第3話
雨、梅雨。季節は春の余韻など微塵も残してはくれませんでした。桜が散ったかと思うとすぐに梅雨に入りました。これが近年お騒がせの異常気象というやつだな、とのんびり思いながら大学図書館の窓から外を眺めていたのです。
春の余韻は一切、本当に一つ残らず消し去られていました。連日降り続く雨。朝から晩まで陰鬱をもたらし続けるそれには余念がありませんでした。登下校や洗濯物、衣替えなどわたし達の生活を忙しくさせるばかりで、肌寒い空気に冷え冷えとしたわたしの二の腕を見ているとあなたの事を思い出すなと言われているような気分になりました。
外は昼間とは思えない暗さです。一度部屋の中に入ってしまえばもう当分外に出たくない、とこれでもかという程に感じさせられます。夏はまだか、と思わず口に出してしまいそうになった事をよく覚えています。どうせ夏になれば暑過ぎると言って後悔するのですが、このジメジメした季節には早々におさらばしたかったのです。
わたしはあの日からあなたの姿を見ていませんでした。大学で一番大きな桜の樹から、全ての花弁が散ったあの日です。あの日、春にさよならを告げたということは充分に述べたので、今更あなたの姿を見ていないというのは野暮かもしれないのですが、やはりわたしにはいつまで経っても現実感など得られることもなくあなたの姿を見ないという感想も抱いてしまったのです。分かりきっていることを何度も初めての様に感じるのは、少しばかり精神的なおかしさが垣間見えます。普段から不安定なわたしの心が最も不安定で、絶えず虚無感を感じる様になった時期の始まりでした。
いつまでも外を眺めていても何か起こるわけでもない、と小一時間ほど図書館に籠ったわたしは結論を出しました。手の中の小説も、ここに来てから二ページ程しか読めていない。十分後には授業が控えていましたが、わたしはどうにも一人になりたくなったので大学を後にしました。長年使っている傘をさしても雨は横殴りで服はびしょ濡れ。靴は八割型浸水しきっていて、その時になってようやくわたしは台風が近づいてきている事を知りました。友人たちは三日前から知っていた様です。テレビや携帯で簡単に得られた情報の筈でしたが、わたしには微塵の興味も無かったことなので気が付かなかったのです。気にする余裕もありませんでした。とにかくパソコンだけは濡らしてはいけない、と無意識に煩悩が働いたので、鞄を抱く様にして帰路を急ぎました。
なんとかパソコンを濡らさずに下宿先に帰り着くと、とりあえず全ての持ち物を投げ捨てシャワーを浴びました。髪を掻きむしるでもなく身体を擦るでもなく、ただただじっと流れ出るお湯を浴びて立ち尽くし、満足いくまで風呂場の角を見つめていました。結果として、満足いく前にガス代がとんでもない事になるだろうと判断した時にようやくお湯を止めることができました。
風呂場を出ると窓辺には桜の樹の枝が一本飾ってありました。あの日の最後まで残っていた花弁が付いていた枝を折って花瓶に浸けておいたのです。勿論花は咲いていません。他人が見たらただの枝です。しかも、もう花を咲かすことのないだろう枝。そんなものが当時のわたしの宝物であったことは隠すつもりはありません。
風呂上がりのわたしは服も着ずに、バスタオルだけをその身に巻いて枝を眺めました。花弁が散って葉を付ける前にわたしに折り取られた枝は生命としての活動を停止しています。一応形だけでもと水を入れた花瓶に挿してはいますが、あれ程鮮やかな桜を生やしていた枝は、まるでわたしに殺されたのだと主張するかの様に黙しています。一切の動的な気配を沈め項垂れています。背後の窓に映った降りしきる雨の景色は、あれ程に眩しかった春と桜の死を嘆くかの様で、そしてわたしがその原因であると罵る様で嫌になりました。乱暴にカーテンを閉めます。雨が地面を叩く音が僅かに小さくなった様に感じました。
遮光され(元から日光などほとんど意味を成していませんでしたが)暗くなった部屋で枝は静かに佇んでいます。本だらけという少し無機質な部屋で、唯一生を持っていた枝が仄かに光を放っている様に見えました。死んだ筈の桜の樹の枝。わたしの弱い心が縋る所為なのか、まさか本当に光っているとでも言うのか、真実は分かりませんでしたがとても特別な物に思えてきたのです。あなたがそこに宿っていると言う表現は間違いであるのは分かりきっているのですが、そう表現するのが一番近い様な気がして、より近い表現はもう見つからない様な気がしました。薄ぼんやりとしか周囲が見えない部屋でわたしは、梅雨の肌寒さを全身に味あわせながら枝を眺めていました。
数日後、まだ雨も降り止まない内にわたしは風邪を引きました。先日の裸で枝を眺めていたことが原因なのは火を見るより明らかでしたが、友人のI君が看病に来てくれて「季節の変わり目だからなあ」としきりに呟いていました。その見解を否定するつもりも修正するつもりもありませんでしたが、この風邪にはあなたが関わっているのだということは覆したくありませんでした。あなたが運んで来た風邪だと思えばどうにか耐えられそうだったのです。そのためI君に頼んで、枝が入った花瓶の水は何度も変えてもらいました。自分では花瓶の水も変えることが出来ないくらいの高熱、咳、吐き気、その他諸々で辛かったのですが、枝の心配はしていたのでした。自分の心配をしろ、とI君に何度も叱られました。
風邪を引いて四日目の夜。その日は一番熱が高くなった日でした。意識は朦朧としていて水すらも喉を通らない体調の中、意識を失う様にして眠りに就いたわたしは夢を見ました。ただし夢の中でも意識は朦朧としていて、何が何やら全く判別がつきませんでした。桜の様な桃色の空に包まれていると感じましたし、煙草の吸殻のような灰色の海に溺れているとも思えました。はっきりしているのは、あなたの姿が何度か見えた事のみです。その夢の中であなたを見る度にあなたは声を掛けてくれます。目が覚めた直後からあなたの言っていたことは分からなくなってしまったのですが、わたしはあなたのおかげで元気を取り戻すことが出来たのだと思っています。その日のその夢を境に、少しずつわたしの体調は良くなっていきました。普通に食事が出来る様になり、外にも出て行ける様になった頃には雨も疎らになっていました。
それから、わたしの風邪が完治するまでには二週間かかったのですが、それに合わせるかの如く梅雨が終わりました。いつの間にか六月も中旬となっていて、夏が顔を出しました。長く患った風邪が治り雨も止んだ快晴の日に外へ出かけたりなんかすると、普通なら気持ちの良いものなのでしょうが、夏の暑さが始まったことが余りにも嫌でわたしの心は浮かばれないのでした。惰性に引っ張られる様にして大学へ足を運びましたが、授業には一向に集中できず、休んでいた分の勉強もやる気にはなれませんでした。元々意欲のない学生でしたが、熱と大雨が僅かなやる気を奪い去っていってしまったのだと思う様になりました。
二、三日大学へ行くとすっかり講義中の居眠りにも飽きてしまって、すぐに講義を抜け出す様になりました。何処へと行くあてもなくふらついていましたが誰も咎める者もおらず、日に日に暑さを増していく気候の中ではサボりさえ積極的になれなかったのです。道路のアスファルトは焦げていくばかりで、梅雨に入る前まではそこら中に散乱していた桜の花弁は雨が全て流していってしまったようです。道は何処も夏色でした。
暑さに耐えかねて何処かで涼もうと顔を上げた時、この三ヶ月程ですっかり見慣れた景色が目に入って、あなたとよく歩いた道を自然となぞっていた事を思い知らされました。気付いたわたしは何だか惨めに感ぜられて、このままでは一緒によく食べた団子まで買ってしまいそうだと思うと嫌になったので、何に対してかよく分からない憤りを抱えながら下宿先のわたしの部屋に帰ったのです。
下宿先に帰ってようやく今日の講義が単位取得に欠かせないものだった事を思い出し、しかしその講義は半時間前に終わった事を掛け時計から知らされ溜息を漏らしました。花瓶の中の枝を睨み、何かを試す様に睨み続けても心に変化は訪れません。カーテンを開けて外が暗くなってしまったことを確認し、すぐに閉じて花瓶の中の水を換えまたカーテンを開けました。外は依然として暗いままですがカーテンを閉じようとは思いませんでした。遠くの道を歩くあなたの姿でも見えるかもしれないと考えたのかもしれません。意味も無くシャワーでも浴びようかという風にシャツを脱ぎ、急にやる気を無くして上裸のままベッドに横になりました。
心が病み始めているのではないか、と感じました。原因は勿論あなたです。わたしの意思とは関係無く身体が動き、そもそも意思が存在するのか分からないのに身体が動いたのです。何度も頭を振り、小さな立ち眩みの様に脳が戯けると脱力しきってベッドに横たわり、あー、とか、うえー、とか呻いてみては恥ずかしくなり毛布に包まったりするのでした。少し冷静になって物事を考え出すと、あなたと離れてこんなにもすぐ頭がどうかしてしまう様では今後わたしは生きていけるかも危ういぞ、なんて事に気が付いて泣きそうになりました。いっそ大泣きしてしまえばストレス発散になってすっきりするかもしれないと思いましたが、いくら物事を悲しいとか寂しいとか感じても簡単には涙が出ない人間であるわたしは、欠伸を押し殺して目尻から水滴を一滴垂らすことくらいが精一杯だったのです。その姿を「泣いている」として悲しんでいる体を装っている自分はただただ格好悪く、とにかく落ち込んでいくばかりで身動きが取れなくなりました。こうなってしまった時の対処法は寝ることであるのは知っているのですが、病んでいる時に限って眠れません。普段の倍の倍くらいの考えが頭の中を巡るので目が冴えて、頭が冴えて仕方がないのです。形だけでもと部屋を真っ暗にしてベッドに横たわり目を閉じてみますが意味はありません。身体は動きたくもないし動かさないのですが、脳だけは全力で働きありとあらゆる事を考えます。わたしの事、あなたの事、大学の事、知り合いの事、本の事、桜の事、世界の事、宇宙の事。考える必要も意味もない様な事。果てしない思考は続き疲労感とストレスだけが溜まっていきます。それなのに眠れはしないのです。自分は「不幸」だと何度も思いました。大事なものを失い深い孤独を抱えてもなお足りないくらいの「不幸」なのだと強く信じました。そんなわたしはどうすればよいのかを必死で、必死のつもりで考えました。とりあえず今は寝るしかないという結論に至るのに一時間はくだらない時間を要しました。眠れば忘れてしまえたりリセットしてしまえる感情があることには気付いていました。頑張っても寝られない時は気絶を待つのみです。目を閉じて身体を動かさないようにし気絶を待つのです。全力で駆け巡る思考をものともしない気絶の力に頼るわたしは、さながら酒がないと生きていけないアルコール中毒患者でした。若き青年には軽蔑の対象であった彼等の姿と自分が重なってしまうのは苦痛でしたが、他にはどうしようもないという事は分かりきっていたのです。
目を閉じ身体を固定し、長い時間耐えて耐えて気が付いた時には朝でした。記憶も何も無いが掛け時計の針の位置を見るに少しは眠れたのだろう、と少しの安堵を覚えました。
久しぶりに大学へ行き講義をまともに受け、わたしにしては長い時間大学にいたことでI君以外の知り合いに会いました。彼等とは決して深い中ではないのですが世間話くらいはします。深い中でないことが幸いして彼等はわたしに立ち入り過ぎず、あれこれ言うこともなく優しく無警戒に話しをしてくれました。そんな彼等から得た情報によると、わたしが気付かない内に接近していた台風は結局直撃する事はなく、気付かない内に近くの海の上を通り過ぎて何処かへ行ってしまったそうです。自分の気分だけが最優先であった数日の間に、彼等は非常に多くの情報を手に入れていたり思い出を作っていたりして驚きました。台風ですら通過していく時間の間に自分はどうしていたんだろう、と心に空白を感じました。わたしとは正反対な人生を送っている様に見える彼等のことを少し羨ましく思ってみたりもしたのです。いつまでもこうしてはいられない。あなたとの離別を嘆いてばかりはいられないのだと、馬鹿の様に狂信しようという謎の決意が湧いてきました。
大学にはなるべく前向きに通い、I君以外の友人とも親しくしていって活気を帯びたキャンパスライフ。そんなものを希望だと信じて夢見る気分になりました。そして大学に入学した当初、ある先輩に一つの哲学を聞いたことを思い出しました。好きな人が出来て、その人との別れをいつまでも忘れられず諦められなくなってしまったらどうすればよいか。答えは、他の人を好きになること、でした。前に好きだった人のことを嫌いに思えるくらいに他の誰かに恋が出来れば、新しく好きになった人と別れてしまうまでは大丈夫だと。新しく好きになった人との離別はいつになるかは分からないだろうが、その時が来たらまた他の人を好きになってしまえば良いのだと。その先輩は女性でしたが、彼女は二十余年の人生で八人とお付き合いし、二人の男性にお付き合いを断られたそうです。合計で十人の人間を好きになった訳ですが、最初の男の子を好きになってしまったが故にこうなってしまったのだと時々思うそうでした。その事を良くも悪くも思えるが今後の人生に恋愛が付き纏ってくるのかもしれないのは少し怖い。恋は麻薬だね、と言って笑った彼女が妙に大人びていて美しく見えたのを覚えています。
その先輩の哲学が影響したのかは判断しかねますが、わたしはあなたの事を忘れるために他の人を好きになろうと思いました。友人を今より増やし、彼等との繋がりの中で誰かいい人を見つけられないかと期待したのです。今考えると、いや、当時でも少し考えれば愚かな決意であることは数秒で理解できた筈でしたが、わたしは少しも考えなかったので分かりませんでした。もし考えたところでその決意を覆したかと聞かれると定かではないのですが、何かが変わったことは確かです。
台風が過ぎて梅雨が終わり夏が来るとわたしを覆う世界観が少し変わります。よく、夏は開放的な気分になる、なんて言われますがこの年のわたしにはぴったりな言葉でした。無理してでも開放的にしていたのだからぴったりでないとおかしいのです。I君を筆頭に友人たちとの交流を深め、積極的に会話をするようにしました。そうなると仲間内ではわたしの事を変わったと言う様になり、部活にもサークルにも入ってなかったわたしを様々な行事に誘ってくれる様になりました。元々嫌われていた訳ではないのです。余りにも関わりがなかったので嫌われようもなく、お互いただ存在するだけの相手として認知していた関係であったのです。その両者が歩み寄ればある程度は交流を深められます。わたしは相手の気に入らないと思う言動を避け、相手はそんなわたしに気を許してくれました。
そんな風にして仲を作った人達の約九割は男性でしたが、残りの一割に女性がいました。わたしの恋愛対象は女性のみなのでその中にいい人がいないかなという心持ちでいたのですが、ある日その一割の中に一人の女性が加わることとなりました。わたしに哲学を説いてくれた先輩です。I君の親友だという男の子から紹介してもらったバイト先の居酒屋で知り合ったのです。彼女はわたしの事など微塵も覚えていない様で、以前教わった哲学の話をすると自分と同じ考えの人間がいると勘違いしたようで仲良くなりました。ただ仲良くなるだけでは飽き足らず、居酒屋のバイト仲間で海に行こうという誘いを受けてしまう程でした。彼女には哲学通りにお付き合いしている男性がいる様でした。
海に行くと言えば夏休み。わたしの通っていた大学の夏休みは二ヶ月以上と長く、三泊程度の旅行に出かけ海を楽しむ計画が持ち上がりました。海なんて小学生低学年の頃に家族と行ったのが最後でしたから、三泊もして海に行くのは少し長過ぎやしないかと思いましたが口には出しませんでした。心と身体が発育していくにつれ、小さな薄い布だけを纏って動き回る女性を直視出来ない場である海に長時間いたくないなんて思いも態度にすら出しませんでした。この大学生集団海水浴という行事こそがわたしの殻を破りあなた以外の恋を見つける為の第一歩だと思っていたのです。
その第一歩はまず水着を購入することから始まったのですが、わたしには大学生の無難な水着というものが分かりませんでした。今も分かっている訳ではないのですが、とりあえずI君に頼れば間違い無いだろうと水着購入にお供してもらいました。その時の彼と言えば妙に張り切ってわたしの水着を選んだものです。「まさかお前がなあ」という台詞を繰り返していました。心の底から楽しいとでも言いたげな彼の表情を見ていると、わたしのしようとしていることは間違ってないんだと信じられる気持ちになっていきました。
海水浴にはわたしと先輩を含めて六人、男女がそれぞれ三人ずつという編成で行くことになり、普段バイト先でしか関わりのない彼等と上手くやっていけるのかという心配もありました。しかし当日、同期が運転するレンタカーの中でその心配は杞憂であったと判断するに至りました。わたしはいつもと違わない態度でいたのですが、他の五人はバイト先で見せる姿とは違う大学生らしい振る舞いで場を盛り上げてくれました。わたしはその中で同調したり笑っていたりすれば良かったので楽でした。わたしの知らない陽気な音楽を爆音で流し続けたり、公道での制限速度の倍のスピードで車を走らせてみたり、それぞれの大学での話題を話して笑い合いました。なるべく節約していきたいと借りた安いレンタカーは狭く、普段身体周辺に存在しているはずの男女の見えない壁は何処に行ったと心臓に悪くなる程にお互いの身体が密着していました。五人乗りの車なので運転席と助手席の二人以外は、これでもかという程くっつかなければいけませんでした。左には同期の男の子、右にはあの先輩に挟まれクーラーが効能を発揮できないくらいの暑さを感じ続けながら耐えていました。女性の胸が腕に当たっていたのはあの日が初めてです。先輩はその事に気が付いていたと思うのですが、中々体を逸らしたりはせず、わたしも何も言いませんでした。
目的地に着く頃にはわたしは汗だくになっていて、一刻も早く海に浸かりたいという純粋な感情だけがありました。これから向かう場所には自分とは違う種類の人間が多数おり、彼等は皆碌な布も纏わずに動き回っているなんて事は理解していたはずなのに驚かされたのはその所為です。浜辺に辿り着いたわたしは、想像を遥かに超える人の数とその騒がしさ、そして彼等の格好に驚愕に似た感情を抱きました。更衣室から出てきた女性陣の、水泳の授業ともテレビや雑誌で見るのとも違う過度に肌を露出した姿は、激しい緊張感にわたしを襲わせました。あなたと一緒にいた時には一瞬たりとも感じ得なかった感覚です。こんなことをしていていいのか、と謎の焦りも感じました。
わたしを除く五人はそんな感覚にはなっていない様で、慣れた様子でお互いを冷やかしたりし海へと向かっていきました。少し遅れるわたしの手を先輩が少しだけ引っ張りました。わたしは皆に同調するだけで精一杯でした。
人の多さなど意にも介さない様子でわたし達は燥ぎました。海に飛び込んで出来るだけ遠くを目指して泳いでみたり、誰かの持ってきた空気の入ったボールをぶつけ合って騒いでいました。海水が口に入ったしょっぺー、とか、クラゲの死体とかゴミ多すぎきたなーい、とかを周りの人間に聴こえてお釣りが出る程の大声で叫んでいました。流石に迷惑なんじゃないかと言うかどうか迷っていると近くにいた先輩が「これぞ大学生のあるべき姿だよね」と同意を求めてきたので、すかさず「はい」と答えた後、そういうものなのかと俯いて考えていました。普段のバイト先での彼等とはかなり違った姿であったことに動揺していたな、と今思い返すと感じます。
遊んでいたわたし達はその内誰ともなく疲れたと言い出し、砂浜で休憩することになりました。一人の男子が一人の女子を誘って焼きそばを買いに行き、一人の女子が一人の男子を誘って飲み物を買いに行き、先輩がわたしを誘って車へ荷物を取りに行きました。こういう場面で男女が別れてしまわないのは流石大学生だと変な関心をしていましたが、よくよく考えると先輩と二人きり、何故彼女と関わることが多いのだろうかと不思議に思った後になんとなく気まずく感じました。先輩は哲学を説いてくれたあの時より圧倒的に肌の露出が多く、年相応の若さで満ちている様に見えました。確かにこの人はモテそうだ、とのんびり思いながら荷物を運びました。車に辿り着いた時に、この日差しは眩しいよね、と言いながら先輩はわたしにハート型のサングラスを掛けさせ一人で大笑いしていました。あの大人びた雰囲気は何処へ行ってしまったのだろうと思いながら皆のいる所に戻り、残りの四人を大笑いさせたところで昼食を摂りました。
昼食中は遊んでいた時とは違って人々の動きは小さく少なくなります。わたしの目線も仲間内に向けられ、皆の動きも口と手だけになります。何が言いたいかというと、自然とお互いの顔や身体を見る回数が増えてしまうということです。普段なら別段気にしない事なのですが、今は全員水着。普段は見えない肌の細かい部分が目につきます。必死に目を泳がしてもその努力は虚しく、何処をみてもいやらしく思われてしまいそうに感じました。わたし以外は特に気にする様子もなく、慣れているかどうかの違いだなと己の無力さを知りました。仕方がないのでなるべく男子と話す様にしていると、今度は彼等の身体に目が向けられていきます。自分とはかなり差のある肌の焼け方や筋肉量を見て少し驚きました。高校では文芸部に所属していた上に、運動らしいものは体育の授業だけでしかしてこなかった自分は、こんなにも非力そうに見えるものだという発見に少なからずとも驚かされました。この頃はあらゆることに驚いていた気がします。どうせ暇は持て余す程持っているのだから走り込みでも始めてみようかと思いながら焼きそばを啜っていると、男子先輩はわたしがじっと身体を見つめてくると叫びだして大笑いが起きました。わたしは子どもの様に必死に弁明しながら、自分はここまで他人を笑わせることが出来るものなのかと変な分析をしていました。
昼食の後にわたし達は遊びを再開させましたが、海水内に入って遊ぶには流石に身体的な疲労が溜まってきたと見えて、各々砂浜での遊びに移り始めました。同期女子が綺麗な日焼けを目指すと仰向けになって大人しくなり、同期男子が先輩男子と先輩女子(哲学を説いてくれた先輩とは異なる人になります)によって砂の巨乳を付けられていました。先輩はその横で砂の巨城を作ると張り切り黙々と作業に取りかかりました。こうなるとわたしは何をすればよいのか分かりません。あれ程全員一緒という事に拘る様にまとまって行動していた人達がこうも自由に動き出すのを少し不思議に思いながらやるべき事を考えました。
その夏は本当にわたしを開放的な気分にしてくれていました。そのおかげで普段は思いもしない方向に考えが向いていったのです。つい数分前まで水着の女性を直視することすら避けていたわたしが、砂の巨城を作る先輩の手伝いをしようなんて考えに至ったのです。そもそもわたしは、誰かが何かをしている時に積極的に近寄ろうとする人間ではありませんでした。なるべく邪魔にならない様に黙っていて、もし誘われたりすれば断らない様に生きてきたつもりでした。そんなわたしがこの場で孤立する事を避ける為、積極的な行動を選択できる様になったのは夏の所為なんでしょうか。先輩がそれ程に特別に思えたのでしょうか。それとも、巡り巡ってあなたが影響していたのでしょうか。どれも当てはまる気がします。
わたしは人に声を掛ける時よく驚かれるので、なるべく足音を立てながら先輩に近づきました。途中で同期男子巨乳改造中の二人に声を掛けられましたが、柔らかく断ると二人は含み笑いを浮かべた表情でわたしを見ながら作業へと戻りました。その様なやり取りもあった結果、先輩は近づく途中のわたしに気付いてくれて驚かす事なく巨城作りに参加することが出来ました。わたしにとっては小さいながらも成長ととれる出来事でした。
蒸す様な日差しを背中で受けながら城の土台を固めていたわたしに先輩が声を掛けてくれました。
「どう、楽しんでる?海」
「はい、充分過ぎる程楽しんでますよ」
「良かった。君、あんまり顔に出さないし、こういうの積極的な方じゃないから楽しめてるか少し心配だったんだ」
「そんな心配してくれてたんですか。なんか、ありがたいです」
先輩は嬉しそうに見える顔で短く笑って、城の上部の制作に取り掛かり始めました。周囲を見渡すと、同期男子は巨乳以外にもスレンダーな身体を付け始められていて、日焼けの子はうつ伏せになって背中を焼いている様でした。午前中はあれ程騒がしかった面々が嘘の様にのんびりと静かにしています。遠くの方では家族連れがたった今海に到着した様で騒いでいますし、わたし達の様な大学生と思わしき集団が西瓜割りをしています。海上ではただ浮かんでいる者、遠くの方に泳いで行っている者、水を掛け合っているカップルなどまだまだ人は多くいます。春とは違った、しかし暖かい平和の空気が流れていると感じました。先程まで動揺と緊張で浮き足立っていたわたしの心もようやく地に足を着きそうになっていました。
「そういえば先輩、僕たち一年くらい前に会ってるんですけど覚えてます?」
「え、うそ、全然覚えてない。どこで会った?」
「軽音サークルの新歓の時です。僕はあれ、本当にタダ食い目当てで行ったんですけど、結構みんな楽しそうにしてたし、先輩が深い哲学まで教えてくれたからサークル入るか少し迷いましたよ」
「あっ、なんかそんなのあった気がする。てか恋は麻薬って話、君に話してたんだね。あの時結構酔ってたからな〜。このバイトで初めて会った時、この哲学を分かってる人がいるって驚いたのに。騙してたんだね。ショック」
「騙してたなんて人聞き悪いっすよ。聞かれなかったから言わなかったんです」
「うるさい。罰としてコーラ買ってきて」
えー、という笑いで会話は一旦終了と思いながら城作りに専念しようと思ったのですが、わたしは本当にコーラを買いに行かされました。それでもなんだか充実した時間を過ごしているという自信で満ち足りた心を抱えて自動販売機まで走ったのです。少しの嘘なんかも交えながら女性と上手な会話が出来たなんてことを嬉しく思ってたりもしました。その時のわたしを今は愚かで愛おしく思います。
砂のグラマラスにされていた同期男子たち三人は片が付いたらしく、最後にひと泳ぎして旅館に行こうと言い出しました。日焼けの子は海に入るとひりひりしそうだから遠慮しますと言い、わたしと先輩は目前に近づいた砂の巨城完成に向けて張り切っていたので断りました。その結果三人が海で泳ぎだし、わたしの方は日焼けの子にも手伝ってもらい三人で巨城を作り上げることに成功しました。先輩と日焼けの子は喜びながら携帯で写真を撮り、わたしもその中に一緒に写る事を許されたりしました。自分史上最も大学生らしい事をしているなんて思ったものです。
そして一行は海で遊ぶ事を終え、車に乗り込んで予約していた旅館に向かいました。夏の日暮れが迫ってきていて、海に沈みゆく太陽の光を皆で涙でも流しそうな顔をしながら眺めました。先輩の横顔をこっそり見てみようとしたのですが、夕日に照らされて真っ白に光るその顔はほとんど判別が付かない状態で諦めました。
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