえっており、その様子は当に産業革命期のロンドンの街の様でした。ただし、わたしは産業革命当時のロンドンの様子を見た訳ではないので適当なそれらしい比喩です。とにかく、幸せの存在を失ったわたしが壊れてしまわずに済んだのは、この世間の騒ぎ様が影響したのでした。

 慣れてない雪掻きを覚えたり、雪だるま製造に余念がない周囲を気にせず悠然と過ごすのは我々大学生でした。言わば人生の夏休み中なので時間は腐る程あるのです。しかし全員が暇人という訳ではなく、就活生と何か自身の目標に打ち震える者を除いた大学生は安全地帯でのんびりするだけでした。大学に行ける日には学内が提供してくれる暖房施設で暖をとり、雪が降る日には休講や自主休講で難を凌ぎ逞しく生きていました。わたしも難を逃れていた者の一人で、下宿の自分の部屋で暖房にお世話になりながら惰性によって生かしてもらっていました。特にこれと言った目標もありやしないので、自主休講で部屋に籠る決意をした時に買い溜めた文庫本の山を読む事で日々生きていました。生理的な行動をする以外の時間はほぼ読書に当てています。白に染まっていく外界を隔絶し、独り快適な部屋で讀物の世界に逃げ込む事が生きる術でした。現実には幸せが用意されていないので非現実に逃げるしか方法はないのです。その内に、I君が雪をものともせずに呑みの誘いをしてきましたが惰性が柔らかく断ってくれました。呑むことも現実逃避の一手段でしたが、そこに他人が介在してくると意味はありません。全ての現実を引き連れてやって来るのは、わたしとあなたを除いた全員なのです。惰性により毎日水を与えていた花たちは凍りついていき、名前を知らない花と桜の樹の枝だけがわたしの部屋で生き残っていました。

 そうして現実世界から逃げ続ける私を引き戻そうとするかの様にI君から電話が掛かってきます。彼も余程の暇を持て余していると見えて、二日に一回は連絡がきます。携帯でやり取りをするのが常なのですが、彼はよく電話を掛けてきました。

「よう、今お前何してる?」

「本を読んでいる」

「毎回電話する度に本読んでね?」

「読むものは無くならないからな」

 このようなくだらない会話で暇を潰します。彼はガールフレンドの家と自分の家を行ったり来たりしていると聞いたのですが、流石に毎日の様にそんな生活が続くと飽きてくるとボヤいていました。わたしの家とあなたの家とを行き来出来るというならわたしは決して飽きることなんてないだろうと思ったので適当な返事をしておきました。不思議とI君に対しては世間に抱く様な、お前ら幸せの希望あるんだからいいだろ、という怒りは湧いてこないのでした。それでこそわたしも彼との会話を拒まないのでした。

「なあ、暇すぎていろいろな事を考えるんだけどさ、俺。一つだけ格言的なこと考えたから聞いてくれ」

「はあ、どうぞ」

「いいか、人が一番殺意湧くのって誰だと思う?答えは『あの時の自分』だよ」

「なんか、本当に格言的なこと言い出したじゃないか。何それ、ちゃんと聞かせてよ」

 彼には時々、文学チックと言えば良いのか、哲学の道に開ける様なところがありました。それは大抵が酒に酔っている時なので今もおそらく呑みながら電話をしているものと思われます。そんな時の彼の話は、これが案外面白く、聞く価値がある場合が多いのでわたしは耳を傾けるのです。

「あのな、人は誰しもが過去に恥ずかしいものを抱えて生きてるんだよ。それがどれだけくだらないものでも何でもいい。出来れば無かった事にするか、過去に戻ってやり直したい。そして大抵の人は殺したい人なんていない。そんな人達に誰か殺したい人はいますか、って訊くんだ。それが過去の人物でも結構ですよってなると、過去の恥ずかしい自分を殺して新しく生まれ変わった自分を生きたいですってのは日本人の模範解答だ。俺だって実際そうしたい。そうすれば俺も今頃は幼馴染の子と青春ラブストーリーの住人として生きられてたかもしれないんだよなあ。あー『あの時の自分』、まじでうぜー」

 最後の方は聞き流して電話を切りました。今回の哲学話は彼の話史上最高に深いものだった様に感じて、正直に申し上げると僅かに感動を覚えかける程でした。彼が今何処から電話を掛けてきたのかは分かりませんが、ガールフレンドの部屋だけは違う事を祈ります。折角の名演説も最後に遊び心で加えた蛇足文で修羅場を産みかねません。それは置いておくとして、『あの時の自分』はわたしも出来る事なら殺してやりたいと思う人間である事に気付かされました。あなたと離れ離れになると分かった時、必死にあなたを引き止めていればどうにかなったかもしれない。またはあなたと出逢う前に止めていればあなたを知ることもなく、代わりに苦しむ今もなかった筈です。これからは『あの時の自分』を殺して未来を変える夢でも見る様に努めようか、と思い文庫本を手に取ります。

 一箇所に籠って自己完結の内面世界だけで生き、更には現実逃避を繰り返していると思考が下劣になっていきます。あなたを知らなければ良かったなんて、絶対に忘れないと約束したあなたに対して最上級の侮辱に値します。今ならばすぐに気付けるこの事実にわたしは一生気付かないままでいる様な生活を続けました。I君の唐突で素晴らしい、しかし状況を考えると無意味でしかない哲学で一時の暇潰しを終えたわたしは、再び讀物の世界に閉じ籠りました。


 地球温暖化さえ恋しくなってしまう様な異常気象は続き、街の白さが板につき始めてきました。子ども達は雪遊びに飽きてしまった様で外には人っ子一人見当たらない事も多くなりました。しかし、その状況を一気に覆す日が近づいていました。クリスマスです。

 わたしは内面世界に籠っている筈なのに、二十日を過ぎた辺りから気が重くなっていました。例年目にしている男女の色めき具合は今更どうってことはないのが道理でしたが、今年はあなたを知りあなたを失い、それと同時に幸せを失い外は雪だらけ。ホワイトクリスマスというやつです。愛する者と、多くの人が幸福を噛み締めます。家族と過ごすクリスマスがわたしの最大の幸せだと言うなら苦労はしません。それ程に大きなあなたの存在を失った事を思って、また卑屈な方へと心を埋めました。「不幸」という意識は肥大化していきます。

 そんな状態でも時間は過ぎていきます。学生達が冬休みに入る二十三日が訪れ、わたしも惰性が連れていってくれた大学で知り合い達に今年はお世話になった、来年もよろしくと心に一片もないことを言って回ったのです。

 その様に挨拶をして回っていく内に、これはわたしの不注意が招いた結果なのですが、あの先輩と顔を合わせてしまいました。夏休みのあの海から帰った後、短い期間に入っていたバイトでも先輩とシフトが合わない様に調整し、バイトを辞めてからは一度も会っていなかったのですが、彼女は同じ大学に通っているのです。本当に厳しく注意し続けないとばったり出会ってしまう可能性は充分あります。すっかり忘れて注意していなかったわたしは、しっかりと目を合わせた上で先輩に気付かなかった振りをして逃げ出そうとしました。しかし先輩はそれを許さず、「待って」と大声でわたしを呼び止めながら腕を掴んできました。

「ごめん、ちょっと話をさせて。海行った時からずっと会えなくて、君、バイトも辞めちゃったから探してたの」

「別に、何も話すことはありませんよ。帰りたいので離してください」

「いや。あのね、あの日のことは本当に申し訳なく思ってる。私のことばっか優先させて、勝手にいろいろやろうとしちゃったよね。ほんとごめん。自分勝手だった。でも一つだけ言いたいことがあったの、あのね、あの頃は私付き合ってた人と別れたばっかりで、気分も沈んでたし寂しかったの。そしたら君が優しく構ってくれるから、私、嬉しかった。前々から優しいし面白い子だなって思ってたし。本当だよ、二股かけたとかじゃないの。あの日、君のこと好きだって思って、それで誘ったの。もし勘違いしてるならそれは誤解だから。あの、その」

「やめてください!何なんですか、もう」

 わたしは叫びました。大学生活で一番大きい声が出たかもしれません。先輩は驚いて、わたしが手を振り払っても何もしません。

「それならあの時そう言ってくれれば良かったじゃないですか。なんで黙ってたんですか。意味分かりません。そういう風に全部素直に言ってくれれば、僕はこんな中途半端じゃなくなったし、忘れることだって出来たし……」

「私もそれは悩んだんだよ。君に想いを伝えてからするかどうかって。でもそんな簡単には言えないよ。別れてすぐってのもあるし、一度身体を重ねればお互いの気持ちも整理出来て、そうすれば想いも伝えやすくなるかなって」

「ふざけないでください。僕を、先輩みたいな経験豊富な奴だって思ってたんですか?そんなことある訳ないじゃないですか。僕がどんな人間かくらい分かってたでしょ。卑屈で根暗で、あんな風に皆で海に行くのなんて初めてだったし。僕なんかには先輩とやる度胸もないんですよ!」

 涙が流れそうな、しかし流れないというぎりぎりのところを彷徨っていました。感情が熱くなります。激しく荒れていきます。絶望が怒りに変わっているかの様で、やはり幸せは訪れない、という思いが一層激しくわたしに覆い被さります。

「あ、あの…ごめんね」

「うるさい!」

 謝る先輩を激しく拒絶して、わたしは大学構内から逃げていきました。その時の先輩はどういう気持ちだったのでしょうか。今でも時々気になってしまうのですが、もうどうしても知る術はありません。


 年末年始にはバイトも休みにしてもらっていたわたしは、いよいよ本格的な籠りの準備を始めていました。主に食料品の買い溜めと心の準備です。どんな事があろうとも自己完結の内面世界から出ることはなく、幸せの希望が無くなったこの現実世界から徹底的に逃げる期間を持って来年を生き抜くための英気を養うのだと決意していました。先輩のことは意識の中から追い出していました。半ば逃げる様に、半ば忘れる様に。わたしの事を好いてくれていたなんて事を、愚かに喜ぶことなど出来ず、始めから先輩などいなかったかの様に考えるのでした。そうすることが今の自分には正しい行いだと信じていたのです。

 そんな沈んでいく気持ちと同調するかの様に、昏かった内面の世界も現実を否定する為の妄想で膨らんでいました。当事者であったわたしは気付きませんでしたが、記憶を辿る限りその世界は地獄の様な光景でした。どろどろとした感情は怒りや恨み、嫉妬など愚かな感情が混ざり合って出来たもので、それらが至る所で謎の城を作り上げて鎮座していました。よく見るとその形は、先輩と海で作った砂の巨城にそっくりでした。紅、と言うよりは血の色をした紅葉が無限に散り続けており、地面は血の池地獄でした。人間の姿をした者は存在しませんでしたが、あなたの様な形をした青銅の像の前でわたしは一日一回祈っているのでした。無理に言語化しようとすればこの様な世界観になるものが当時のわたしの内面世界でした。精神状態は最悪であったと言うしかありません。

 そんな世界に本格的に籠もり始めたわたしは、見方を変えれば修行僧の様でした。一つの部屋に籠って只管書物を読み漁る。そこに喜怒哀楽の感情は無く、本当の無常の世界。食事も気が向いた時に摂る様にしていたので、買い溜めした食料は中々減っていきませんでした。

 そうしてわたしは年の瀬において完全に外界を遮断し、堕落や破滅しか先のない自己完結の内面世界で生命を消費していくのでした。


 わたしは完全に外界を断ち切った生活をしていた自信があったのでした。これだけ汚れきっていると希望は寧ろ得体の知れないものだから近寄りたくない、と言える程に内面世界を造り上げたつもりでした。油断も何も無かった筈です。選んだ方法は間違っていませんでした。完全に外界は消し去ったのでした。

 しかし、寒さを覚えて意識を取り戻したわたしがいたのは、紛れもない大学構内なのでした。防寒具に身を包み、あなたと出逢った大きな樹の下のベンチに独り座っています。一切の事情が飲み込めず、たっぷり十分は思考停止のままベンチに座り続けました。上空には優しい雪が舞っており、携帯の画面には十二月二十四日二十時と表示されています。つまり、クリスマスイブです。内面世界の辞書から消し去った筈の言葉が脳内に現れて、わたしは怖くなりました。誰かわたしの邪魔をする者がいるのか、と周囲を何度も見渡します。しかしそこには生命の気配はありません。大学構内はひっそり閑と静まっています。遠くの街中の方からは賑やかな生命たちの喜びの声が聞こえます。わたしはようやく事情を理解しようと努め始めました。

 結論から言いますと、わたしは自分の足でここまで歩いて来たのでした。わたしの内面世界に存在したあなたの像。あれはわたしの幸せに対する希望の象徴であり、毎日その像を拝むわたしは幸せを無くしていないと希望を抱き続けていた様でした。外界は断ち切れどわたしの本当に向き合うべき相手は己の中にあったのです。その事に気付いて自分の愚かさと醜さと恥ずかしさに襲われたわたしは、永久に沸き立つ涙を脱水症状を起こすまで流しました。呼吸困難と身体の底から湧き上がる渇きに苦しみましたが、奇跡的に所持していた財布と近くにあった自動販売機のおかげで物理的な死は免れたのでした。涙は何処までも暖かく、寒さは全く感じませんでした。

 籠もりきっていたわたし如きでは幸せの希望はあってもどうにもならない事は理解していましたが、現状を取り繕うにはあなたを探すしかありませんでした。あなたは見つからない事を知っていた上で探すのです。ふらふらと左右に揺れる体を倒す様にして街中に向かい始めました。

 男の目はぎらぎらと世界を睨んでいます。覚束ない足取りでも、それでも確かに瞳だけは燃えているのです。その様な気迫に満ち溢れた瞳でわたしはあなたの姿を探している筈でしたが、目線は人を探す動きをしません。街行く人々を見つめては、世界への訴えを巻き起こしていきます。腕を組み歩く男女、君たちは幸せだ。家族でディナーに来ている父母子、君たちは幸せだ。少し早めのクリスマスプレゼントを受け取る兄弟、君たちは幸せだ。お互いの独り身を慰める様な言葉を交わしながら酒を飲む若き女性たち、君たちは幸せだ。卑猥な会話で恋愛をくだらないものと卑下する男子学生たち、君たちは幸せだ。街の色めきだった空気などには気付かずに犬の散歩をする老人夫婦、君たちは幸せだ。聖なる夜にも関わらず大切な何かを守る為労働に励む者たち、君たちは幸せだ。恋人と別れて街を去っていく二人、君たちは幸せだ。この世の全てが幸せを讃えており、希望が存在しており、わたしのみは除外されている。聖夜のテロリストになったわたしは、自己の中に爆弾を増やしていきながら世界を睨み続けるのでした。

 わたしの狂気で輝く瞳を見れば、人々は道を開けていきます。わたしの燃えている希望の残り火は、わたしが歩いた跡で燃え尽きて灰を置き去りにしていきます。我が通り道には人も犬畜生も寄り付きません。呆気にとられながら幸せを発散し続けるのみです。その街中の幸せの中をわたしは永い時間彷徨いました。雪に絆されて暖かさに満ちた街は、幻想によって輪郭を保っており、わたしが歩いていくには荊の道として纏わり付いてくるのでした。希望の炎でも燃やせない荊です。それでも足は止めませんでした。あなたを探し続けました。見えない姿を見ようとしました。もしかしたらわたしはマゾヒストなのかもしれません。辛い思いをしながらも安心感が拭えないのです。世界はまだ大丈夫だ、幸せがそこらに群れをなしている。わたしが希望に釣られてのこのこと出て来てしまったのも頷ける。何も恥じる事はない。

 雪はその日、何処までも降り続いている様でした。歩いても歩いても終わりがやってくる気配がありません。光は互いを刺激し合う様に煌めいて、街の隅々まで照らしていました。これ以上はここにいられないと思ったわたしは、街を抜けて郊外の方へ歩いていきました。神様がこの世界を空から眺めて満足しているなら、わたしも出来るだけ高い場所から眺めてみたくなります。記憶を探りなから適した場所はないかと悩むと、紅葉狩りにいった山のことを思い出しました。あの山からは街が一望出来るので空から眺める様な状態になれます。

 どんどん街から離れていきます。さらば、桃源郷よ。わたしは、荒野を歩け。

 山までの距離はそれなりに遠く、自転車でも一時間漕がないと辿り着けなかった場所なので、歩きですとたっぷり二時間は掛かります。あなたを探すのには充分な時間じゃないかと思い、歩く足を止めません。雪は少し強くなった様でした。

 山までの道のり、多くの道路の横を歩きます。わたしの横を通り過ぎていく車は幸せを運んでいます。会社帰り、ディナーに向かう途中、恋人とのドライブ、家族旅行の最中、ホテルへ向かう、多くの人々が運ばれていきました。君たちは幸せだ。一人一人に声を掛けるのでした。

 街の光が背中から流れてきます。そういえば、今日の街はいつもよりも鮮やかに色が目立っていました。ネオンも看板もツリーも街灯も鮮やかな色をしていました。こうまでくっきり世界が見えたのは非常に久しぶりでした。幼い頃に見た世界の何処かが同じ様に鮮やかであった様な気もするのですが、こんな姿に変わり果てたわたしにはよく分かりません。ひょっとすると街は幻覚かもしれません。神が見せてくれた幻かもしれません。少し周りが静かになるとすぐに幻覚を持ち出して理由付けする癖がわたしにはある様です。

 いつの間にか辺りには人の気配が無くなりかけてきていました。車も通らず、すれ違う人も疎ら。ここらで幸せも見納めになるかもしれないと思った時に反対から歩いてきた老人がいました。わたしは、君たちは幸せだ、と言い「良いお年を」と挨拶しました。老人は返事をしてくれて歩み去っていきます。祖父に似ていると思いました。

 車道か歩道か分からない道が続く様になり、都会の喧騒も文明の手も加わっていない土地を歩いていました。どうやらそこは田んぼの畦道らしく、かなり遠くの方に民家も確認出来ましたが灯りは付いていません。時刻は二十三時、そろそろイブが終わります。身を悶えさす疲労を受け止めながら山道に差し掛かりました。一寸先は暗闇ですが構わず登っていきます。ある程度の道順は覚えていたので灯りはいりません。とにかく目指すのは山頂なのです。高い所なのです。街を見渡したいのです。上に登っていけばいつかは辿り着く場所でした。

 あれ程周りを取り囲んでいた紅葉は一枚も現れません。冬になって葉を落とした木ばかりでした。春に桜が散った後の光景と通ずる点がある様です。こうしてまた季節が巡るのです。そんな事実は陳腐だ、と切り捨ててわたしは落ち葉を踏みしめ山道を登ります。暗闇で周りが見えないので、よりはっきりと枝葉を踏んだ時の音が聴こえます。何処からか動物の鳴き声も聴こえました。人はいないが動物がいるということをすっかり忘れていました。君たちは幸せだ。

 山道の途中には土産物屋などが存在する筈でしたが、一向にその姿は現れません。どうやら山道から外れた場所を歩いてしまっている様です。幸せだけでなく山道にも外れたか、と軽く自虐しそれでも歩みを止めません。上へ上へと登っていきます。この山には頂が一つしかないのだから辿り着かない訳はないのです。邪魔になった上着も脱ぎ捨てて、雪降る景色に似合わない汗を垂らしながら登ります。親の仇とでも言いたげな剣幕で登ります。誰にも何にも止められる事はない、あなたのいない場所でも必死に登る悪鬼の様な姿は酷く醜かったでしょう。顔面に雪つぶてが当たり続けても下を向きません。当に狂気でした。

 苦戦すること三十分、わたしは山頂に到達しました。雪はとうとう激しさを最大にしており、吹雪と呼んでも良いくらいの荒れ様でした。視界が確保出来ません。それでも街を見下ろしてやるのだと意気込んで崖先に近付きます。足元もよく見えないので慎重に歩を進め、崖先に設置された柵に手を掛けてゆっくり顔を上げました。街が存在するであろう方向には何も見えません。雪が視界を掻き消すのです。うっすらと光の様な靄の様なものが浮かんでいるのですが、幸せの光景には見えません。こんな光景を主はご所望ではなかった筈です。わたしにも隠さずに見せてくれ。

 雪の弱まるのを信じて待ちました。ただ一点を見つめて動きません。汗が退いて寒気がしてきました。凍える空気に身が震え続けます。このままでは体がもたないかもしれません。

 ここで倒れるのも覚悟した時でした。風が弱まったのを感じ、目の前にある白さが減ったのを感じ、それから一気に、幕を開く様に視界が開けたのです。時刻は二十四時、それから零時に。クリスマスです。

 一瞬にして街の姿が目に入りました。七色の光が不規則に散りばめられていて、巨大な群れをなした幸せをライトアップしています。小さな幸せたちが街に向かって集まっていき、街を丸ごと飲み込んだ幸せは更に肥大化していきます。生き物の様に右へ左へ揺れて、踊っているのかと思いましたがただ揺れています。わたしが一生手に入れられないと悟った幸せがそこには溢れんばかりに存在します。生物たちに与えられた永遠の煌めきが集まった景色は、この世の何よりも絶景であったことは約束します。

 その景色を口を真一文字に結んで見つめていると、景色の中心に灰色の点が現れました。おや、とわたしが瞬きを繰り返すと、その灰色はあっという間に広がっていきました。鮮やかに見えていた七色の光が失われていきます。一年前に見ていた、あなたと出逢う前の灰色の世界の再来でした。「不幸」という意識の集合体かもしれません。鮮やかな色たちに別れを告げる暇もなく、失われていくことを惜しむ時間もなく世界は灰色になりました。その世界には幸せなど存在する余地はなく、街を見てもただの物理的な景色があるだけでした。ああ、遂には幸せを目にすることも許されなくなってしまったのか、と悟ったわたしは、別れにせめてものはなむけをと、涙を一筋流しました。

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