第13話 「わたしは……ずっと」

 ☆


 沙織が現れて二週間が過ぎた。

 驚くほど何事もなく日々は過ぎていった。


 タイタンからのメールは毎日のように届いていたが特に新たな指示はなかったし、特に重大な事件は起こっていない。どんな様子で沙織が過ごしているのかを報告するだけだった。


『流川沙織は料理を続けていると仰っていましたが、腕は上がりましたか。』

『上達はしていないよ。頑張ってはいるんだけどねぇ』

『それはよかったです。流川沙織の個体情報は、できるだけ「並行時間等曲率漏斗パラレル・クロノ・シンクラスティック・インファンディブラム」に迷いこんでしまった時と同じ状態に保ちたいので、あまり上達させないようにお願いします。……せっかく頑張っているのに可哀想ですが』


 タイタンも人情を垣間見せる時があるんだな。と少し感心した。

 ともかく、料理に対するタイタンの心配は杞憂に終わりそうだ。沙織たちが料理をしているところを何度か覗いたが、ほぼ雫ちゃんが味付けを担当していて、沙織は包丁を使って野菜や肉を切ることくらいしかしていない。それも大して上達していない。


『料理に関しては大丈夫そうだけど、沙織は生きているし、こちらの世界に来た時と同じ状態にしておくってのは中々難しいと思うんだ。前にも言ったけれど、髪型だって変わっちゃってるし、こっちで流行っているものにも触れているし』


 僕が仕事に行っている間、沙織はiPadで遊んでいる。

 ここ数日はYouTuberにハマったみたいで、「○○なボクが○○してみた」とか、そんな動画を見てゲラゲラ笑っている。

 面白いから一緒に見ようと言われて一度だけ見たのだが、何が面白いのか全くわからかった。それどころか不快ですらあった。

「えー、面白いじゃーん」と沙織は言うが、若者が持て余した若さと虚栄心を振りかざして騒いでいるだけの動画でさっぱり理解できなかった。

「感性がおじさんになったんだよ」と僕は自虐的に返した。

 こういうときに沙織とも世代間ギャップを感じてしまうのが少し寂しい。

 僕はもう三十路すぎで、若者文化にはついていけない。だけど、過去から来た沙織はまだ十代だ。すぐに新しいものにも対応できるみたいだ。

 でも、もし沙織が生きていて僕と同じ歳になっていたとしても、僕よりも若々しく新しい流行には敏感に反応するかもしれない。

 僕はずいぶんと歳を取ってしまったようだ。


『なるほど。あなたが不安になられている気持ちも分かりますが、以前にもお伝えした通り、その程度の変化は誤差の範囲です。

 髪は時間と共に伸びますし、彼女の時代にはない最新技術に触れた事も、彼女がその仕組みを理解していない限り問題ありません。誰に言っても信じてもらえないような不思議な体験ですから、元の世界に戻って時間が経過していけば、その体験自体が現実に起こったことなのか曖昧になってしまいますよ。

 ですが……。

 繰り返しになりますが、自身の未来について知られる事は避けてください。自身の未来を知ってしまうと、歴史が大きく変わってしまう可能性があります。

 もし、そのような事態に陥れば、未来との整合性が取れなくなり、宇宙に新たな歪みが生まれてしまいます。世界が崩壊する可能性があります。その歪みを正すためには、異物となる彼女の存在自体を除去する修正プログラムを使用しなければならない可能性もあります。』


『沙織の存在自体を除去って、沙織を殺すってことか?』

『違います。初めからいなかったように歴史を修正することです。小川のせせらぎを塞き止める岩を取り除くように。もちろん、そうならないように私たちも全力でサポートしていきます。』


 勝手に未来に飛ばされて、存在を消されるなんてかわいそうすぎる。

『なんとかそうならないようにお願いするよ』

 返信を打ち込んだ僕はアパートの前で携帯を閉じて部屋に帰る。


「おかえりー」

 鍵を取り出し部屋の扉を開ければ、いつものように沙織が迎えてくれる。もう二週間も続いている事だから、彼女がいることにも慣れてはきた。けれど、今日は彼女の声に違和感を覚えた。……何が、と問われてもうまく言い表せられないのだが。

「ただいま」

 靴を脱ぎネクタイを緩めながら、沙織の横を通り過ぎてクローゼットに向かう。チラリと覗けば、沙織は今日もお気に入りのYouTuberの動画を見ていた。画面の中では髪を紫に染めた若者が変顔を披露しながら新商品のお菓子を紹介しながら大騒ぎしている。

 けど。いつもなら、楽しげに見ている沙織なのに今日は表情は硬かった。


「……どうしたの? なんかテンション低いね」

 通りすがりに言うと、沙織はハッとしたように顔をあげて、iPodを閉じた。

「え? そ、そんな事ないよ」

 笑顔を見せたが、どこかぎこちない。

 そういえば、ここ数日、こんな顔をよく見ている気がする。

「今日はどこか出掛けたの?」

「うん……。散歩したくらいかな。あ、洗剤が切れてたから買って来たよ」

 彼女が現れた当初は、僕がいない昼間は外出しないように、と言っていたが、今は遠出はしないなら外出することも許可していた。五月の暖かい時期にずっと部屋にいろと言うのは酷だし、彼女のためとはいえ、部屋に閉じ込めているのは監禁しているみたいで気分も良くないし可哀想だし、それにどうせ僕の目が離れている間は彼女の行動を抑えつける方法はない。なら、自由にさせておくしかないのだ。

 でも、どこに行ったのかだけは教えて欲しいと言っている。

 友達もおらず元の世界に帰れる時を待つだけの日々は、好奇心旺盛な沙織にとっては退屈なのだろう。こんな歳を食った彼氏より、同い年の彼氏の元に帰りたいだろうし。


 僕はといえば、二度と会えないはずの沙織とこうして会話ができるだけで嬉しくて仕方がなかった。

 ただいまと言える相手がいるってことがこんなに暖かい気持ちになるんだと言うことをすっかり忘れていた。

 夜、アパートの前で立ち止まり見上げれば僕の部屋に明かりがついている。それだけで心が安らいだ。

 だけど、この日々は続かない。

 もうすぐ沙織は僕の目の前からいなくなる。それは避けられない事実。

 情が移れば移るほど別れが辛くなる。そんな事はわかっている。できるだけ、心をフラットにして関わらなければ、と自分に言い聞かせてきたけれど、彼女がいることが当たり前になりはじめてしまって、その自分に課した使命が揺るぎそうになる。


「ヤッホー。さやかちゃーん。一緒にゲームやろー」


 勝手に扉を開けて入ってきたのはお馴染みの雫ちゃん。彼女が来ると、沙織の表情は心なしか明るくなった。

 雫ちゃんはもちろん何も知らない。僕の従姉妹だと思っている少女が、過去の世界からやってきた自分の姉だなんて夢にも思っていないし、今や沙織の良い友達になっていた。

 夏になったらプールに行こう、なんて雫ちゃんは沙織に言っていたけど、沙織がこの世界にいられる期間はもう二週間を切っている。


 僕はうじうじと悩んでいた。

 無事に沙織に元の世界に戻って欲しいのだけど、元の世界に戻ってしまったら、彼女は大学四年生の六月に死ぬ運命なのだ。もし未来のことを教えたら、僕の気持ちは晴れるのかもしれないが、歴史が変わってしまい宇宙に歪みが生まれ世界が崩壊するか、それを回避するためには沙織の存在自体をなかったことにされてしまうかもしれない。僕はどうしたらいいのだろうか。

 青空に闇夜が迫ってくるように、僕の心に暗い影が押し迫っていた。


 そして、うじうじと悩むだけの日々が続き、沙織が現れて三週間が経ったある日。

 仕事から帰ると沙織がいなくなっていた。



 ☆




 母が交通事故で死んだのは僕がまだ幼い頃だった。雨の日、僕を連れて車を運転している最中、出会い頭の交通事故だった。

 当時のことはあまり覚えていないが、幼いながら激しい後悔の感情を抱いたことだけはずっと頭に残っていた。

 僕のせいで母は死んだのだ。大切な人を失うことの怖さや悲しさは充分に味わった。もう二度とこんなこと起こさない。幼いながらにそう誓ったのに。


 それなのに、大人になった僕はまたしても最愛の人を失った。

 あれは母が事故に遭った時と同じような雨が降る日のことだった。

 あの日、僕が遅刻さえしなければ沙織は死ぬことはなかった。後から押し寄せる後悔の波が僕を激しく打ちのめした。


 人間の肉体は歳を重ねれば、成長し成熟し、やがて老化へと向かうが、精神や頭脳や心はどうなのだろうか。歳を重ねたからと言って、大人になったからといって成長していくものだとは思えない。

 過ちを繰り返し、その度に後悔して反省して、それなのに時が経てば同じ過ちを犯す。

 僕は後になってから、あの時こうしていればよかったとか、そんなことばかり繰り返している。



 その日も、仕事を終えアパートに帰ってきた時には、空は曇っていた。

 六月に入り少しずつ雨の日が増えている。あの憂鬱な梅雨の時期がもうすぐやって来るのだ。そして沙織との別れも。


 階段を上り、いつものように鍵をポケットから取り出して玄関の扉を開ける。

 いつもなら沙織が僕を出迎えてくれるはずの部屋が今日は薄暗かった。

「ただいま」

 僕の言葉に返事はない。

「沙織? 寝てるの?」

 靴を脱いで部屋に入り、明かりをつける。しかし、部屋のなかには誰もいない。

 玄関を見れば、沙織の靴がない。時計を確認すると八時を過ぎている。

 沙織がこんな時間まで外出しているなんて今までなかったことだ。

 まさか、どこかに出掛けている最中に事故にでも遭ったのではないか。

 血の気が引いた。


 僕は慌てて革靴をひっかけて廊下に出て隣の部屋のチャイムを鳴らした。

 雫ちゃんの部屋に遊びに行っている可能性もあると思ったのだ。だけど、雫ちゃんは留守だった。

 もしかして一緒に出掛けている可能性はないかと、スマホを取り出し雫ちゃんにラインを入れる。


『家に帰ったら、さやかがいないんだけど、なにか知らない?』


 すぐに既読がついた。同時に廊下の向こうから階段を上って雫ちゃんが現れた。

「あ、光輔さん。こんばんは。いま、ライン見ましたけど……。さやかちゃん、なにかあったんですか?」

 買い物帰りだろうか。スーパーの袋を片手にぶら下げて現れた雫ちゃんは、大きな瞳をまるくして首を傾げた。何も知らないという顔だった。

「わからない。帰ってきたらいないんだよ」

「授業とかじゃなくてですか?」

 そういえば、沙織は都内の大学に通う女子大生ということになっていた。

「こんなに遅い時間の授業はないよ……たぶん」

 僕は首を振った。

 こんなことになるなら、プリペイド式の携帯でもなんでもいいから持たせておくんだった。後悔が押し寄せる。

「どうしよう……。もし事故に巻き込まれていたりしたら……。」

 もし、あの時みたいに、どこか出掛けた先で交通事故にでもあっていたら……。

 脳裏に浮かぶあの忌々しい事故現場。

 ガードレールに突っ込んで停まったトラック。ひしゃげて地面に転がっていた沙織のお気に入りの赤い傘。路肩に咲いていた紫陽花の鮮やかなブルー。そして、その下でアスファルトに溜まった真っ赤な血。横たわる変わり果てた姿の沙織。

 人だかりができて、誰かが救急車を呼んでくれて、僕はまだ温かい沙織の手を握っていた。沙織の瞳は開いたまま瞬きもしない。雨粒が彼女の額に、瞳に無情に降り注いだ。

 救急車が来るまでの永遠に感じたあの時間。少しずつ、沙織の柔らかい手が白く冷たくなっていくのを感じながら過ごしたあの時間が、あの感覚がフラッシュバックした。

「……光輔さん! 光輔さん!?」

 雫ちゃんの声で僕は我に返った。

「落ち着いてください! 大丈夫ですから」

 小さい子に言い聞かせるように、僕の目を見たままもう一度「きっと大丈夫ですから」と雫ちゃんは繰り返した。

「買い物に出かけてるだけかもしれないし、友達と遊んでるのかもしれないですし、まだ何もわからないんですから。まずは落ち着いてください」

「でも……どこに行ったかわからないんだよ。もし、事故にでも遭っていたら……。探しにいかないと」

 階段へ向かおうとする僕の手を雫ちゃんが掴んだ。

「光輔さん!」

 雫ちゃんが僕の手を強く引いた。振り返ると雫ちゃんは僕を真剣な表情で見上げていた。

「心配なのはわかります。だけど、そんな風に慌てたって仕方がないですよ。探しに行くアテでもあるんですか?」

「それは……ないけど」

「でしょ。なら待つしかないですよ。そんなに慌てて夜道に光輔さんが飛び出していく方がわたしは心配です。わたしも一緒にいますから、さやかちゃんを信じて待ちましょう」

 雫ちゃんに促されて僕は部屋に戻った。雫ちゃんが明かりをつけてテレビをつけて、スーパーの袋から牛乳を取り出してコップにいれた。

「どうぞ、飲んで落ち着いてください」

 なみなみと注がれた牛乳を渡された僕だったが、それを飲む気にもなれなかった。

「もう光輔さん。オロオロしてたってしょうがないでしょ。とりあえず落ち着いてください」

 僕は腰も下ろさず部屋のなかを行ったり来たりしていた。雫ちゃんに急かされ、促されるままに牛乳を飲む。

「ほら、スーツくらい脱いでくださいよ」

 そういえば、ジャケットも脱いでいないしネクタイだって締めたままだったし、鞄すら手に持ったままだった。

「でも……」と口ごもる僕の背中を両手で押して雫ちゃんは「はやくはやく」とクローゼットの前まで急き立てた。

「何かあったら、すぐに出られるようにこのままのほうがいいんじゃないかな」

「なにを縁起でもないこと言ってるんですか。大丈夫ですよ、なにもないですよ」

「だけど……」

 子供の着替えをさせる母親みたいに「ほら、手伝ってあげますから」と背後に回りジャケットを脱がそうとした。

「い、いいよ、自分で脱ぐから」

 いくら動揺しているからってそこまで子供扱いはされたくない。

「いいから、いいから。手伝ってあげますから」

 雫ちゃんが僕のジャケットに手をかける。

「自分で脱げるからいいって」

 僕はその手を無造作に振り払った。その瞬間。

「きゃっ!」という小さな悲鳴と僕の手に鈍い痛みが走った。

 振り払った手が彼女の顔にぶつかってしまったのだった。

 軽く振り払っただけのつもりだったけれど、雫ちゃんからすれば、自分よりも一回りも二回りも大きな男の力だ。

 雫ちゃんがよろめき尻餅をついた。

「いたた……」

 しゃがみこんだ雫ちゃんが顔を歪める。

「ご、ごめん!」

 慌ててしゃがみ込んで謝る。

「だ、大丈夫です……。すみません。わたしの方こそ」

 尻餅をついた状態の雫ちゃんは言う。声が少し震えている。

「ホントごめん。取り乱しちゃって……。なんて謝ったらいいか……」

「いいですって。わざとじゃないんだし、びっくりしただけで、大丈夫ですから」

 ちょっと涙目の潤んだ瞳の雫ちゃんが強がりを言った。沙織とはまた違う、綺麗な瞳が僕を捉えていた。

「すまない。あの子にもしものことがあったらって考えたら……どうしていいか分からなくなって」

 雫ちゃんに暴力を振るうような形になって、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。「ごめん」ともう一度頭を下げた。

「ホントに大丈夫ですよ。逆にそんなに謝られると困ります。……でも、光輔さんにとって、さやかちゃんはとっても大事な人なんですもんね。ちょっと羨ましいな」

 雫ちゃんは唇を噛んで視線を逸らした。

「お姉ちゃんが死んじゃってから、光輔さんずっと落ち込んでたじゃないですか。火が消えたろうそくみたいで。わたしがいくら押し掛けても、全然上の空で。でも、さやかちゃんが来てから笑顔が自然になりましたよね。お姉ちゃんに向けてた笑顔とおんなじ。心から笑ってるなーって顔。わたしがいくら叩いても開いてくれなかった心の扉を、さやかちゃんは簡単に開けちゃったんだなぁって思って……」

「何を言ってんのさ。別にそんなことはないよ。彼女は……従姉妹で、親戚だし子供の頃から知ってたからさ」

「わたしだって、光輔さんに初めて会った時は子供でしたよ。でも、前も言ってたけど、光輔さんにとってわたしは……ただ妹みたいな存在なんですもんね」

 視線を落として自嘲気味に雫ちゃんは言った。どうして雫ちゃんがこんなに悲しそうに笑っているのか、僕にはよくわからなかった。

 雫ちゃんが口を閉じて俯いてしまって、僕もなにを言っていいのか分からなくなって、少しの間、二人して無言でしゃがみ込んでいた。


けど、意を決したように雫ちゃんが顔をあげた。そして、震える声で言った。


「わたしは……ずっと光輔さんのこと、」

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