第21話 「握手でサヨナラだよ。光輔くん」
☆
6月11日。
火曜日。
午後6時30分。
僕たちは噴水の前の広場にいた。
僕が沙織に告白をした公園。一ヶ月前に沙織が現れた公園の広場だ。
梅雨の最中だというのに、夕雲ひとつない綺麗なオレンジ色の空が高く広がっていて、まるで秋晴れみたいだった。せっかく晴れているのになんだか少し寂しい。空が高いと、宇宙の広さや自分がちっぽけで無力な存在だってことに気づいてしまうから寂しくなってしまうんだ。
もうすぐ、沙織がいなくなってしまうからという理由だけではない。
滲む太陽はすでにビルの谷間に沈みかけていた。
終日、雨という予報が外れたのはタイタンからのささやかな贈り物だった。
この世界に現れた時と同じ高校の制服に着替えた沙織はあの時と同じベンチに座っていた。
「光輔くん、何じろじろ見ているの?」
僕の視線に気づいた沙織はその切れ長の瞳をほそめた。
「いや、やっぱり制服って良いもんだなって思って」
「……オヤジ」
「うるせっ」
軽口を叩けるくらい僕らの間に湿った空気はなかった。
だって、抱き締めて離さなかったとしても沙織はその時が来れば消えてしまう。
沙織が帰るという意志を持っている限り、僕にできることは笑って見送ることだけだった。自分は無力だ。
昨日の夜はずいぶん遅くまで話し込んでしまったので、昼過ぎまで寝ていた。
起きてからは少し散歩して、ご飯を食べて電車に乗ってこの公園にきた。
まるで大学時代に沙織がうちに泊まった時みたいな、のんびりした一日だった。
最後はこの公園でお別れしようと、二人で話し合っていたけれど、僕はひとつだけ沙織に言っておきたいことがあった。
「なあ沙織。実はひとつだけ伝えておきたいことがあるんだ」
「ん? なあに?」
噴水を見ていた沙織がこちらを向いた。
「もとの世界に帰ったら事故なんかに遭わなくていいからな。僕が遅刻してしまうんだから沙織も待ち合わせなんかすっぽかしていいから」
「今更なに言ってんのよ。そんなことしたら世界が崩壊しちゃうでしょ」
沙織が笑い飛ばす。でも僕は真剣な表情のままで沙織の目を見つめ返す。
「実はさ、沙織が事故を回避して世界が枝分かれしたら、そっちの世界を生かしてほしいってタイタンにお願いしたんだ」
「え、なにそれ」
「本来の歴史の流れからすると、君が事故に遭うのが正史ってことらしいんだけど、もし君が事故を回避したとして、世界が枝分かれして並行世界が誕生しちゃったとしても、こっちの世界じゃなくて沙織が生存する世界を残してくれって頼んだんだ」
「でも、そしたら、こっちの世界がなくなっちゃうってことだよね?」
「……ああ。だけど、それでいいさ」
沙織がいなくなってからの十年は何もなかったから。なら、沙織が生きている世界を存続させてくれた方がいい。そうしたら、その世界の僕もきっとこんなウジウジした奴にはなっていなかっただろうし、雫ちゃんやお母さんたちも悲しまないですむ。
けど、僕の言葉を聞いても、やっぱり沙織は表情を緩めたりなんかしなかった。
「光輔くん。気持ちは嬉しいけど、それはちょっと自分勝手だよ。こっちの世界には光輔くん以外にもいろんな人がいるじゃん。この世界がなくなっちゃったら、その人たちの気持ちまでなくなっちゃうんだよ。それはわたしにはできないよ」
「まあそうだよな。沙織ならそう言うと思ったよ」
沙織は僕みたいに優柔不断じゃない。
やると決めたら絶対にやり通す。
僕は彼女のそんなところが、好きだったんだ。
「沙織はやっぱり僕には出来すぎた彼女だったかなぁ」
苦笑して沙織の横に座る。
「ばか。そんなことないよ。光輔くんはわたしと違って色々考えてるじゃん。繊細で思慮深くて。わたしが勢いで行動するのをたしなめてくれるのは光輔くんだけだよ」
「それって男らしくないだけだよな」
「優しいってことだよ。わたしは光輔くんのそんな優しさが大好きなんだ」
沙織が体を僕に預けてきた。僕の肩に沙織の小さな頭が寄りかかる。甘い髪の匂い。温もり。全てが愛しく哀しい。
「光輔くんの優しさって、他の人とはちょっと違うんだ。みんな優しくするって何かをしてあげることだと思ってるんだ。そういう優しさもあるけど、何もしないでいてくれる優しさってのもあるんだよね。光輔くんはそうだった。文化祭の時も、料理を作ってる時も、見守ってくれるんだよね。光輔くんは。わたしにはできない」
「ありがとう。そんな風に思ってくれてたなんて知らなかったよ」
「同い年の光輔くんには恥ずかしいし、なんか負けた気になるから言わないけどね」
沙織は細い肩を震わせてクスッと笑った。
「でもさ、沙織。一応頭には入れておいてよ。事故を回避したっていいし、二つの世界が崩壊することはないって。君は君のために生きてほしい。無理に歴史の通りに生きようとしなくて良いからな」
「……うん。光輔くんがそこまで言うならわかったよ。もし、直前に気が変わったら、そうさせてもらおっかな」
沙織はおどけて言うと、僕のこめかみにコツンとおでこをぶつけた。そして、ぴょんっと立ち上がった。制服のスカートが揺れる。
「さて! もうそろそろ時間だね」
もうそんな時間か。
広場の柱時計を見る。沙織がこの世界にいられるのはもう五分もない。冷静を装うが心はざわつき始めていた。落ち着いてなどいられない。
「もう、この世界でカップラーメン食べられないな」
「ふふ、そだね。持って帰りたいくらい美味しいカップ麺あったのになぁ」
こんなくだらないことよりも、話すべきことがあるはずなのに。
心が騒いで、頭がこんがらがって、言葉が出てこない。
「ねえ、光輔くん」
柔らかい声音で僕の名を呼んだ。
「この一ヶ月、お世話になりました。いろいろわたしのためにしてくれてありがとう」
頭を下げた沙織。
「お礼にこれ、あげます」
沙織が懐から取り出したのは綺麗にラッピングされた小さな袋だった。包装紙は緑色でリボンは赤。中身は見えない。
「なに?」
「秘密。わたしがいなくなって、どうしようもなく寂しくなったら開けて」
僕は頷いて包みをポケットにしまった。
沙織がいなくなったら、すぐにでも開けてしまうかもしれない。
「わたしは歴史の通りに生きるよ。それがわたしの役目だから。ちゃんとこの世界に繋がるように同じ道筋を辿って歳を重ねて、そして21歳で死ぬからね」
「……そんなこと宣言しないでくれよ」
沙織は目を細めて微笑んだ。夕日が彼女の顔を染め上げる。光と影に包まれた沙織はとても綺麗だった。こんな時に、こんな悲しいことを言っているのに、とても素敵な笑顔だった。
胸が締め付けられる。広場の柱時計の針が七時を示そうとしていた。もう時間がない。他にもたくさん話したいことがあるのに。何も言葉が出てこない。
沙織の方が余裕があった。
「あ、そうだ。それとね。最後にもう一度言っておくけど。わたしの事故は光輔くんには何も責任ないんだから。だから、いつまでも下を向いてないでね。わたしはもういないんだし、少しは顔を上げて周りを見てね。世界はバラ色ではないかもしれないけど、灰色ってわけでもないんだよ。梅雨の曇り空の中に咲く紫陽花だってあるんだよ。だからさ。幸せになってよ。ね!?」
真剣な顔で僕のことを見る沙織をしっかり見つめ返して僕は頷いた。
「……頑張るよ。僕なりに」
それしか言えなかった。
「うん。わたしは光輔くんのことが好きだから、誰にも取られたくないけどさ。まあ、譲ってもいいかなって思える子もいるし」
「なにを言ってんだよ」
「ふふ。こっちの話。じゃ、そういうことだから。メソメソしたお別れはしたくないから。笑顔でバイバイしよ」
沙織が手を差し伸べてきた。
「握手でサヨナラだよ。光輔くん」
「ああ」
僕はその手をしっかり握った。柔らかくて小さくて、どうしようもないくらいに愛しかった。
このまま彼女とずっと手を繋いでいたい。世界が終わっても、明日が来なくても。
その時、池の噴水が大きく舞い上がった。
夕日に照らされた水しぶきに思わず目を瞑り、そした再び目を開けた時、
沙織は消えていた。
伸ばした手の先には誰もいない。
掌に残っているのは沙織の温もりだけだった。
僕は結局、彼女を救うことができなかった。
僕はもう一度、恋人を見殺しにしたのだ。
誰もいない広場に一人、どのくらい時間が経ったのだろうか。あたりは暗くなっていた。
ポツポツと雨が降り始めてきたのにも気がつかなかった。
閉じた右手を見る。冷たい雨のせいでさっき確かに感じた沙織の温もりはすでにない。
僕はまた、ひとりになってしまった。
「……光輔さん? やっぱり光輔さんだ」
声をかけられたのに、僕は反応できなかった。
「どうしたんですか、こんな雨の中で」
声の主が目の前に来て、ようやく話しかけられていることに気がついた。
「雫ちゃん……?」
目の前に現れたのは、なんと雫ちゃんだった。
「どうしたんですか? 傘もささないで」
もう一度、雫ちゃんは繰り返して、花の柄が入った紺色の傘を僕に差し出した。
「雫ちゃんこそ、どうしたの。こんなところに」
「わたしはさやかちゃんに頼まれたんですよ。仕事が終わったら超ダッシュでこの公園に来てって」
沙織に頼まれた?
どうしてだろう。
「光輔さんがきっと呆然として立ち尽くしてるから、迎えに行ってって。……で、なにがあったんですか?」
「なんでも……。ないよ」
「なんでもないようには見えないですけど……。とりあえず、雨が強くなってしまう前に帰りましょう」
雫ちゃんに促されて僕は公園を後にした。
駅について電車に乗る。
雫ちゃんが何か喋りかけてきたが、僕は曖昧に答えるだけで、雨粒が斜線を作る窓の外をぼーっと眺めていた。
街の明かりが高速で流れていく。マンション、一軒家、オフィスビル。あの光の一つ一つに人がいる。こんなにたくさんの光がある世界なのに、この世界にもう沙織はいないんだ。沙織がつける光はない。
「光輔さん。ご飯食べてないでしょ。何か食べて帰りましょうよ」
電車が最寄駅についた。
「ごめん、あんまり食欲ないんだよ」
自動ドアが開く。帰宅ラッシュの人の波に乗って電車を降りる。
「あの……軽くとかでもダメですか? お酒とか飲んだりとかは?」
雫ちゃんはどうしても食事に行きたかったみたいで、珍しく食い下がったけど僕はその誘いを断った。
改札を出てアパートに向かう。
「むぅ。わかりました……」
雫ちゃんはようやく引き下がった。
「じ、じゃあ明日はどうですか? 仕事の後とか、時間ありませんか?」
アパートにつき雫ちゃんの部屋の前まで来て、別れようとしたら訊かれた。
なんだから泣き出しそうな声だったので、驚いて振り向いた。
雫ちゃんは落ち着かない様子で両腕を抱いて節目がちに、それでも僕のことをチラチラと見ていた。少し顔が紅潮しているようにも見える。
「明日は……。ごめん、ちょっとまだわからないよ」
「それじゃ、あの、夕方、LINE送りますんで、もし都合がよかったら……連絡ください」
雫ちゃんがこんなにも熱心に僕を誘うのは珍しかった。
「わかったよ。明日は休み明けなんで仕事がたまってるだろうからさ、明後日でいい?」
僕が言うと、雫ちゃんの表情がパッと明るくなった。大きな目を輝かせて大きく頷いた。
「わかりましたっ。じゃあ明後日に」
照れたように笑って手を振る彼女に別れを告げて僕は部屋に帰った。
静かな部屋。
たった一ヶ月前には当たり前だった「ただいま」を言う相手のいない部屋だ。電気もついていないし。
やはり誰もいない部屋は寂しい。
上着を脱ぎハンガーにかけ、濡れたシャツやジーンズを脱いで洗濯機に放り込む。脱いだものはすぐに洗濯機に入れるというのは沙織が来てからついた習慣だった。もちろんポケットの中もちゃんと確認してからだ。何度かポケットティッシュを入れたままでひどく怒られた。
沙織がいなくなってもその習慣は残っていたみたいで、ほんの一ヶ月という短い時間だったのに、彼女が僕に残したものの多いことに気づかされる。
沙織は過去の世界に帰ったのだから、今頃なにをしているのか、という問いに答えはないのだが、一人で部屋にいるとそんなことを考えてしまう。
だけど、この世界が存続しているということは沙織は自分の運命を受け入れ、全うしたということに他ならない。
僕にはなにもできなかったのだ。僕は彼女のために何かしてあげられたのだろうか。
ふと、沙織に渡された小袋のことを思い出した。
ハンガーにかけた上着のポケットを弄る。あった。
ラッピングされた、小さな袋。ラッピングを解いて中を見る。
そこにはキーホルダーが入っていた。昨日行った水族館のお土産だ。
チェーンに繋がったイルカのキーホルダー。目の前でぶら下げて指でつついてみる。
最後のプレゼントがこれか、と少し笑えた。
その時、キーホルダーに繋がったチェーンの先に、後から付けられた鍵のようなものが繋がっているのに気がついた。
鍵自体はイルカよりも小さい。けれど、チェーンとは明らかに材質が違っていて、しっかりした作りの鍵なので、イルカのキーホルダーに付属していたものではないことは明らかだった。
これはなんの鍵だろう。
首を傾げていると、唐突に携帯電話の着信音がなった。
GReeeeNのキセキだ。
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