第2話

 少しばかり、昔話をしましょう。わたしの話です。

 わたしが中学生の頃でした。毎日を黙々と過ごして、ただただ楽しさばかりを追い求めてふざけてばかりいたあの頃。わたしには密かに想いを寄せる女の子がいました。まさに思春期の真っ最中だったわたしは、中々その子に思いを伝えることも出来ませんで、想いとは裏腹にその子に意地悪をしてしまうくらいのものでした。この現象ばかりは不思議です。思春期を過ぎた多くの男子には体験したことのある現象であるかもしれません。そしてその被害にあった女子たちが日本には何人いるのだろうと考えると今からでも謝罪して回りたいくらいですが、この話には特に大きく関係ありませんのでここで謝るに留めておきます。ごめんなさい。

 わたしはその女の子と友達以上の関係になりたいと思っていました。ただし、その願いを叶えるには何もしないままでは駄目であるという事も承知していました。ですから毎日毎日僅かな勇気の欠片を、甲子園で惜敗に喫して砂を集める高校球児のように集めていたのです。そんな塵も積もって山となり、そこに友人たちの力添えも加わり遂にわたしは、中学生のわたしは意中のあの子に想いを伝えるに至ったのです。

 放課後、中学校近くの公園に呼び出して叫びながら頭を下げたわたしに対して、相手の女の子は耳まで真っ赤になりながら恥ずかしそうに頷きました。その瞬間わたしは人生で初めて、愛しの女性と付き合うことになったのです。

 その瞬間から一週間、わたしは有頂天になりました。己を全肯定されたかのような無敵感が湧いて、友人の一人には「絶頂天のお頭」とこっそり呼ばれたとか。付き合うことになった女の子には今までとは打って変わって甘えるようになり、ボーイフレンドなる者でしか許されざる行為やお願いをこれでもかというくらい続けたのです。よくもまあたった一週間ぽっちであそこまでの我儘を披露できたものだ、と高校生の時に思い返した覚えもあります。

 そして、付き合うことになってから一週間が経った日。彼女に「話がある」と言われました。その時のわたしの無敵感の前では、その言葉の持つ意味がよく分からず、二人きりで大事そうな話が出来るという状況に酔っていたとすら言えます。のほほんと彼女との待ち合わせ場所に向かいました。

 挨拶程度の小さな会話の後、その女の子は突然真剣そのもののような顔をし、「あなたと一緒にいるのは楽しいけど、付き合うのは何か違うの」と言いました。


 トラウマ、というものには実態があるとわたしは考えます。あの女の子に別れを告げられた瞬間からわたしの心には、何か女性が近づいてくる時に合わせたように疼く、発作のような鈍い痛みが存在するようになったのです。あれがトラウマの正体です。しっかりと、痛みという形となって存在するのです。非常に長い間、わたしに重くのし掛かっていましたあの存在は、ある時を境に消し去られてしまいました。それはあなたと出逢った時。完全に消えたのはあなたの口づけを知ったあの時。わたしの救いになるには充分過ぎて溢れ返ってしまいそうな幸福(幸福という言葉が最適なのか、わたしにはもう分かりません)、そんなものを与えられたわたしは、夢遊病者にでもなったかのような心地で過ごす期間を強いられたのです。


 雨は止み、わたし達はまた外で会うようになりました。四月も中旬を過ぎたというのに桜はまだ盛っていて、わたし達の花見も衰えを見せませんでした。談笑のお供にはいつも団子が片手に、盛ることの反動のように散っていく花弁もたまに口に入ったりして春を味わいました。

「どうしてこんなに桜は綺麗なんだろうね」

「樹の下に屍体が埋まっている事が原因らしいよ」

「『桜の樹の下には』だ」

 わたし達の共通の趣味である読書は、充分に会話を弾ませてくれました。わたしが作品や作家の話をするとあなたは興味深そうな顔で話を聞いてくれました。今までには誰にも興味を抱かれなかった話を、余りにもあなたは面白そうな反応をしながら聞いてくれるので、時々これは嘘なのではないかと疑念が浮かび上がる時もありました。それでもあなたの表情や言葉、桜の美しさを見ているとわたしの思考は明るい方へと自然と向いてしまうのでした。たとえ嘘であろうとこの美しい世界が続くのなら構わない。そういう風に思うようになっていきました。

 あなたの花に関する話も不思議な魅力を持っていました。その話をする時のあなたの生気に満ち溢れた顔がそうさせていたのかもしれません。今までの自分の人生における他人の話というものとは根底から意味合いが違うようで、一言一句が脳内へと入ってくるような感覚を味わったのです。当然、そのようなものだからわたしも花に詳しくなっていきます。すると更に花を愛でたくなって、わたしの部屋にはあらゆる花が置かれるようになりました。彩と鮮やかさ。わたしの世界にそんなものを与えたのは、紛れもなくあなたでした。

 花と暖気。それがあなたを思い出す時に同時に蘇る記憶です。桜の花弁を目にした時、あなたとの花見を思い出すのです。わたし達の行為、桜を鑑賞するという行為にはどのような気持ちが含まれていたのでしょう。世間に染まらない者たちの休憩処だったのか。青春を履き違えた結果の、普通とは回数が大きく異なるわたし達なりの青春なのか。命を愛でたいのか、美しさに陶酔したいのか。どれもが正解のようで、しかし大正解というには程遠く、最適な意義を見出せないでいます。とにかくわたしには、少なくともわたしには幸福であったことだけは間違いありません。現在への影響を考えたらどうだとか、そんな考えは捨てた上での幸福と唱えます。一生続けばいいのに。そんなふうに思っていた事は隠すつもりもありません。幸福でいました。


 桜の季節はまだまだ続きました。四月は下旬となって、それぞれ人々の新生活の気配も薄れたりした頃。それでもまだ桜は満開でいたのです。あまり意識していたくない言葉ですが、地球温暖化、なんてそんなものの影響だったのでしょうか。その年の春は長く続きました。地球温暖化という割には中々暑くはならなくて、そうなるとやはり地球温暖化は関係なかったのかもしれません。それならばと他の理由を探すと、恥ずかしい言葉ですがあなたがいたから、なんて理由が見つかりました。わたしの様な自分を誇ることのできない自尊感情底辺男にはナルシズムなんて縁もゆかりも無い概念なので、今後このような言葉はもう使いません。

 例年とは違った様子の春を感じていたわたし達は近隣の桜をほとんど見終え、少し食傷気味な感覚を持て余しそうになっていました。わたしの中では一際親密になっていた女性であったあなたと、二人だけで何処か遠くに行ってみようという考えが浮かんだのは春が長かった所為です。四月最後の日曜日にわたしは、あなたを隣県の桜の名所に誘いました。その時あなたは少しだけ、今でも気のせいだったかもしれないと思えてしまうくらい微かに困った顔をしたのです。それは優しげな微笑みの様でしたが、何か違ったものがあるとわたしは感じ取ったのです。その事にあなたは気付いたのか、すぐに演技かもしれないと疑う気も起きない程の笑顔で頷きました。

 そんな訳で、わたし達は遠出して桜を見に行きました。電車、バス、徒歩と乗り継ぎ歩きで約二時間半、日曜日に見合った人の量で溢れる桜の名所へと辿り着きました。出来る限りの覚悟はしていたつもりなのですが、それでも想像以上の人数にわたしは怯みました。あなたと花を見るには些か人が多過ぎると感じました。普段は人気のない所で二人きりだったのです。わたしは少し元気が無くなってしまいましたが、あなたは人の多さに刺激を受けたような表情で話し掛けてくるのでした。嗚呼、わたし達は根本的には違う人間なんだな、と思い少し寂しくなったのと同時に、あなたに心惹かれていることに会得がいきました。人間誰しも無い物ねだりなのだろうというのが、わたしが常々抱えている信条なのです。

 わたし達が訪れた場所には多くの観光スポットがありました。それぞれの場所にはテーマが与えられており、それら全てを訪れた暁には人を幸せにする内容であれば願いが叶うとか。わたしはその事を下調べの段階で知ったのですがあなたには伝えませんでした。わたし自身信じていなかったので、どうでもいいと考えていましたし、その事を知ったあなたがどのような願い事をするのか、それを考えるのが怖かったのです。人を幸せにする願い。あなたがそれを願う時、幸せになってほしいと考えるのは誰なのか。わたしには選ばれる自信がありませんでした。わたしはあの時期だけで言えばあなたと長い時間を共にしましたが、わたしよりも大切な人間は、あなたにとって幾らでも存在するのではないか。そんな負の妄想が進んだ為でした。

 そうなのです。期間としてはたった一ヶ月。あなたには大学生になるまでに出会ってきた多くの大切な人が存在するでしょう。幼馴染や初恋の相手、親友に先輩後輩、恩師。家族だって大切で仕方なかったのではないでしょうか。そんな人たちを差し置いてわたしが願ってもらえる幸せなんて有り得ないと思っていたのです。

「ねえ」

 先までの様な事を一人黙々と考えながら黙り込んでいたわたしにあなたが声を掛けました。ハッと驚いてわたしは顔を上げました。

「全部のポイントを巡ったら願い事が叶うらしいよ。人を幸せにする願い事なら大丈夫なんだって。素敵だね。何願おうかなー」

 わたしが調べて得ていたその情報は、勿論現地でも知り得たものだったのです。そんな事にすら頭が回っていなかったわたしは阿呆に違いありません。その時のわたしはあなたに気付かれない様に赤面しました。

 そんなわたしの様子を気にも留めないあなたはわたしの前を歩き出しました。その遠出は日帰りの予定でしたから、帰りの電車の時間までに全てのポイントを巡らないと願い事は出来ませんでした。わたしは気が進まなかったのですがあなたの歩は進みます。いつも二人だけで楽しんでいた花見とは何から何まで異質で、楽しめたのかと言われるとわたしは自信が無くなってしまいます。


 わたし達は幾つかのポイントを巡り、少々歩き疲れたところで昼食を摂ることにしました。観光客の集まっている場所で和風な建物のお食事処を見つけて、少しの待ち時間を経て座敷へと腰を下ろしました。

 当時わたしにはあなたにどうしても尋ねたい事がありました。それはあの口づけの事です。

 あなたをわざわざ隣県まで誘ったのにはその事を尋ねたいという目論見もあったのです。大学付近、特にわたしの下宿先が近くにある様な場所ではその問い掛けは出来そうにもなさそうだと考えていたのです。あの日のことを考えるとわたしの脳は正常な働きを不可能とし(元より正常な脳かと言われると首を傾げるかもしれません)、下宿先であの口づけを思い出した時なんかには、もう、身体が熱に覆われて息も絶え絶え。呼吸も荒くなるわ、目眩はするわでおよそ生物としての諸行を全う出来なくなるものでした。時間を置けば薄れていくかこの病と耐えていましたが、とても耐え切れるものではなかったのです。

 目の前では蕎麦を食べながら楽しそうなあなたがいます。わたしは饂飩を啜る手を止め、箸を置き畏まりました。あなたの名前を呼んでその手を止めさせます。

「一つ、君に訊きたい事があるんだ。今じゃなくていい、尋ねさせてくれ」

「じゃあ私も訊きたい事があるから、それに答えてもらってもいい?」

「勿論だとも」

 互いにそれだけを確認すると箸を取りました。再び麺を啜る音が二人の間にこだまします。もう少し何か問答があるのではないかと予期していたわたしには少しばかり拍子抜けでしたが、あなたに細かく理由を追求されたりするとどうせ狼狽するだけだったので結果的に良かったと言えます。それから先はこの後に起こる事がどのような結果をもたらすのか、気が気でなくなって饂飩どころではありませんでした。どんな味だったのかなんて、もう覚えていません。


 三十分もすると二人は食事を終え残りのポイントを巡り始めました。景観は相変わらず荘厳かつ美麗でしたが、わたし達二人は食事前のままとはいきませんでした。わたしの質問予告が理由であることは明確でしたが、わたしは場をとり直そうとはしませんでした。お互いの緊張と恐怖に萎縮したわたしは、それぞれのポイントに咲いた桜を楽しむ振りをしながらあなたに付いていくだけでした。それでも桜は記憶の中で綺麗なものに映っています。

 ある程度楽しみながらわたし達は花見を終えようとしていました。見事に染まった紅桜がのき並ぶ一本道を通りまして、残るは最後のポイント、この日で一番大きな桜の樹が待っていました。わたしは歩幅を確かめる様にゆっくりと歩きました。目の前にはあなたがいます。小さな肩を軽く上下させながら、後ろで組んだ手を気まぐれの様に動かしながら進んでいきます。この美しさは失えない、非力ながらも我が手で守り抜いていきたい。そんな風に思いながらあなたの姿を見ていました。あなたの姿を見ながら歩いていると、突如あなたは立ち止まり、「着いたよ」と言う代わりに桜の樹を見上げました。

 それは、とても大きな大きな桜でした。誰も彼も、あなたでさえも包み込んでくれそうなその姿に、わたしは最初父というものの姿を見た気がしました。風は柔らかながら逞しく吹き流れていき、咲き誇った花弁の数々を散らして遠くに行きます。宙には星かと見紛うような桜の花弁が舞っています。目線を落とすと、あなたが。桜と映える美しき姿がありました。

 周りにいるたくさんの観光客達は口々に感嘆の声を上げたり、写真を撮って燥ぐ者ばかりです。わたし達二人だけ、少し毛色の違う雰囲気が漂っています。あなたは桜を見つめ、わたしはあなたを見つめる。桜はそんなわたしを見守ってくれているだろうか、と感傷的になり、遂に例の質問をする決意が固まりました。

「ねえ、さっき言った訊きたい事、今訊いていいかな」

「うん、いいけど。あっ、すごいよほら、花吹雪だ」

 一際強い風が訪れ春の舞が起きました。幻想的な空間が構成されていく中、あなたはわたしの質問を先延ばしにしようと考えているように見えました。

 桜を伴った風が二人を囲みます。丸い円を描きながら吹き踊っていて、あなたは楽しそうに一緒になって揺らめきました。心がどうしようもなく落ち着く空気です。いつまでもこのままで穏やかであれやと、願いを零しそうになる程です。あなたは満たされた様な表情で、全てを任せるような態度で口を開きました。

「ねえ、君も一緒に」「あの口づけは、なんだったんだ」


 風は勢いを失くし、果てには吹き流れることを止め、桜の花弁だけを残して去りました。あなたも動きを止めます。それまで聴こえていなかった周囲の喧騒が一瞬にしてわたしの耳へと戻ってきました。先程の桜吹雪で満足した者達が一斉に去っていきます。大きな人だかりを抱えていた桜の樹は、人の温もりが遠のいてやや寒そうにしていました。しかしわたしにはそのようなこと、気にも留めなければ微塵も関係のないことなのでした。あなただけを、一心に見つめます。

 あなたは柔らかく目を閉じて、心を整える様にした後に目を開きました。一度大きな桜の樹に目をやり、わたしの方へと目線を戻すと溜息、と言うよりはとても短い深呼吸のようなものをつきました。

「分からない。君のこと、好きなのかもしれないね」

「誤魔化そうとしないでくれ。お願いだ。はっきり教えてくれよ」

「どうしたの、嫌だった?」

「質問に答えてくれよ」

「私は、」

 今度はしっかり、深く深呼吸をしてみせました。

「私は覚えててほしいの、君に。私の存在を忘れてほしくない。私だって君のことを忘れたくない。こんなにも想える人がいたんだよって、いつか二人がいなくなっても覚えててほしい」

「忘れる訳はないさ。それに、僕もだけど、君もいなくなったりしないだろ?」

 あなたはその時、確かに微笑みました。どうか笑っておくれ、とわたしがどこかで願っていたのでしょうか。それにあなたは応えてくれたのでしょうか。もう分かりません。その時のわたしは困った様な不安そうな表情をしていた筈ですが、あなたは微笑んでわたしを見つめたまま、とても綺麗でした。わたしは居ても立っても居られなくなって、不意にその場を取り繕いたい気持ちで一杯になりました。

「そういえば願い事。誰かを幸せにする願い事」

「そうだ、何を願うの」

「世界平和とか?」

「ありがち」

 あなたは可笑しそうに笑いました。そしてゆっくりとわたしに背を向けて、桜の樹を正面に見据えました。

「君は私を覚えていてくれる?」

「それは、勿論だよ」

「良かった」

 あなたは振り向きました。

「君が幸せでありますように」


 四月も終わりを迎え、五月が始まり。花見に遠出したあの日から数日が過ぎ、桜は嘘の様に散っていました。わたし達がよく見た河原の桜もただの緑となり、大学近くの桜並木は普通の遊歩道に姿を戻していました。近隣では唯一、大学構内の一番大きい桜の樹だけに花は残っていました。わたし達が出逢った場所です。

 大学は授業がない日曜日、わたしは一番大きい桜の樹の下に向かいました。春と共に別れを告げようとする桜の姿を見に行ったのです。その頃には一本の枝に数枚の花弁が散り遅れているのみで、あと何回か強めの風が吹けば樹は丸裸になりそうなのでした。友人のI君からその情報を教えてもらったわたしは、何だか寂しさや虚無感で一杯になり、どうしても我慢出来なくなったところで大学へと向かいました。空がかなり白んできた午前六時のことです。

 大学にはまだ誰もいませんでした。授業もない日のこんな早い時間に学校にいる物好きは、自分を除いている筈もないと思いました。それでこそ一人で、今春のわたしの大部分を占めていた桜という存在と別れるには丁度良いとも思いました。

 校門から歩いてすぐに位置しているその樹は、やはりいつ見ても立派でした。わたしの背丈でどうにか手が届く距離に残された数枚の花弁が目に付きました。あれがこの春の最後だと思うと妙に感傷的になってしまいました。とりあえず落ち着いて別れの瞬間を迎えよう、とI君と待ち合わせしていた時に座っていたあのベンチに腰掛けました。あの日、あなたと出逢った日のことが思い出されます。

 あれ程に美しさというものを強く意識させられ、魅了され感動させられた日はありません。散り際の桜には申し訳ないのですが、あの時のあなたと比べると雲泥の差です。わたしの全てを攫っていった者は遥か美しく、この世の無情を咲かせる程にあったのです。あの日発現した心の嵐は、桜が散ろうとしている今もなお悠然と駆け巡るのでした。

 暫く何も考えずに桜を見つめます。目に見える風景を、どこか映像の様に、しかし現実感も纏いながら眺めていました。鮮やかが過ぎる桜色は色を取り戻し始めた空を背に映えます。思考を最小限に抑えながら見ていると、何故か寂しさを感じました。

 あまり寂しさに囚われるとどうにも遣る瀬無くなるのが常なので、思考を始めることで誤魔化そうと思いました。どうだろう。この花弁が散っても、まだこれからもあなたと二人でいられるのだろうか。永遠なんてない。美しさは一瞬、一瞬だからこそ美しさ。今この美しさが永遠であろうとするならば、それはどうして美しさだろう。あなたの存在は、いつまでも美しいのだろうか。

「どうしたの、こんな時間に」

 不意に声を掛けられて気が付くと、目の前にあなたが立っていました。初めて逢ったあの時と同じような位置にいます。

「桜が散ろうとしてるんだ。僕はこの春のほとんどを桜と過ごしたからね。お別れを言いに来たんだ」

「私も。この時間に来たら花も残ってるだろうし、君もいるだろうと思ったの」

 朝を告げる景気の良い風が吹きました。もう春の暖かさを揺らすものではありません、夏の朝の涼しげな風です。花弁が散っていきます。残っていた中の幾枚かが姿を消しました。

「もう春も終わるね。一瞬だったなあ」

「一瞬だったからこそ美しいんだよ」

「うん。美しいものは一瞬なんだよね」

 当時、わたしはあなたと価値観を共有し得ていました。桜の散り際は綺麗で、散り際を眺めて桜に別れを告げるあなたはより綺麗で、桜に別れを告げに来たはずなのに、わたしはどちらを見ればいいのか分からなくなりそうでした。

 不意に何か重々しい沈黙が訪れました。わたしはあなたといつものように無駄話でもしようかと思っていたのですが、何かこの沈黙は、大した理由もなく破っても良いものには思えなくなってきたのです。要領を得ない感情ですが、あなたも心ここに在らずといった佇まいで黙っています。そんな姿を見るとわたしはなお黙るしかありません。するとこれまた不意に、この後起こる重大な何かしらの出来事を暗示されている気分になってきました。理由は無い筈ですが、胸が騒つくのです。心の嵐が苦しそうに荒れているのです。どうしたことだろうとただただ困惑するしかありません。あなたは未だあらぬ方を向いています。不安、という感情そのものです。

 何度も瞬きをしました。わたしの眼に映る景色が変わりやしないかと切望していたのです。何故なら、目の前の光景は余りにも不可思議だったのですから。残り少ない桜の花弁は今にも弱々しさで絶えてしまいそうで、共鳴するかの様なあなたの姿は哀しさを湛えるものがありました。あなたのその可憐な両眼から涙が降りていたのです。不意に見せつけられたその姿は、重々しい緊張の中の沈黙を破るには充分過ぎる理由となりました。

「どうしたんだよ。何か、辛いことでもあった?」

「ううん…辛いこと、あったと言うか、あると言うか。ちょっと、ごめんね」

 あなたはわたしの隣に腰掛け、いよいよ盛大に涙を流し始めました。音は無き静かな叫びです。陽も徐々に高くなり始め、春が終わろうとしている頃でしたので暑さを感じても良い程の暖かさの筈でしたが、どうにも寒気を感じた様に思えてきたのです。それは悪い予感による悪寒。今ならそう分かります。わたしはあなたに何かを言わなければいけないのですが声になりません。どうして泣いているのか、何があったのか、わたしはどうすれば良いのか。頭の中を言葉が駆け巡っては消えていくばかりです。そもそも言葉なんてものには変換されません。思考というものそのものの形のままで現れては消えて厄介でした。

 暫くするとあなたは泣き止みましたが哀しそうであることに変わりはありません。泣き出した女の子。理由の分からない目の前の悲しみ。大した経験も持たない大学生男子にはどうすることも出来ない状況が生まれてしまいました。

「桜は」

 困っているわたしに助け舟を出すかの様にあなたが話し始めました。

「桜は散り際が美しいって言われるじゃない。確かに儚さもあって綺麗だよね。君はどう思う?私はどう?私が、私が散る様な時は、美しいって思うかな」

「そりゃあ……」

 意図せず言葉が詰まりました。わたしはとても重大な事に気付いてしまったが如く目を見開き、そこから数秒の間喉の中の方が閉じた様に感じて喋られませんでした。大きく唾を飲み込んでどうにか言葉を作ります。

「難しいと思うよ。だって、君は散りはしないだろう?君は、いなくなったりしないんだろう?」

 あなたは、わたしと同様何かに気付いた様に勢いよく顔を上げ、わたしと目を合わせて苦痛が広がる様な顔をします。それは、わたしに気付いてほしくなかった事を気付かれてしまった事に気付いたかの様な、複雑ですが妙に心に堪える表情でした。わたしは今でも眼前に見えるかの様に忘れていません。

 あなたは徐々に目線を外していきました。普段のわたしなら誰かと、例えあなたでも、目を合わせるのは恥ずかしくて出来ない事なのですが、わたしから目を逸らしていくあなたの目をどこまでも追っていきたく感じました。それがどういう感情であったのかは説明出来ませんが、あなたの目を追ったとてあなたは外方を向いてしまって顔すら合わせなくなりました。

 わたしは静かに、そして恐れる様に手を伸ばしました。祈りをその手に込めながらあなたの左肩にそっと手を乗せます。感触がある、体温も感じる。女性に触れて少し心臓が早くなる。これは紛れもない現実です。あなたはそこにいます。わたしはその事をはっきりと確認しています。それなのに、どうしても現実感を失ってしまっているのです。それはあなたの眼の所為。厳密には外された目線の所為です。目線を外すという行為により、確かにわたしは真実を告げられたのです。

 あなたはここからいなくなる。

 それは途方もない事実でした。目の前に座るあなたはまやかしでした。わたしに与えられた運命とは、一瞬に過ぎない只管美しいだけの、現実からはかけ離れた夢だったのです。別れなんて小さなものだ。わたしにはこの先にも未来がある。そこには必ずして、わたしの望むものが待ち構えてくれているだろう。この様に、若さだけを理由にわたしが思い描いていた理想は早過ぎるあなたの出現により否定され、短過ぎるあなたとの時間で孤立し、残酷すぎる別れによって破壊されたのです。

 強い風が吹きました。容赦なく花弁は飛んでいきます。無遠慮に目の辺りが溢れそうになり、二枚の花弁が残ったのを見て一筋だけ溢れました。右目から頬の辺りまで伝って口に入り塩気を味あわせます。なんて切ない味だったことでしょう。わたしの人生ではもう二度と味わうことのない哀しさでした。

 あなたが肩からわたしの手を退かし、その華奢な両手でわたしの双肩を掴みます。言葉は要らないと、無言で確かめ合いました。美しい太陽が二人を照らします。桜の樹の落とした影が二人の間に伸び、これは予兆だ、と宣言する様な、しかし母の如く柔らかな風が吹きました。

 嗚呼、と心で感動を露わにした時、あなたがわたしを引き寄せ、永遠の永遠の永遠の、わたし達だけの口づけをしました。

 お互いを確かめ合ったわたし達はすぐに抱擁に移り、抗いを彫刻にでもしたかのように堅く抱き合って、そして、ええそして。あなたの前髪が風で揺れました。来てしまったかと思い切る暇などなく、桜の花弁を見上げて、わたしは。

 大きな風がわたしの背後から吹き流れ、残っていた二枚の桜の花弁は、とうとう散って遠くに行きました。わたしは急いで目を瞑ります。強く強く閉じました。目から熱い涙が溢れていった様ですが決して目を開きはしません。そろりと腕を開くと、そこにあった温度は最後まで優しく丁寧にわたしを包んだまま、遠くの方に離れていきました。身を硬くし目の熱さに耐えながら耐えながら、ベンチに身を支えてもらいながら、わたしはあなたが行ってしまうのを待ちました。

 鳥のさえずりや車の音、近くを猫が通過して行く気配。そんなものをその身で感じながら、ようやく目の温度が平常に下がってきた頃、静かに目を開きました。わたししかいない陽だまりの中、大きな桜の樹には一枚の花弁も残ってはいない事をその目で見て、全身の力を抜きました。

 春が、過ぎ去っていきました。

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