第22話 「わたしって、光輔さんにとっては、ずっとお姉ちゃんの妹ですか?」

 驚きつつもテーブルの上に置いてあった携帯に手を伸ばす。


『一ヶ月間、本当にお疲れ様でした。無事に流川沙織は並行時間等曲率漏斗を通過し元の世界に戻りました。』


 タイタンからの報告だった。

『大変だったよ。なんか不思議な夢を見ていたようだった。沙織も無事に帰れてよかった……って言うのもおかしいか。あいつ、自分の未来を変える気はないって言ってたもんな。』

『……それが、実は問題が起きたのです。』


 問題?

 まだ何かあるってのか。


『いえ、厳密にいえば、これはあなたには無関係な問題です。そして、そちらの世界にも全く関わることのない問題です。ですが、あなたにはお伝えしておこうと思い、最後の連絡を取らせていただきました。

 実は……。流川沙織が帰った世界は並行時間等曲率漏斗を最初に通過してから一ヶ月後の世界だったのです。』


『無事に帰れたってことじゃないの?』


『当初の予定では、彼女はあなたの部屋で意識を取り戻すことはなく、精神的、肉体的な変化は何も起こらないまま、元の世界の元の時間軸に帰還する予定でした。しかし、目を覚ましたことで彼女の肉体は一ヶ月間加齢してしまいました。それにより、元の世界と彼女との時間の流れに誤差が生じてしまったのです。彼女は元の世界に戻ることには成功したのですが、あなたの世界にいた分だけ、時が進んだ元の世界に帰還してしまったのです。』


 こっちで一ヶ月過ごした分、元に帰る世界も一ヶ月経過してしまったということか。でも、それがそんなに大問題なのだろうか。


『大問題です。あなたには流川沙織が高校三年生の卒業式の数日前から一ヶ月間、行方不明になっていたという記憶はありますか?』


 あ、なるほど。そうか、そういうことか。

 事態を把握した。


『つまり、世界が枝分かれしてしまったということか。』

『はい。その通りです。そちらの暦で言うところの2006年3月3日からの730時間、流川沙織が世界から消えていたという別の世界線が誕生してしまいました。』

『じゃあ、もしかして、沙織の世界は剪定されてしまうってのか?』

『それが、まだわからないというのが現状です。流川沙織が世界を跨ぐ時に通過した並行時間等曲率漏斗に「大いなる意志」ですら理解できない未知のエネルギーが内包されていたようなのです。そのエネルギーが並行時間等曲率漏斗を通過した流川沙織を媒介にして彼女の世界に広がっています。現在、と言ってもこちらの観測時間軸での話ですが、彼女が帰還した世界は未知のエネルギーに包まれています。このことにより、彼女の世界は「第十二観測時空」と認定され、「大いなる意志」の観測対象になりました。エネルギーの解析作業や、エネルギーによって彼女の世界が今後、どのように発展していくのか見定める必要があります。ですので、その調査が終了するまで、世界の剪定を行うかは保留になりました。』

 また難しい話だ。だけど、つまりは沙織は別の世界で生きているってことなのか。

『その調査ってのは、どのくらいかかるんだ?』

『そちらの世界の時間に換算すると、おおよそ53億年の16倍ほどの時間と推測されます。』

 め、めちゃくちゃかかるじゃないか。

『ってことは、沙織が事故に遭おうが遭うまいが、あいつの世界が崩壊することはひとまずないってことだな?』

『はい。「大いなる意志」による調査が終わり、もし「第十二観測時空」が全宇宙にとって害と認定され剪定されることになったとしても、その時には人類は既に滅んでいることでしょう。』

 なら、早いとこ、あいつに教えないと。事故なんかに遭わなくていいんだって伝えないと。

『それを沙織に伝えることはできないのか?』

 このままじゃあいつは使命感に従って事故に遭うように行動してしまう。止めなきゃ!

『彼女は「大いなる意志」にとっても重要な観測対象ですので、あなたに私が接触したように、なんらかの形で「大いなる意志の忠実なる僕」が接触することになっています。』

『そうか、なら一刻も早く伝えてくれ。死ぬ必要はなくなったんだって!』

『そうしたいのは山々ですが、現在の状況では「大いなる意志」が積極的に「第十二観測時空」に介入をする予定はありません。観測することが目的なのです。彼女がどのような未来を選択するのか現時点では知ることはできませんし、この通信を持って、我々「大いなる意志の忠実な僕」はあなたとの接触を終了します。ですので、「第十二観測時空」が今後どうなるのか、「第十二観測時空」に戻った流川沙織がどのような人生を歩むのか、あなたが知る術はありません。』

 そうか。でも、それでも、沙織が帰った世界が剪定されずに、いつまでも続いていけるのなら救いはある。

『わかった。僕には何もできないけど、なんとか沙織が生き延びることを祈ってるよ。それしかできないもんな。』

『はい。ではこれで我々からあなたへの通信は最後となります。一ヶ月間、ありがとうございました。さようなら』


 そのメールを最後に、タイタンからのメールが届くことはなかった。



 ☆


 沙織が消えてから二日。それでも朝日は上り日々は過ぎ、思い出は日常に塗りつぶされていく。


「ごめん、待たせちゃったね」

「いえ、いいんです。無理を言ったのはわたしの方なんですから」

 会社から急いで駅に向かったけど、約束の時間を三十分も過ぎてしまっていた。

 駅前に立つ雫ちゃんは、膝丈のスカートなんか履いてよそ行きの格好だ。

 そりゃそうか。わざわざ僕の会社の最寄り駅まで出てきてくれたんだから。

「家の近所でもよかったのに」

「いいんです。こうやって外で待ち合わせしたかったんです」

「そうなの?」

 変なの。まあ、雫ちゃんがいいっていうなら構わないけど。

「で、何か食べたいものとかはある?」

「えっと……。光輔さんはどうですか。ここらへんでお勧めのお店ってありますか?」

「うーん、あ。焼き鳥屋は? 雫ちゃん焼き鳥好きだよね?」

「はい。大好きです!」

 じゃあ、月形くんが大好きな吉兆にしようかな。

「いい感じの焼き鳥屋さんあるから行ってみよっか」

 頷く雫ちゃんを連れて、吉兆に向かった。

 ちょうど席が空いてて、僕たちはカウンターに座った。

 どうしてわざわざ電車に乗ってこんなところまで出てきて一緒にご飯を食べたかったのか、何か理由があるのかと会話をしながら考えていたのだが、隣で焼き鳥をつまむ雫ちゃんはいつも通りで、いや、いつもより化粧もしているし、なんとなく静かで大人っぽい雰囲気だったけど、概ねいつも通りで、結局、どうしてわざわざ僕とご飯が食べたかったのかわからなかった。

 店の看板娘チハルちゃんに「雨宮さんの彼女さんですか?」なんて聞かれた時も僕が「違うよ、昔からの知り合い。妹みたいなもんだよ」なんて答えたのだけど、いつもなら雫ちゃんも否定するのに今日は変に静かで僕だけが否定していて、なんだか妙だった。


 明日も仕事だから、そこまで深酒はせず、ほどよく食べて、ほろ酔い気分で店を出て電車に乗って一緒に帰る。

 電車の中、雫ちゃんは少し様子がおかしかった。なんだか悩みでも抱えているのか、息苦しそうなため息をしていた。

 電車を降りてアパートに向かう。

 こんなに静かな雫ちゃんだと張り合いがない。もしかしたら体調が悪いのかもしれない。約束しちゃった手前、体調が悪いと言えず無理して来たのかもしれない。

 そうだったら申し訳ない。

 僕がその事を確認しようとした時、雫ちゃんが口を開いた。

「あの……。今日、どうでした?」

「今日? どういうこと?」

「えっと、その……わたし、ちょっと今日は服とか、その……」

 スカートの裾を掴んで俯いている。そうか、わかった。

 せっかくおしゃれしてきているのに、僕が何も言わなかったから気にしているのか。

「ああ、スカートなんて珍しいね。似合ってるじゃん。イメチェン? そういう服装も似合うよね」

「あ、ありがとうございます……」

 雫ちゃんは俯いたままペコリと頭を下げて、そのまま会話が途切れる。

 なんだ?

 あれ。何か間違えたかな。

 そのまま無言で歩く。角を曲がるとアパートが見えてくる。

 チラリと自分の部屋を見てしまう。もちろん、電気なんかついてない。沙織はいないのだから。

 たった一ヶ月だったのに沙織がいない生活にまだ慣れない。

「あの……光輔さん」

 か細い声で雫ちゃんが僕を呼ぶ。視線を落とす。

 隣に立つ雫ちゃんがいつもより、なんだか小さく見えた。

「わたしって、光輔さんにとっては、ずっとお姉ちゃんの妹ですか?」

 意を決したように雫ちゃんは言った。

「えっと、どういうこと?」

 ずっと抱えていたものを吐き出すように雫ちゃんは声を絞り出した。

「今日も、お店の人に言ってましたよね。わたしのこと、妹みたいなもんだよ、って」

「そうだっけ?」

「はい……」

「わたしは……。もう、そんな風に扱われたくないです」

 雫ちゃんは唇をギュッと結んで、視線を落とした。

「そうだったのか。ごめん。無意識にいつまでも子供扱いしちゃってたかな。嫌な気持ちにさせちゃってごめん」

「そうじゃないです……。わたしは……」

 雫ちゃんが顔をあげる。ショートカットの前髪の下、今にも泣き出しそうな瞳が僕を見上げた。


「……光輔さんのことが好きです」

 上気した頬。

「光輔さんがお姉ちゃんのこと、忘れられないのは仕方ないです。けど、わたしのことはお姉ちゃんの妹としてじゃなくて、その……異性として見て欲しいんです。ダメですか?」

 じっと僕の目を見つめたままの雫ちゃんの声は震えていた。言い終えても、瞳をそらさない。僕の返事を聞くまで瞳をそらさないつもりなのだろう。

 僕は焦っていた。こんなことを言われるなんて思いもしなかったから。雫ちゃんは沙織の妹で、昔からそうで、僕にとっても可愛い妹みたいなもので。

 好きととか嫌いとか異性として見るとか、そういった事を考えたことがなかったし、考えちゃいけないと思っていた。

 でも、彼女がこんなに真剣な表情で僕の返事を待っているのだから、有耶無耶にしてはいけない。

 何か答えなければいけない。どう答えたらいいのか混乱しながらもなんとか言葉を捻り出す。


「雫ちゃん。その、なんていったらいいのかわかんないんだけど、今まで僕は雫ちゃんの事をずっと沙織の妹としてしか見てなかった。出会った頃なんて小学生だったし。でも、雫ちゃんが僕のことを好きって思ってくれてたんなら、嬉しいし、でもそんな気持ちに気づけなくて申し訳ない気持ちでいっぱいだよ」

「……恋愛の対象としては見れませんか」

「ごめん、その。考えた事なかったから、まだわかんないってのが正直な気持ちなんだ。だけど、雫ちゃんのことを妹扱いするのはやめるよ。今までごめんね」

 僕が答えると、雫ちゃんは俯いてしまった。

 もっと良い言い方があったかな。傷つけてしまったかな。

 雫ちゃんの肩が震えて大きく息を吐いたのがわかった。そして、雫ちゃんは顔をあげた。

「わかりました! 急にごめんなさい。でも、ずっと抱えていたものを吐き出せて、ちょっとすっきりしました」

 あげた顔をまた下げた雫ちゃん。

「そ、そう? ならよかったのかな?」

「はい。それを伝えたくて、今日は食事に誘ったのです」

 憑物が落ちたように表情も明るくなった雫ちゃん。

「そうか、だからちょっと様子がおかしかったんだね」

「え、わかりました?」

「わかるよ。君のことを何年見てきたと思ってんの」

「……えへへ。そうですよね。でも、わたしの気持ちは全然気づかなかったくせに」

「それは、なんかごめん」

 頭をかいて謝ると雫ちゃんは笑った。

「いいんです。わたしこそ、急にごめんなさい。でも、この前さやかちゃんに言われたんです。伝えたいことはちゃんと伝えないと、絶対後悔するって。なんだか、その言葉がすごく心に響いちゃって」

「そうだったのか。あいつに言われたんだ」

「わたしが光輔さんのこと好きだってこと、すぐにわかったって言ってました」

「そっかぁ。あいつ、なんて言ってたの?」

「それは秘密ですよ。恥ずかしいですもん」

 そりゃそうか。

「でも、だから、これからはわたしのことはちゃんと異性だと思ってくださいね」

「じゃあ勝手に部屋に入ってくるのはやめてくれよ。もっとちゃんと大人の男女として節度のある付き合いをしようじゃないか」

 僕が偉そうに言うと雫ちゃんはぺろっと舌を出して、「わかりました」とおどけてみせた。

 なんだか不思議な感じだ。沙織はこんなことを仕組んでいたのか。

 全く、お節介なやつだ。


 一緒にアパートに戻って、雫ちゃんの部屋の前まできた。

「光輔さん。この前さやかちゃんとVRのテーマパーク行ったって言ってたじゃないですか。わたしも行ってみたいんですけど、よかったら、今度一緒に行ってくれませんか?」

「渋谷の? いいよ。でもあそこ、結構疲れるから動きやすい格好で行ったほうがいいよ。靴もスニーカーがいいと思うよ」

「わかりました。日曜日とか、どうですか?」

「わかった。じゃ、日曜ね」

 手を振って部屋に帰ろうとすると、袖を掴まれた。

「……あの、これ一応デートってことでいいんですか?」

 髪の毛をいじりながら、恥ずかしそうに訊いてきた。

「え……。そう言われると、まぁそうだなぁ。デート……に、なるのかな?」

 困った。だけど、普通に考えて男女が出かけるのだから、デートなのだろう。

「もう! まあいいです。じゃまた連絡しますね。今日はありがとうございました」

 頭を下げて雫ちゃんは部屋に入っていった。


 部屋に戻り明かりをつける。

 なんだか、沙織はヘンテコな置き土産を残していったみたいだ。


 置き土産?

 そういえば、沙織に渡されたあのキーホルダーをちゃんとしまわなければいけないな。

 なんとなくテーブルに置いてそのままにしてあったイルカのキーホルダーを掴み、ベッドの下の引き出しを開く。

 一ヶ月前までは触れることさえできなかった、沙織との思い出の品が入った段ボール箱。

 今は何も考えずに開くことができた。


 あっ。

 思わず声が出た。

 そこで僕は気がついてしまった。

 段ボール箱の一番下に埋もれていた沙織の日記。

 鍵付きで中身が見れないあの日記だ。

 手の中にあるイルカのキーホルダーについていた鍵を恐る恐る日記についた錠に入れて見る。

 カチッという音と共に、錠は簡単に開いた。


 僕は迷った。見るべきかやめるべきか。

 しかし、この日記を渡してくれた沙織のお母さんの言葉を思い出す。


「この日記はもし何かあったら、光輔くんに渡してって言われていたの。鍵がかかってるから中身は見れないんだけど……」


 深呼吸をして心を落ち着かせて、僕はそっと日記の表紙をめくった。


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