第4話

 予約していた旅館は安さを求めたと言う割には立派なもので、海水浴による疲れなど意にも介さないかの様に皆燥いでいました。男女別で一部屋ずつ用意されており、造りが同じそれぞれの部屋は三人で寝るには充分な広さがありました。女性陣と別れて部屋に行くと、わたし達は各々荷物を投げ捨てくつろぎます。男子先輩は窓からの景色を興味深そうに眺め、男子同期はテレビのリモコンを操作しアダルトチャンネルの番組欄の文字を熱心に読んでいました。わたしは机の上に置いてあったサービスのお茶と干し梅を食べながら脳を休ませていました。この後は温泉に入り美味しい夕飯を食べて、一つの部屋に集まってトランプでもしながら夜更かしでもするものなのだろうか、修学旅行みたいだとのんびり思案しながらお茶を啜っていました。

 そうして数十分が経った頃、男子先輩の元に電話が掛かり、男女とも入浴を済ませたら館内のレストランに何時までに集合という連絡が入りました。こんな和風の純旅館みたいな所にもレストランがあるのか和洋折衷とは粋だな、とおじいちゃんの様な感想を抱きながら温泉へ足を運びました。温泉はこれまたいかにもといった感じの大浴場で、竹の壁一枚で男湯と女湯が仕切られている露天風呂では男子先輩と男子同期がセクハラ紛いの言葉で女性陣と会話をしていました。わたしは、他のお客さんにも丸聞こえなのによくこんな会話を出来るものだ、と少しはらはらしながら聴くしか出来ません。これが大学生かと思うとわたしには到底及びそうもない領域を目の当たりにしました。温泉から上がっても、二人は誰それの身体はきっとこんなだ、といった具合の卑猥な会話を続けるので、わたしも黙っていては付いていけないぞと当たり障りのない感想を述べてみると、男子同期は分かってないなお前と言って彼の女性の身体に対する哲学を熱弁してくれました。これが昨今の大学生男子の実態なのかと思うと少し不安になる程の熱弁振りです。あなたと共にいられた時にこのような話を聞いたらならば、思わず彼を殴ってしまいそうだなと思いながら聞き流していました。あなたがこの様な卑猥な目線で見られていたりするのかもしれないと思うと我慢は出来ないでしょう。世の中にはどうしても好きになれない人間が全ての人に存在する筈だと思うのですが、彼はわたしにとってその類の存在であるのだと、その時は信じながら話を聞き流していました。

 わたし達男性陣が支度を済ませレストランに着いてから十五分程遅れて女性陣がやってきました。女の子には色々とやる事があるんだからと三位一体の強論で男性陣の文句はねじ伏せられ、大人しくレストランのバイキング形式の料理を選ぶことにしました。全員が一旦は料理を選び終わったところでジュースによる乾杯が行われ(何に対しての乾杯なのかは分かりません)、今日の思い出やお互いの身の上話で盛り上げながら食事を楽しみます。朝、出発してきて以来ずっと抱いてる、こんな元気何処から出てくるんだ、という感想はますます確かなものになっていきます。嘘の様にそれぞれ笑っていて、本当の嘘を交えながら笑っている自分と実は変わらないのではないかと疑いたくなる程です。

 夕食も終わりに近づいてきた頃、この後は一つの部屋に集まって呑もうかという話が持ち上がりました。皆で一つの部屋に集まって騒ぐというのはわたしの予想通りでしたが、呑むことになるとは思っていませんでした。確かによく考えればわたし達は全員二十歳を越えていますし、大学生が集まれば呑もうという話になるのは普通のことです。わたしは二十歳の誕生日を迎えた日に缶ビールを一本呑んだ経験しか無かったので、他人とお酒を呑むという発想自体浮かびませんでした。これがわたしと彼等の差なのかとことさらに痛感しました。

 持ち上がった話は、集まる場所は女子の部屋、先輩達三人が酒を買いに行くということで落ち着きました。これだけ遊んで食べて騒いだのに今からまだ騒ぐ気かと思うと途方に暮れそうになり、この後呑んで明日も泳いで明後日も泳ぐのかと思うと気が遠くなります。大学生という生き物は膨大なエネルギーの集合体なのかもしれません。最近まで碌に大学生とも名乗れなかったわたしには未知の領域でした。

 女子の部屋に同期の二人と移動し、同期女子の程良く日焼けした二の腕を見せてもらったりしながらしばらくすると先輩達が戻ってきました。三人の両手にはコンビニのビニール袋が下げられています。合計金額はいくらになるんだと不安になる程に大量の酒が購入されており、わたしは今日、酒の飲み過ぎで倒れて病院に運ばれてしまうのではないかと非常に心配になりました。一回しか呑んだことが無かったので自分が酒に強いのか弱いのか分からないのです。居酒屋で働いている以上、先輩や同期達は勿論呑めるものだと思い込んでいる様ですが実態は不明なのでした。

 わたしが大量の酒を見てどきどきしている間に皆は準備を進めていました。持参したおつまみを取り出したり座布団を並べたり、最初に飲む酒以外は冷蔵庫に入れて冷やしていました。バイトではお客に出すだけの酒をこんなにもぞんざいに扱って良いものかなんて無意味な心配をする事で気を紛らわそうとしましたが、その内我慢ならなくなってしまったわたしは先輩に「僕、お酒飲まないんですけど」と助け舟を求めてみたのですが、先輩は「そんな事言わないで今日は呑もうよー」と陽気に受け流します。あっさり座布団に座らされたわたしは右手に缶ビールを一本持たされ、男子先輩の音頭により乾杯が行われ、皆は一斉に缶ビールに口をつけ、わたしは先輩の方を向き、彼女は励ます様に笑って、そしてわたしは覚悟を決めて缶ビールに口をつけたのです。


 テレビの中のお笑い芸人がボケて、相方のツッコミが入るよりも先に面白いツッコミを入れるというゲームが行われていました。上手なツッコミが入れられなかったり、相方に先にツッコミを入れられてしまった人はグラスに注がれた酒を飲むのです。わたしは主に後者になりがちで、何か言葉を発する前に漫才は進んでいました。その度に酒を飲まされるのですが、ここまで酔っているともう何杯呑んでも変わらない気がしてきます。そのゲームはツッコミと盛り上げることが上手だった四人で主に回っていき、わたしと先輩は自然と輪の中から外れていきました。

「普通に呑めるじゃん。今何杯くらい呑んだ?」

「もうぜんっぜん覚えてないっすよ。てかこのゲームむず過ぎっすよ」

「完全に出来上がってるね。強くもないけど弱くもないって感じだね」

「何がっすかあ?」

「お酒」

 はいはい、と頷きながら酎ハイを一口飲みました。この時点では、自分はお酒に強くも弱くもないという事が分かったので、この日の吞みを良しとしていました。先輩と至近距離で二人きりで話していても何も感じませんでしたし、細かいことを考えなくて済んだので気を楽にしてその場に順応していました。先輩もわたしも頬を赤らめています。それはお酒の所為です。

 ああー、という大きな溜息が聴こえたのでそちらの方を向くと、どうやらテレビでお笑い番組が終わったらしく、それまで騒いでいた四人は電池が切れたかの様に大人しくなりました。それぞれが自分の携帯を弄り始めて静寂が定着してしまいそうになった時、男子先輩が同期女子を誘っておつまみの追加を買いに行きました。わたしの目にはおつまみは充分な程ある様に見えたのですが、この程度の量は健全な大学生が呑むには少ないのだろうと判断しました。わたしは自分が呑みなれていないので、不思議に思う事全てを自分が知らない世界があるのだといって納得させていました。

 二人を見送り、しばらく経つと先輩女子が同期男子を誘い酔いを冷ましに行きたいと言い出だしました。そんなの一人で外に出るなりすれば良いのではないかとも思いましたがここは呑みの席、わたしが知らないマナーでもあるのかと二人を見送りました。

 さて、そうなると部屋にはわたしと先輩二人きりです。わたしにはどういう対応をすれば良いのか分からず先輩に顔を向けると、彼女は艶やかな微笑を浮かべました。その顔の若い魅力に満たされた表情を見ると、せっかく酔いで抑えつけられてていた激しくなる動悸を抑えられなくなりました。

「なんか、誰もいなくなりましたね」

「ふふ、そうだね。私たち二人きりだよ。どきどきする?」

「いえ、全然」

「本当に?」

 そういうと先輩は急にわたしの横腹の辺りに手を置きました。わたしは瞬間的に驚いて、身体を大きく仰け反らせました。体を触る事への同意などありません。部屋には、皆が騒いだ所為で散らばった座布団や女性陣の鞄や着替えが散らばっています。わたしは不意に酔いが覚めた様な感覚に襲われて、女性物の下着やビールの空き缶が散らばっている状況のおかしさに気が付きました。先輩はもう一度、わたしと目を合わせる事を意識している顔でゆっくりと、右手をわたしの横腹辺りに乗せました。人肌などめっきり触れていなかったわたしには、女性の柔らかな手の感触が異様に感じ取られます。わたしは急に慌てふためき、横腹あたりに置かれた先輩の手を掴みました。

「ちょっ、なんすか、先輩」

「ねえ、君がさっき考えてた事当ててあげようか」

「え?」

「酔いを覚ますのに後輩の男の子を連れて行くなんておかしい様な気がするけど、自分はろくに酒も飲んだ事がない。ここではそういうマナーなんだ、って感じで自分を納得させたでしょ」

「ええ?」

 わたしは先輩が、わたしの考えていたことを寸分違わず言い当てた事に驚きを隠せませんでした。今考えると、おそらく先輩が言った事はもっと違う何かで、酔っていたわたしは緊張も相まって自分の考えを的確に当てられてしまった感覚に陥っただけなのでしょう。つまり聞き間違え、幻聴のようなものです。

「そんなことない、ですよ」

「あっ、図星だ。ねえ、分からないなら私が教えてあげようか。あの四人は別の目的があって出て行ったんだよ。マナーとかじゃないの。ここまで言えば分かる?」

「えっと、ええ……。まさかですけど……」

「多分そのまさかで合ってるよ。実はね、私たちさっきお酒の買い出しに行ってた時さあ、それぞれ狙ってる後輩ちゃんの事を話してたの。あの人はあの娘で、あの娘はあの子。そして私は君」

 様々な衝撃が胸に走りました。それは微弱ながらも雷の様で、雷の枝分かれした部分が全部直撃したかの様で、恋とはかけ離れていながらも何処か似ているような痺れでした。

「多分それぞれどっかで今頃楽しんでると思うよ…。ねえ、私たちも楽しもうよ」

 先輩に横腹を触られた事で少し酔いが冷めていたわたしは、これは待ち望んでた機会なのではないかと思いました。女性と関係を持って精神的にも一歩進んで、そう、あなたを忘れる為に他の人に恋する機会。目の前にいる先輩が説いてくれた哲学が現実となる機会。今まで非現実的だと思い込んでいた事が現実になって目の前に現れていくような感覚を覚えました。

「いや、あの、先輩はお付き合いされてる人がいるんじゃなかったんですか」

「ちょっと、今はそんなつれないこと言わないでよ。雰囲気も作ってからじゃなきゃ嫌なの」

 おもちゃを買って貰う時の子どもの様にどきどきしていました。これでようやくわたしはあなたを忘れる事が出来る。先輩の哲学、好きだった人を忘れるには他の人を好きになれ。それを説いてくれた人によってわたしの道は新しく開ける。手引きは他人がやってくれる。身を委ねればわたしは救われる。きっと救われる。いや、確実に変われる。わたしを救ってくれる方へと導いてくれる。導いて、くれる。

 先輩はわたしの返事など待つこともなく、横腹に置いてあった手をゆっくりと下に、そして体の中央に降ろしていきます。指の動きは艶かしく、わたしの体は無意識の反応を見せます。男の体が我慢を忘れ、わたしの心も覚悟を決めて、先輩の体に向けて右手を伸ばしました。

 その時、目の前に火花の様な光が散った気がして、次にわたしが我に返った時には、わたしの右手が先輩の右手を払い除けた後でした。偶然当たってしまったなんて言い訳は出来ないように、しっかりとした意志を持って払い除けていました。そのくせわたしは驚いていました。自分の体が何故こんな動きをしたのか、という疑問が脳内を巡るばかりで身動きが取れませんでした。しかしそんなわたしより驚いた顔をしたのは先輩です。まさかわたしが行為に及ぶ事を断るとは思っていなかった様子で、払い除けられた手の置き場所がないと主張する様に右手を宙に浮かべていました。わたしだって驚きに支配されていたので、そんな事をされてもどうすれば良いか分かりませんでした。

 お互いが状況を理解し、今後の言動を探る為の幾許かの沈黙が過ぎ去ると、先輩の方が口を開きました。

「えっと、どうしたの?」

「いや、あの、その、よく分かりません」

「分からないって何がよ。君、たった今自分で私の手を払ったんでしょ?」

「そうですけど、いやそうじゃない。合ってますけど、何か違う気がするんです。いやそうじゃないな。どうしたってこんなことを。ああ違うんです。ええっと、くそっ。ますます辛くなるじゃないか…」

 どんどん声は小さくなっていき、終いには発する声は言葉を含まず、脳内でだけ言い訳が流れ続けていました。

「え、ちょっと何言ってるか分からないけど、その、私とはしたくないってこと?」

 その問いに対して、わたしはすぐに答えることが出来ませんでした。先輩とこのまま肉体関係を持てば気持ちも変わって楽になるだろうからすればいい、あなたの事を忘れる為に必要な行為であるはずだからしたいのではないか。わたしもどうせ卑猥な会話をしていた彼等と同族なんだ。しかし何故か体は拒んだ。脳で判断せず脊椎反射が遮った。思考に至るよりもっと精神的に深い部分が判断したのだ。それが真実なのではないか?わたしの本性が動いたのではないか?このような具合の事を先輩に返事もせずに考えました。時間にすると約五秒程。俯いていた顔を先輩に覗き込まれて、とにかく何か言わなくてはと思ったわたしの口は「…はい」とだけ言いました。

 先輩はその返事を聞いて、とにかく何か文句を言おうとした様で滅茶苦茶に口を動かしていましたが、何と言えば良いのか分からなかったらしく口を閉じて俯きました。はだけていた浴衣の肩の辺りを直しています。今まで感じたことの無かった気まずさが支配する空気の中で時間だけが流れていきました。わたしは必死に掛けるべき言葉を探して、しかし頭の中は混乱と動揺で言語など忘れてしまい、自分は掛けるべき言葉を探している振りをしているだけではないのかと思った時、先輩が小さな声を出しました。

「…ごめんね」

 その声は確かに小さかったのですが、心に直接届いたとでも言うべきなのか妙にはっきりと聴こえました。そして大きな意味を持って脳裏に焼き付きました。今でもまざまざとその声が思い出せます。声質や微かな抑揚まで、その全てが。

「あ、か、帰ります」

 そう言ってわたしは急いで立ち上がり、すいませんでした、と謝るかどうか悩んで、先輩を見た後謝まらない事に決めて部屋を出て行きました。


 次の日の正午、わたしは鈍行に乗っていました。席の窓際に座り景色を眺めます。昨日泳いだ海が線路沿いに見え、先輩と一緒に作った砂の巨城はどうなっただろうかと想いを馳せていました。

 昨日(と言っても日付は変わっていたので厳密に言えば今日なのですが)、先輩と別れたわたしは男子部屋に戻ろうとしたのですが、部屋のドアを開けると女子先輩と男子同期の靴があり、部屋の中から女性の大きな声が聴こえてきたので急いでドアを閉めて旅館の外に出ました。旅館の中には戻れなくなってしまったので困りつつも足は自然と海の方へ向き、誰もいない砂浜を見ながら夜を明かしました。途中でコンビニに寄ったりしながら、季節が夏で本当に良かったと思いながら朝日を拝んだのです。冬だったら凍え死んでいたでしょう。すっかり酔いが冷めていたので缶ビールを二本買ってどうにか酔おうとしましたが駄目でした。こんな状況になってしまった以上は呑んでないとやってられないなんて思いましたが、海岸からコンビニまで往復で一時間強あったので、やってられないと言う程でもありませんでした。その時は自分の身に起こった出来事を現実のものとして認識するのに時間が掛かってほとんど放心状態だったので、寧ろ今日の方が呑まないとやってられないくらいです。

 外で耐えて夜を明かしたわたしは、海岸に遊泳客がやって来たのを確認すると旅館に戻りました。一応男子先輩に連絡してから戻ろうと思い電話すると、わたしは先輩によって「具合が悪くなって外に吐きに行った」と説明されていたらしく、「具合が悪化した様なので申し訳ないが帰らせてほしい」と頼んで一人帰ることにしました。誰も昨日の夜の事などを訪ねる様な野暮な真似はしなかったので、最寄りの駅まで送ってもらい帰ることが出来たのです。先輩も普段通りの振る舞いを見せ、わたしはその態度に応じる事で誰にも怪しまれることはありませんでした。

 鈍行は長いトンネルに突入し、外に見えていた海は暗闇と変わりわたしは窓から目を背けました。昨日の自分はどうしてしまったのかという考えがずっと頭を巡っている頃でした。あなたの事を忘れないと、このままでは自分が精神的に危ないという事は重々承知だった筈です。居酒屋のバイトに入ったのも、周りに性格を合わせて明るくなった様に振る舞ったのも、海に行くという誘いに乗ったのも、先輩と必要以上に近づいたのも、全てがあなたを忘れる為、他に人を好きになる為だった筈です。たった一春の間に、それが全てであるかの様に攫っていったあなたを忘れるには、先輩の哲学通りに他の人を好きになるしか方法は無いと信じたのに何故こうなってしまったのか。先輩の手を払い除ける直前までは覚悟もあって、行為に対する期待と快楽も感じていたのは確かです。手が動いてしまった理由を探すと、結局のところ無意識しか原因は見つからないのです。全責任を無意識に押し付けたくなるのですが、無意識とはわたし自身の事です。全てを自分の不甲斐なさの所為にするしかなくなってしまいます。何処までいっても自分には勇気を出せないのか、あなたを真の意味で失ってしまう事に抵抗を続けてしまうのか。哀しさと悔しさと少しの安堵と、漠然とした恐ろしさが胸の内に広まっていくのを感じました。

 不意に窓の方が明るくなり、長いトンネルを抜けた景色に海は映っていませんでした。山に突入した事が分かる様に木々が並んでいて、最早わたしの夏休みは過ぎ去ってしまったのかもしれないと思ってみたりしました。昨日一日遊んで呑んで、その上寝てないのだから眠くなっても良い筈でした。何せ鈍行に揺られているのですから、疲れていなくても眠くなるのが相場で決まっています。それでもわたしの心は暗く澱んで沈みゆき、睡眠による安定を得るのは難しい動悸の様相を呈していました。

 眠れないついでによく考えると、先輩が先輩の哲学に従順に生きていると仮定した場合、彼女は恋を麻薬として味わっていかないとおかしい筈です。もしお付き合いしている男性がいるのなら恋は充分足りていると思われます。だったらどうして自分なんぞに肉体関係を求めてきたのか。彼女が誰でもいいからそういう行為がしたいという人間であるのなら話は別ですが、恋を麻薬に例えるくらい愛し愛される事を求めている乙女がそのような想いを抱いてるとは考え難い。いや、考えたくありませんでした。であるとすればどうしてしまったのか。誰ともお付き合いされていなかったのなら話は明確になります。常に恋を求めて生きている人にとって恋愛関係にある人間がいない状態。その状態の人が肉体関係を求める相手とは、それすなわち恋愛関係も同時に求めている可能性もあります。少々の希望が入り混じった愚見の様に感じますが、実際に先輩と接したわたしにはそのようにしか考えられませんでした。二十年程の人生でわたしを想ってくれた女性はあなただけでしたが、もしかしたら先輩も可能性はあったのではないかとも思いました。そうでない可能性の方が高いということも理解していました。

 もし想ってくれていたならわたしは先輩を拒否してしまった事になりますし、想ってくれていなくてもやはり拒否した事に変わりはない気もします。他人を否定・拒否する事はされる側もする側も昏い感情を抱きがちです。殊更わたしはそうでした。現在、過去、未来全ての自分という存在が駄目だと言われてしまった様な錯覚に陥るのです。それでも普段なら気にし過ぎず、一晩でも寝れば忘れてしまえる様な感情なのですが、今回はそうもいかなさそうでした。鈍行を乗り継ぎ二時間程で下宿先の自分の部屋に着いた時には、人でも殺したかの様な表情をしていました。鏡など見なくても分かります。罪悪と屈辱、後悔や絶望などが入り混じった感情がどす黒く渦巻いている気分で、花瓶に挿してあった桜の樹の枝の元気のなさに深い共感を覚えました。カーテンを閉め布団に潜り込み、今更の様に襲ってきた睡魔を利用して、全てを忘れられればいいだなんて感覚で眠りに落ちました。具合が悪くなって帰るというのは帰る為の口実だと思っていましたが、そうでもなさそうだと思いながら意識が遠退きました。


 それから一週間後、わたしはI君を呼び出して呑みに誘いました。彼から呑みに誘われる事はあってもわたしから誘った事は無く、彼に誘われた呑みも断っていたものでしたから、わたしが彼を呑みに誘うという予想外の出来事に彼は驚きを隠せないでいました。余りに予想外過ぎたと見えて、わたしに熱があるのではなかと疑われた程でした。

 彼の行きつけである店を紹介してもらい、飲み放題で好きな料理を適宜頼んでいくという形式で食事を進める事にしました。とりあえずと頼んだ生ビールを一口で半分飲み干したI君は、白い泡を口の右横に付けたまま口を開きました。

「で、どうしたんだ今日は。お前が急に呑もうって言い出すなんて、本当にびびったよ。失恋でもしたか」

「いや、失恋と言うには、何か違う気がする」

「じゃあ何だよ」

「分からん。もしかしたら失恋かもしれぬ」

 I君はわたしの言っている事の意味を解さない様子で生ビールに口を付けました。正直なところ、わたしにも彼を誘った理由はよく分かっていなかったのです。海から帰って来たあの日から、わたしはほとんど自分の部屋を出ない様に生活し、外に出たのは食事の買い出しに一度だけ近くのスーパーに行ったのとバイトに二度行ったというくらいなものでした。部屋の中では特に何をするでもなく、寝るか飯を食うか本を読むかトイレに行くか風呂に入るか。偶に歯磨きをしたり洗濯物を干したりするくらいで、およそ男子大学生の生活とは思えない程消極的なものでした。一日だけならそんな生活も悪くはないのですが、一週間も続くと流石に考えものです。

 ジョッキに注がれた生ビールに口を付けて、ようやく半分飲み干したと思った時には、I君は既におかわりを飲み始めていました。

「なんだかよく分からんけど呑みたくなる時ってあるよな。別にそういう事なら俺も気にせずに呑むけど、みんな結構心配してたんだぜ。せっかく最近明るくなってたお前がまた根暗野郎に逆戻りしたって。この前バイト先の人達と海に行ったらしいけど、そこで何かあった?」

「ん。まあ色々あったけどそれは別に気にしてないんだ。今日は本当に何となく呑みたいって思っただけなんだよ。気にせず楽しく呑もうぜ」

 勿論その言葉は嘘ばかりなのですが、彼に先輩との事を相談しようなんて腹づもりは毛頭ありませんでした。誰かに話すべき事ではないと思っていましたし、I君と言えどもわたしの内面の深いところまでは入り込んでほしくないと常々思っていたからでした。最近碌に外にも出ていないという状態を危惧し、何か気晴らしにでもなる事をすべきだという考えに駆られて呑みに行くことを提案したにすぎません。

 わたし達は焼き鳥や卵焼きなどを注文して食べていました。酒もどんどん飲みます。久しぶりのちゃんとした料理を味わいながら雑談が盛り上がります。わたしは口数少ない人間ですが、I君と話すときは比較的饒舌になります。更にその時は酒の力も相まって普段の三倍の口数と声の大きさで会話が進んでいきました。饒舌になりながらも余計な事を口に出してしまわないように気を付け、気付けば呑み始めてから三時間が過ぎようとしていました。飲み放題終了と同時にわたし達は席を立ち、各々の下宿先のある大学方面へと歩き始めました。

「なあ、海に行った時に色々あったけど気にしてないって言ってたけどさ、本当にそれは気にしてないのか?てか、気にしなくていいのか?」

 ゆっくり喋りながら歩き、大学の前まで来た時にI君はそう言いました。大学からわたしは右、彼は左に下宿先があったので別れの言葉を交わした直後です。「よく分かんないけどさ、よく考えろよ」と、そう言って彼は手を振りながら下宿先へと消えていきました。

 先輩の事を、気にしているかなんて訊かれても何とも思いません。先程I君には嘘を言いましたし、呑んで程よく嫌な事を忘れかけていたわたしには先輩の事など気に掛けていない状態でした。だからこそ「それでいいのか」という問い掛けには心を揺さぶられました。わたしは今日、何故彼を呑みに誘ったのか。先輩の事やあなたの事、そういった魂にしがみ付いてくるものを一時でもいいから忘れたかった。それが理由だとすると納得出来ます。春に唆されて胸に抱えた雷の様な痺れと嵐の様な騒ぎを、逃避という手段を持って忘れてしまいたいと思ってしまっていた事に気が付きました。先輩のみならず、よもやあなたまで忘れてしまいたいと本心が考えていた事に絶望を感じます。あれ程の幸福であったものが今わたしの心を窮屈にしていく。あなたをその様な存在に貶めてしまった自分が情けなく愚かしく思えて仕方がなくなりました。

 辛い時は逃げてもいいと言って(その事自体は悪いとは思いません)、大事な事を見失ってしまうのを良しとしていた己を許せませんでした。どんどんちっぽけな存在になっていく様な心象に捕われ、どちらに足を踏み出せば良いのかも上手く分からないままに歩き始めました。この春の恋は確かで愛となった筈なのに、それでも見たくなくなって目を覆ってしまう自分の態度に何をすれば良いのか分かりません。朧げな足取りも宙に浮いていきそうな脳髄も、地面を這いたくなって我慢が出来なくなる衝動を抑え、電柱の陰に一度吐き、夜でも鳴く蝉の必死さに恥ずかしくなって走りました。こんなくだらない肉塊が悠然と闊歩しているのを許される世界に嫌気がさしてきました。こんなことならあなたを知らなければ良かったと思い、そんな感情も搔き消す程のあなたの存在感を確かめて、「それなら何故逃げた」と怖い声が問い質します。自分だけでは飽き足らず、他人まで傷付けてしまった今となっては取り返しがつかないものとなってしまったわたしの世界に涙が溢れてきました。涙を拭って気が付くとそこは下宿先のわたしの部屋の前で、小さな内面へと向かう世界に逃げ出せるという希望を抱えてドアを開きました。ベッドの横の空間には口づけを交わしたあなたの空気が残っているのが見えて、このままでは耐えられないと思い桜の樹の枝を挿してあった花瓶の水を全部捨てました。これでもう蘇る事のない春。わたしの部屋には残されなかった春を信じて、ベッドの上に倒れ込みました。


 わたしはバイトを辞めました。再び部屋という世界に閉じ籠った次の日のことです。これ以上己を傷付けない様にするには、精神的には勿論のこと、物理的な断絶も必要だと考えていました。外の世界に目を塞ぎ、読書によって得られる空想神秘の世界とわたしの内面に抱えた永遠のあなただけで充分に時は廻る。欲を出した時は食やその他快楽を行える部分で行い、睡眠の魅力に自ずから引き摺り込まれていくのを楽しみました。妄想や空想で部屋を満たし、あなたから逃げたという罪を抱えてまた眠りました。

 一通り眠ってから睡眠に飽きがきた頃、一体今は何時なのだろうと気になって壁掛け時計に目をやると午後一時。閉め切ったカーテンが完全に遮光しているわたしの部屋は常に暗く、夜を信じきっていたわたしは不意を突かれました。実は時計が壊れているだけで外は真っ暗なのであろうと疑い、恐る恐るカーテンを開けてみようと手を掛けると、僅かにずれて出来たカーテンの隙間から強烈な日光が射し込みました。わたしは吸血鬼がやられたかの様に顔を手で覆いました。「ぐううっ」と叫び声まで上げて苦しみます。ここまで苦しむのはおかしいと思い、わたしが惰眠を一生分貪っていた間に何日と何時間経ったのかを計算すると、どうやら五日と十時間が過ぎていた事が判明しました。バイトと先輩に別れを告げたあの日からです。よく寝たなという感想を通り越してよくこんなにも寝られたなあと呆れました。その間様々な夢を見ていた気もするのですが、一つとして覚えていないので段々夢を見たという自信が無くなっていきます。そうなると最早死人も同然の、とは言え動いたり食欲は湧いたりしていたのでゾンビも同然の生活をしていたものだと思うと少し悲しくなりました。

 来るべきゾンビ化を避けるべく外に出てみるのもいいだろうと身体を起こそうとしましたが右足が上手く動かせませんでした。これだけ籠っていても何度かトイレに行ったり飯を食ったりはしたので身体は動いてしかるべきでしたが、察するに最後に寝た時から一日以上が経過していると見えて身体が思う様に動かないのでした。痺れを悠に通り過ぎて麻痺した右足を、感覚がないのをいいことに叩きまくって動かそうとしました。それでも碌な反応を見せないので、左足と両手を駆使して何とか起き上がり、猛烈な尿意を解放すべくトイレへと身を投げました。

 病人の態でトイレから出てきたわたしは、ようやく動かせる様になってきた右足を踏ん張って外を眺めました。遠くの方に陽炎が見えて暑そうな空気が外にはあるのかと思うと、クーラーを好きなだけ点けてひんやりとした空気のこの部屋はいかにも別世界であることを深々と意識します。近くに見える公園で子ども達が汗だくになりながらも遊ぶ姿を見ると、どうにも夏が恋しく思えてきました。あなたの存在の有無に関わらず平和な夏の姿を思い出してきて、外に出ていくのもいいだろうと再び考えましたがその意欲は湧きませんでした。外界を完全に締め出してやろうとした鬱々な気持ちはある程度落ち着いていました。しかしそれでも前向きな気分には到底及んでなかったのです。ここは静かで寂しいけど、外は煩すぎて余計寂しいわと思ってしまいました。「あなたがいたのならそれもまた別なのだろう」と小さく口に出してみて、立っている気力も失ってしまったのでベットに転がりました。寒気すら感じてきたのでクーラーを切り、近くの公園の方から聴こえてやまない蝉の大合唱を静かに聴きながら、また、目を閉じました。

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