第5話

 ふと気付くとあなたが遠くの方で手を振っています。何か叫んでいる様なのですが、朧げにしか聴こえないので走って近づいてみます。桜の花弁の上に立っているあなたの元に辿り着いた頃にはもう息が切れました。当分寝てばかりで動かなかったのが災いしたなと少しばかり後悔してみます。そんなわたしの様子を見てあなたは笑っています。物理的にも精神的にも平和を見ました。

「それで、さっきは何を言ってたの?」

「うん?ああ、さっき叫んでたのね。おーい、こっちだよー、って言ってたの」

「なんだあ」

 顔を合わせて二人して笑いました。くだらない事におかしさが自然と込み上げてきたのです。

「でもね、言いたい事はあるんだよ。わたしを忘れないで、って」

「え?」

「言ったでしょ、わたしの事覚えていてくれるって」

「うん、言った。そうだね、約束したよね。あ、それなのに僕、忘れてしまいたいって思った事あった。ごめんね、ほんと」

 まるで小学生と会話する時の口調です。あなたは小さく溜め息をついて、顔を上げにっこりと笑って駆け出しました。足元にあった桜の花弁は後を追いかけていき、桜の花道が出来上がっていきます。一拍遅れてわたしも追いかけていき、あなたが作った花道を進んでいきます。何処か見覚えのある桜を見ながら進んでいると、少し先の方であなたが足を止めました。わたしも追いついて足を止めます。

 あなたは左の方に体を避け振り向きました。そして左手で下の方を指差し、指差した先には一本の枝が落ちていました。

「この桜の樹の枝、水を上げないとかわいそうだよ。忘れないで、ちゃんと守って上げてよ」

「これって、あの枝…。でももう駄目だよ。きっともう花なんか咲かないよ」

「大丈夫。ちゃんと気に掛けていれば綺麗な花を咲かすよ。きっと」

 あなたの、きっと、という言葉には明るい希望が含まれている様でした。わたしですらその言葉を聞くと勇気が湧いてくる様に思えます。あなたが優しく微笑んで、わたしには明確ではないのですが納得の念が浮かび上がってきて、小さい子どもと接する時と同じ様に優しく枝を持ち上げました。思いの外暖かい感触になんだか喜びを覚えました。

「暖かいでしょ?」

 少し嬉しそうな表情が滲み出ていたわたしにあなたが言います。それはまるで、わたしの心を読んだかの様です。

「うん、暖かい。こんなものを忘れるなんて、僕は駄目だね」

「良くない事だけど、自分を否定してしまわないで。心配なんかしなくてもいいんだよ。だって、春はまた巡ってくるんだから」

 不覚にも涙が流れそうになって恥ずかしかったので、目一杯上を向きます。そんなわたしの事を揶揄う様にあなたは笑って、また何処かへ走っていきました。

 その日見た夢は、そこで終わりました。目を覚ますとそこには見知った天井があって、わたしは二筋の涙を両目から一筋ずつ流していました。起きて最初に思ったのは、さっきは涙を流さずに我慢出来た筈なのにおかしいというものでした。そう思ってからしばらくは何も考えずに天井を見上げ続けていましたが、急に桜の樹の枝のことが気になり部屋をあちこち探し回りました。体は不自然な程に自然と動きます。花瓶の中を覗いた時、やっと在処を思い出し風呂場に駆け込みました。枝は浴槽の中にぽつんと置かれていました。花瓶の水を捨てた時にそのままにしておいたのです。こんなぞんざいな扱いを受けていい筈がないものをよくもやってくれたな、と過去のわたしに怒りが湧くのと同時に早く水を上げようと思い花瓶に水を注ぎました。不思議な事に一週間近く放置した筈の枝は今までよりも活き活きとして見え、花瓶の中に入れられて窓辺に飾られたその姿は美しいものでした。

 そして、精神が洗われた様に真っ白で落ち着いていたわたしは、「外に出よう」と決意したのです。


 久しぶりに出た外は覚悟していたよりも数倍暑く、そしてまた生命の活力が漂っていました。人間の体内時計は陽の光を浴びて正常に働くと言われます。そう聞いたことがあります。午前八時。どんどん昇っていく太陽は生命の象徴そのものに見えて、今更ながらわたしは偉大なものの元に生きているのだと畏怖の念を抱きました。

 外に出るという事自体が目的であったので、外に出た後はどうすれば良いのかと暇になりました。適当にふらふら歩いても途中で太陽熱に熱されて倒れないとも限りません。その時になって、ここは何処だ避難出来る場所はないのかと焦っても遅いのです。その様な事態を避けるべく大学を目的地として歩き出しました。通学路を通れば倒れそうになってもどうにかなります。余りにも部屋の中で惰眠と快適冷房に浸っていたわたしの体は貧弱になっていたのです。

 流れる汗に構いながら、蝉の大合唱に野次を飛ばしながらわたしは歩きます。途中で念の為にと思い自販機で水を買いました。その時に財布の中身を見たのですが、残高は水を買ったことにより三十四円になり、そういえばバイトを辞めたのだったと思い出して今後の経済状況の懸念を始めました。最早あの居酒屋のバイトには戻れません。あの先輩もいる事ですし、そもそも居酒屋でのバイトなど自分には向いてなかった事を悟りました。無理して明るく努めていたわたしはもういません。己の本質が負の性質を帯びている事は分かりきっていたのです。地元の夫婦などが経営している本屋などで静かに密かに働けないかと思案していました。

 そんなこんなで大学まで歩いていき、タオルを恋しく思い扇風機に可能性を見出しクーラーを崇拝したくなった時でした。今は蝉たちの集合住宅と化した元桜の樹、あなたと出逢ったあの大きな桜の樹の下に人影を見たのです。こんな所で突っ立っていると倒れてしまうぞ、と心配になってよくよく顔を見ると、そこにはわたしがついさっき夢にまで見たあなたの顔がありました。心臓を吐き出す勢いで変な声を出しながら驚き、心臓に走った電流に痛みを感じながらもどうにか平静を取り戻そうとしました。心臓はどうしてこんなにも驚きの感情に対して脆いのかという謎がわたしの人生に付き纏う様になった瞬間でした。

 わたしが周囲に聴こえる様に変な声を上げてしまったので、当然あなたもこちらに気付きます。わたしの方を振り向き、紛れもないあなたの全体像を惜しげもなく見せてくれました。本当に間違いではないのかと余計疑心が深まり、間違っていた場合の恥を承知で話しかけようとしました。しかしあなたは、話しかけるべく一歩近づいたわたしとは反対方向に走り出しました。わたしは不意を突かれて地蔵の様に直立不動しています。自分はまだ夢の続きを見ているのではないか、本当はクーラーの効いた部屋でうずくまって未だに夢の世界でいるのではないかと不安になりました。この暑さは本物だと信じたかったし、あなたが目の前にいた世界を現実だと信じたかったのです。試しに頬を五割程の力を込めて平手打ちをしてみましたが、中途半端な力で叩いた所為で痛いのかどうかよく分かりません。それでも感触はあったのでこれは現実である筈だと判断しました。第一、夢かどうかを確認する夢なんて聞いたことがありません。

 そうなるとあなたを放っておけはしません。大学の正門から外に出ていったあなたを追いかけ始めます。暑さなど気にしてないかの様に走ります。

 あなたは大学を出ると右に曲がったらしく、それらしい人影が走っていくのが見えました。どうしてこんなに足が速かっただろうかと疑問に思う程の快足っぷりでどんどん遠くに離れていきます。なんだかよく分からない状況だが逃すものかとわたしも全速力で走り出します。右に曲がり左に曲がり、野良猫を追いかけた時と同じ道を走っているかと思えばよく通って団子を買った和菓子屋の前を通り、わたしの家の前を通って二人で花見をした河原を通りました。あなたもわたしも常に走りっぱなしという訳ではありませんでしたが、九月の上旬はまだまだ夏なのです。全身から水分が無くなるのではないかと思える程に汗をかきました。自販機で買った水はすぐに飲み干し、信号と踏切が続いて長く待たされる道で思い切った判断をし、コンビニに飛び込んで金を下ろし水を買い再びあなたを追いかけました。コンビニはまさにオアシスと言うべき涼しさで外に出る者を許しませんでしたが、わたしはあなたへの強い想いがあったのでなんとかなりました。わたしがコンビニに入っていた間のあなたは道端に座って待っていた様です。

 再開された追いかけっこは終わる気配を見せず、あなたは信じられない事に電車に乗り込みました。余りに突然の事であったのと電車がすぐに出発してしまった事によりわたしは置いていかれてしまいました。無人駅の外から去っていった電車の行く先を見つめながらどうしようかとうろうろしていましたが、次の電車が二分後に到着したのでわたしは迷わずにその電車に乗り込みました。コンビニで下ろした金額は幸いな事に一万円。あなたが遠くに行っても追えない事はないだろうと思いました。

 しかし残念なことに肝心の行き先が分かりません。わたしの乗る電車はあなたが乗った電車と同じ路線を通過していくと思われたので全く別の場所に行ってしまう心配はありませんでしたが、どの駅で降りればいいのかが分かりません。そんな分かりきった事に乗る前に気付かない程必死だったのです。

 そんな時わたしは、自分が乗っているこの電車があなたと遠出した日に乗った電車と同じである事に気が付きました。このままですとこの電車は隣県まで行きます。わたし達はあの日、終点の駅で降りたのです。もしかするとあなたは再びあの場所に行きたいのではないかと直感で理解しました。残暑で包まれた今の時期にあの場所まで行っても何も見るものはありません。桜の季節か紅葉の季節でないとただの緑地です。ぶっきらぼうに山と言い放っても良いくらい何もない場所です。今時あの場所に行くのは虫取り目当ての親子連れくらいなもので、あなたが行っても何もする事はない筈でしたが、あなたはそこに向かったのだという妙な確信がありました。クーラーが効いて快適な車内でわたしは行き先を決めました。そうなれば水を飲み干し、電車が終点に着くのを待つのみです。


 果たして、終点に着いたわたしは急いで改札を抜けてバス停を探しました。前回と同様の道順で行くならバスに乗らないといけないのです。駅から出たところでようやくバス停に並ぶあなたを見つけました。しかしバス停はやや遠く、わたしがあなたを見つけるのと同時にバスに人が乗り込み始めすぐに出発してしまいました。急いでバス停まで行き時刻表を見て次の便の時間を調べましたが、次の便は二時間後に出るものでした。それを知った瞬間に一度は途方に暮れかけましたがすぐに気を取り直して決心を固め、さらに一万円を下ろすとタクシーを拾いました。とっくにあなたが乗ったバスの姿はなかったので「前のバスを追ってくれ」という映画の様なやり取りは出来ませんでしたが、行き先はもう分かっていたので迷うこともありませんでした。

 あなたはバスに揺られること幾分か、わたしはタクシーの窓から外を眺め続けること幾分か、わたし達はあの日の桜の名所に着きました。わたしがタクシーで着いた頃には既にバスは到着していて、あなたが入り口を潜って歩いていくのが見えました。タクシーの金を払うとすぐにあなたを追いかけようとしましたが、あなたはバスを降りても走ろうとしませんでした。わたしはすぐに追いつけるぞと思い走り出しましたが、わたしが近づいても悠々と歩いているあなたの姿を見ると急に足が止まりました。あなたがここまで来た理由は何なのかが気になったのです。わざわざわたしと訪れた場所を巡ったりして、隣県のこの地まで来るのには理由がなくてはいけないと思うのです。それは何なのかが分かるまではあなたに追いつくべきでも話しかけるべきでもない気がします。わたしはあなたまで残り三歩という距離まで迫っていましたが、わたしは二歩退がり五歩分の距離を空けて後に付いていく事にしました。あなたはわたしの行動に気付くことすらない様子でのこのこと歩いていきます。久しぶりに見ることが出来たあなたの姿にわたしは見惚れながら付いていきます。互いに言葉はありませんでしたが互いに分かっている事を理解したまま進みました。

 桜は影形もなく、青々とした葉が生い茂っています。キャンプなどしたら丁度良さそうです。春よりも大自然を感じる雰囲気が滲み出る木々の下を歩いていき、あなたはどんどん進んでいきます。あの日と同じ順番で観光ポイントを回っていき、お食事処の前で立ち止まりメニューを眺めたりして、今はいいやという風な表情でまた歩き出し、残りのポイントを回っていきます。わたしはあなたの意図を暴こうとしながら付いていっていましたが、お食事処の前であなたの様子を眺めている時に遂に諦めてしまい、なすがままになると思い直し後を追う事に専念しました。

 あなたもわたしも只管歩いていきます。言葉も一切交わすことなく、わたしは汗を拭いながら水を飲みながら、あなたは不可思議にも汗をかくこともなく水分も摂らずに互いに一定の距離を保ったまま進んでいきます。

 やがてほとんどのポイントを巡り終わり、残すは後一つとなりました。この観光地一、そしてわたしの生涯一大きな桜の樹が残されていました。桜は散ってしまったのでただの緑豊かな大樹としてあり続けているのでしょうが、わたしはなんだか立派な桜が見れる様な予感がして楽しみになったのです。

 黙々と歩いていくというのは、友達や知り合いなどと一緒にいる時は本来禁物の行為です。会話もなくただ目的地目指して歩くだけですとどうしても険悪もしくは気まずい雰囲気にあるように思えるのです。例え、全くの仲良し二人でも黙って歩き続けるだけで、自分たちは喧嘩でもしたのか?と疑問が湧いてきます。と、わたしの二十年の人生経験ではそう決まっているものでした。まさかこの持論を覆されることがあろうとは露程も思ってもみなかったのですが、あなたはいとも容易く覆しながら歩きます。わたしはその後を追いながら「幸せ」を感じていたのです。

 脳と心が感じる幸せなんて御構い無しにわたしの足が疲労を訴え始めて、「明日にはただの棒になるぞ」と脅してきた頃でした。あなたが突然足を止めたかと思うと目の前に巨大な樹が現れました。それはあの大木でした。数ヶ月ぶりに改めて見ると、その大きさにはやはり驚かされるばかりで、前回同様父なるものの存在を感じました。後を追い続けるのはもういいだろうと思いあなたと肩を並べて樹を眺めます。物理的な高さの話をすればスカイツリーにも東京タワーにも到底及ばないのですが、それらの建物を眺める時のような気持ちになって見上げます。どこまでも空に続いていく様な錯覚に陥る様なその大きさ。偉大さも同時に兼ね備えていなければこうは思えません。この樹は偉大さの点で言えばスカイツリーにも東京タワーにも劣ることはないと断言出来ます。桜が散った後でも年中その素晴らしさは衰えを見せない様です。

 あなたの横顔を見てみるとどうやら同じ様な感想を抱いている様子で、子どもの様な無垢な表情で樹を見つめています。

「やっぱりすごいね、この樹は」

「そうだね。私が一番好きな桜の樹だよ」

 夏には似合わない爽やかな心地良い風が吹き流れていきました。柔らかく頬を撫でる様で、目を瞑って「ああ、春の様に暖かいな」と思って目を開いてみると、目の前に満開の桜が現れました。今度はわたしが子どもの様な顔で驚愕する番です。物理の法則を無視して自然の摂理に逆らって咲いている桜は、非常に鮮やかで本物であることを疑えないのです。とうとう気でも狂ってしまったかと自分の心配をし始めます。

「やっぱりすごいね、ここの桜は。格別だよ」

「え?あ、まさかこれ、君がやったのか」

 余りに信じがたい事だったのであなたの所為にして納得しようとします。あはは、と笑って返事もしないあなたを殊更綺麗だと思って、何でもいいや、と気にしないことにして桜を楽しむことにしました。そしてあなたが言った通り、本当にここの桜は格別に綺麗です。

「もう一度だけ、ここの桜が見たかったんだ。今までの全部の場所を巡って、最後にこの樹の下で願い事をして。そういう事がしたかった。ねえ、そういえば君はあの時何を願ったの?」

「僕は…君の幸せを願ったよ。誰かを幸せにする願い事が叶うってなら、勿論君のことを願うよ」

「あはっ、お互いがお互いの幸せを願ったんだね。どう、今幸せですか?」

「幸せ…とは言い難いかな」

 苦笑いして言いました。あなたと一緒にいれているこの瞬間のことだけを言えば幸せでしたが、ここ最近の話になると幸せとは口が裂けても言えませんでした。

「幸せになってよねえ。わざわざここまで来て歩いた甲斐がないじゃない」

「うん。頑張るよ」

 桜が散り始めていました。それも急な速さで、どんどん花弁を落としていきます。散った花弁は何処か遠くの方に飛んでいって見えなくなります。あの花弁たちも幸せになれるだろうか、と気になりました。

「改めてこの樹にお願いしとこうか?お互い幸せになれますようにって」

「もうこの樹にはしなくていいよ。何回もお願いしなくちゃ叶わないって、なんか嘘っぽいし」

「それもそうだね」

「だから君にお願いしとく、折角こうして話せてるんだし。どうか、幸せになってください」

「君の方こそ、幸せに」

 強く風が吹きます。その風はどんどん熱を孕んでいって、春の風とは呼べないものに変化していきます。桜の花弁も見る見る内に消えていき、代わりに緑の葉が茂っていきます。もうここには長くいられないんだな、と脳裏に寂しさが漂った頃、景色が夏の日に戻りました。

 一瞬にして暑い空気に包まれ、早送りにしたかの様に汗が伝っていきます。一拍遅れて蝉の鳴き声が戻ってきて、辺りには何もなかったかのように日常が流れ出しました。春は一片の余地も無く、親子連れや散歩する老夫婦などが皆暑そうに夏を楽しんでいます。太陽も燦々と照りつけて、陽炎もくっきりと道の先に揺らめいています。焼かれていく様な感覚に包まれた体も、目に入ってくる汗の塩気も、右手に持つ空のペットボトルも。何もかも元通りの、ただの夏の日であった事をしっかりと理解しました。

 自分の置かれている現状をしっかりと把握した上で隣を見ました。そこに、あなたはいませんでした。蝉の鳴き声が大きくなって、力尽きた様に泣き止みました。


 残暑も去っていき、涼しさなんて覚え出した頃。夏休みは終わり大学の講義が再開し始めました。空は日を追うごとに高くなっていく気がして、服の袖は丁寧に段階を踏みながら長くなっていき、葉も紅くなる。秋がやってきました。

 十月になってわたしもすっかり外に出ることを思い出し、大学には粗方通いながらバイト先を探していました。時給と業務の過酷さの両面に折り合いをつけていきながら、これなら文句を言わずに働いていけると目星をつけていたのは本屋のバイトでした。地元の夫婦がやっている様な本屋には今更バイトを雇う理由も暇も金も無く、全国チェーンの本屋が手頃だと思っていました。週に二回程めぼしい本屋を回っては労働環境や店の雰囲気を探ったりしています。

 わたしが大学にも通いバイト先も探し始めたことで喜んだのはI君でした。何故君なんだと今でも思うのですが、彼の親友が紹介したバイト先で活発になったかと思うと引き籠り、結果として挫折したわたしの事を彼なりに心配してくれてたのでしょう。大学で会う機会も増え、夏の様に積極的とはいかないなりにもわたしは言葉を交わす様にしていました。

 世間的に見れば引き籠りから復活した状態のわたしでしたが、心が晴れ晴れとしているという訳ではありませんでした。相も変わらず何かにつけてはあなたを思い出し、この大学生活で起こしてきたあれやこれやを思い出して沈み、読書の秋という言葉を言い訳にして書の世界に逃げ込みがちになっていました。この時期のわたしの読書量は通常の三倍程にもなっていたでしょう。おかげで財布の中身はあっという間に減っていき、より一層バイト先探しを急がなくてはなりませんでした。

 読書に没頭していたのは事実ですが、他にも趣味らしきものをやる様になっていました。花を育て始めたのです。気付かない内にわたしの部屋の花たちは全滅していたのですが、先日あなたを追いかけて桜の名所に行った時の帰りに、あの大木の下にいつの間にか咲いていた名前も知らない花を一目で気に入り、根っこごと掘り起こして空になった水のペットボトルの中に水を入れて持ち帰りました。花瓶の中には桜の樹の枝があったのでわざわざ植木鉢を買い直し、土も入れて花を植え、毎日水をやって育ててみるとどんどん愛着が湧いて、今では四つの植木鉢と一つの花瓶で草花枝を育てています。名前も知らない花以外のものは近くの公園に咲いてあったものを頂戴したので、その内枯れてしまって新しく植え替えることになりそうですが、名前も知らない花はよく分からないくらいに元気です。一生水をやらなくても枯れないのではないかと思えるのですが、もし枯れてしまったら嫌なので水は与え続けます。

 学祭やら何やら大学では騒ぎが起きていた後、わたしのバイト先も無事に決まり、仕事を覚える事に精一杯でいたらいつの間にか十一月が訪れていました。時の流れの速さをこんなに早く感じたのは人生で初めてです。心は未だにすっきりとはせず、秋の過ごし易さに感謝しながら本を開いて閉じると一ヶ月が過ぎていたのです。大学生の貴重な四十八ヶ月の一つを返せ、と怒ってみたくなりましたが、秋の所為か感傷的な気分の方が強く湧いてきました。

 さてそうなると秋はすぐに終わってしまうぞ、と気付いたわたしは紅葉狩りに行きたいと思う様になりました。始めは夏の様に誰かを連れ立ってわいわいやりながら紅葉を楽しむのも良いかもしれない、と思いましたが、海での先輩の事が瞬時に脳裏を過ぎり、誰も誘わずに一人で行く事に決めました。全く心細くなかったと言っても嘘にはなりません。

 いざ紅葉狩りに行こうと決意すると、案外移動費がかかることを知って、わざわざ京都に行って嵐山を人混みの中から眺めるくらいなら県など跨がずに近所の山に登るのでも変わらないだろうと妥協案を取り入れて山登りの決心をしました。そもそも大した理由もなく、秋だから紅葉は見なくてはならん、と思い立ったのが始まりでしたから紅葉が見れれば何処でも良かったのです。

 碌な問題もなく日々を過ごしながら準備を整え、十一月の中旬の日曜日に山登りを決めました。この頃は気持ちも負の方向に傾いていながらも落ち着いていて、ぎりぎり寒さも感じずに過ごせていた良い期間でした。ある意味安定していて落ち着いた生活を送っていた日々を、今ではなんとなく羨んでしまったりもします。

 山登りを予定していた日は朝から秋晴れが芳しく、最高のコンディションだぞ、と張り切る素振りを見せながら意気揚々を装いながら家を出ました。帰りのしんどさを考慮して山の麓までは自転車で移動し、そこから山頂まで歩いて登る事にしました。夏にはあれだけ野外音楽祭を毎日の様に昼夜気にせず開催していた蝉も、今となっては大人しく地面に転がっています。この彼らの儚さは日本の文化遺産に登録されるべきだと思います。年中騒ぎを起こす暴走族たちよりもよっぽど立派な音楽、時には騒音を奏でてくれる彼らにも救いがあるべきです。

 山登りを始めて十分程が過ぎた頃、幾つもの紅葉に囲まれた道が現れました。わたしとて何の変哲もない山を闇雲に登ろうとした訳ではありません。下宿先から自転車で行くのに無理ない距離の、そこそこ人が登る山を選んでいました。山頂には神社もあるので元気なご老人たちもよく見られます。家族連れにも手頃な山らしく、子どもが走って登っていくのをお母さんが追いかけていたり、走り疲れておんぶをせがむ子どもをお父さんが必死で担いでいくのを何度か見ました。それら全てが、この世界に点在する幸せと愛の形なのだと思いながら横を通り抜けていきました。自分は将来この幸せを得られるのだろうかと気になると、幸せになってほしいというあなたの願いを現実に叶えられない様な気がして少し足を速めました。

 秋の景色、秋の味覚、秋の空気、秋の感触、とりあえず秋。春に似た平穏さと春に味わった精神を駆け巡る嵐とは違う騒めきの様なものを感じながら山を登っていきました。これも一つの幸せの形だと納得しようとしながら、不吉な予感にも似た胸の鼓動を運動して心拍数が上がったという理由を付けながら山頂に辿り着きました。外部にはそれと見えないわたしの精神の乱戦は想像以上に体と身体に疲労を表していました。普段の運動不足を呪う様にしてベンチを探し、なるべく人が少ない空間に近いベンチに腰を下ろしました。当初予定していた達成感はいまいち感じません。息は程良く切れ切れで横腹で鈍痛が続きます。インターネットで得た情報とは違う体感に混乱しそうになりながらも、折角ここまで来たのだからとコンビニ弁当を広げ昼食にします。周囲の親子連れ、老人夫婦、カップル、外国人観光客それらと一体になったかの様に溶け込み(そう、溶け込めていました)秋を楽しみます。どうだ、独りでも充分紅葉狩りは楽しいぞ、と吹聴して回りたくなり、脳内で一人という漢字が独りに変換されている事に気付いて慌てておにぎりを頬張りました。

 食事を終えると景色も存分に楽しんでやろうという野望が湧いてきてベンチから立ち上がりました。若者らしく肉眼で見るよりも先に携帯のカメラ越しで景色を見て、阿呆のように「お〜、すげ〜」としか言わずにシャッターを切りました。次第にそれは周囲の人々という知らない誰かに向けて演じている愚行の様に思えてきたので、静かに手を下ろしベンチに戻りました。


 それからも神社を訪れたり、もう一度写真を撮ったりしながらぐずぐずと山頂に残っていたのですが、虚しさの匂いが漂い始めた気配を感じたので即座に撤退する事にしました。

 山頂にいる間は、途中から碌に顔も上げずに下ばかり見て歩いていたので他人の事をよく見ていませんでした。どの様な人がいてどの様な幸せを楽しんでいるのか、そんなものを見る気にはなれませんでした。勿論全ての人間が幸せな気分で楽しんでいたとは思いませんが、わたしよりは全員幸せだと決めつけていました。そんな訳で山を下る時は、あなたが願った幸せにはどうすればなれるのだろう、とずっと考え続けていました。山中にあるちょっとした名所や土産物屋の前をいつ通り過ぎたのかは記憶にありません。受動的に動いていく足を見て、この様に心と身体が離れて感じたのは何度目だろうと思いました。良くも悪くもその機会が多くなっていると感じていました。

 わたしの幸せなんて、美味しいものを食べながら安定した生活を送り続けるか、どんな状況でもいいのであなたと一緒にいられれば叶えられる様に思えました。前者は平凡な幸せというやつで、後者は特別な一等の幸せです。今のわたしに希望が残っているのは前者しかないと思うのですが、頑張ればそれは叶います。無事大学にも入学することが出来たのですし、贅沢を言わなければ一般企業への就職も夢じゃありません。そうして平穏に過ごしていけば安定は固い。そうなればあなたの願いにも応えられます。秋頃のわたしは精神が安定していた代わりに、微かに抱いていた野望は諦観へと変貌していました。いつの間にか心の嵐も弱く姿が見えない程になっていました。世界も色褪せていく様で、何よりも寂しい時期でもあったのかもしれません。

 そう思えばこの人生も難なく乗り越えていけそうだと思って顔を上げると、そこは四方を紅葉の群れに囲まれた広場でした。偶然なのか何なのか、その時その場所にはわたし以外の人影はなく、そこで足を止めるには充分過ぎる状況でした。これなら紅葉など狩り放題だな、と思いながら携帯のカメラを一周させてみたりしていました。

 一通り楽しむべき絶景を楽しんで、人並みな満足も得られただろうと見当を付けたので広場の真ん中に立って、最後に紅葉を眺めることにしました。その状況では当に紅の海に包まれていると言ったら適当なもので、一瞬間において脳内から思考が消え入るという隙が出来てしまったのです。つまりは感動したのです。

 秋は食欲、読書、スポーツ、様々なものが似合うと俗には言われますが、わたしは感傷の秋だとも思うのです。何かにつけては感傷を感じ黄昏て、己の精神と向き合う機会に満ち溢れています。当然それはわたしにも当てはまるので、その時のわたしにも感傷は訪れたのです。空白を抱えていた心の隙間に容赦無く感傷の風は吹き込みました。

 ああ、この景色をあなたと見られたらどんなに幸せだっただろう。つい、気やら忍耐やら何もかもの緩みの所為でそう思ってしまったのです。

 そして直後に我に返ったわたしは即座に悟りました。本当に濁りなき本心から思ったこの想い。それが示唆するのは、わたしの幸せはあなた無しでは成り立たないこと。先に考えた美味しい食事と安定した生活なんぞでは得られることはないのだ、と。

 その時のわたしには超重大で、人はいずれ死ぬという事実よりも確かに感じたのです。わたしにはあなたがいないと幸せは訪れない。しかしあなたはもうここにはいない。では、わたしには幸せは訪れない。あなたの願いは叶うことはない。全てが順を追ってわたしの元に明示された決定事項でした。この日、この瞬間から、わたしは長い期間泥濘の中に落ち込んでいき、ゆっくりと精神の死の世界を彷徨っていくことになったのです。

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