第6話 「覚えてる? ……エトワール」

 ☆ 


 大学四年の初夏。彼女が死んでしまった時、僕は通夜でも葬式でも火葬場でも泣かなかった。

 大勢集まった彼女の友人たちがハンカチで涙を拭っているところを見て、沙織は友達が多かったんだなぁ、なんて場にそぐわない感想を持ったことを鮮明に覚えている。

 学校でしか会わない友達なんかよりも僕の方が絶対に悲しいはずなのに。人は悲しい時に泣く生き物のはずなのに。なぜか僕は馬鹿みたいに無表情に突っ立っていた。

 むしろ、大泣きをする友人たちを気遣うくらいの余裕があった。

 それくらい、彼女の死はどこか他人事だった。

 通夜の最中、席を外してトイレに行った時、鏡に映る自分の顔を見て衝撃を受けた。

 なんと、僕は薄ら笑いを浮かべていた。恋人の通夜で、涙も流さずにだ。

 僕は自分自身に失望した。

 好きだったはずなのに。ずっと大切にしたいと思っていたはずなのに。

 僕には彼女の恋人でいる資格なんてなかったんだって絶望した。

 僕は人を愛する資格がないんだ。その時、僕の心から何か大切なものが抜け落ちてしまった。何を見ても何をしても感動しなくなった。心配した沙織のお母さんがことあるごとに僕のアパートに押し掛けてきて、ご飯を作ってくれなかったら、きっと食事もとらなかったし、内定を貰っていた今の会社へのインターンすら行かなかっただろう。

 葬式で涙のひとつも流さなかったくせに、それでもウジウジと沙織のことを考え続ける自分が情けなくて仕方がなった。

 なんとか就職して、新入社員としての忙しい日々が始まると、幸いにも沙織のことを考える暇もなかった。それがかえって心地よかった。仕事さえしていれば、沙織のことを考えなくてすむのだ。仕事をして、自棄のように酒を飲んで、ただその繰り返しだった。心は沙織が死んだときから何も変わらないまま歳だけを重ねていった。

 もう二度と会う事のできない恋人のことを思いながら、年老いて死んでいくのだと思っていた。


 それなのに。



 ベッドの上で目を覚ました沙織と僕は数秒の間、黙ってお互いのことを見つめ合っていた。

 身を起こした沙織は寝ぼけているのか、ぼーっとした表情で半目のままうつらうつらと頭を揺らしていた。自分が時空を越えてしまったことなど、気がついている様子はない。

「おはよぉ……あれ。ここってどこだっけ……」

 ねぼけ眼の沙織はむにゃむにゃと目をこすり部屋のなかを見回した。

 彼女にしてみれば、気がついたら知らない部屋で寝ていたのだから戸惑うのも無理はないのだけど、ねぼけているからかあまり警戒感はない。

 のんびりした様子の沙織だったが、対照的に僕は固まったまま動けなかった。

 眠っているときにはなんにも感じなかったのに、こうして起き上がり動いている沙織を見ると、心の奥にしまいこんでいたあの頃の記憶が否応なく引きずり出されてくるのだ。

 沙織はひとしきり部屋のなかを見渡すと、僕の方に向き直り、じっと僕の顔を見つめた。まだ目はトロンとしている。

「あ……光輔くんだぁ」

 彼女は僕の名を呼んだ。

 僕を見て、親しみを込めて甘えたように僕の名前をよんだ。その声と表情は……当たり前なのだが、生前の彼女のものと同じだった。

 もう二度と聞くことのできなかったはずの懐かしい声が僕の鼓膜に響いた瞬間に、僕の脳裏に生前の彼女の記憶が鮮やかによみがえった。

 明るい笑顔や怒ったときの顔。一緒に買い物に行ったときの記憶、甘えた仕草や喧嘩してそっぽを向いた顔、彼女の全てが津波のように押し寄せてきた。

 じわりと目頭が熱くなったと思った瞬間に僕の瞳から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。


「え? え? 光輔くん? どうしたの?」


 突然涙をこぼし始めた僕に、彼女は目を見開いて驚いた。が、僕だって驚いた。勝手に涙が溢れてきたのだ。

「え、嘘だ、涙……? え?」

 慌てて目元を拭う。だけど、涙は止まるどころかどんどんと溢れてくる。

 「大丈夫? どうしたの? 平気?」

 沙織は両手を広げて僕の体に飛び込んできた。ぼろぼろと涙をこぼしている僕の体を抱き締めた。僕の頭を自らの胸に押しあて、頬を寄せて、

「よしよし、わたしはここにいるよ。平気だよ」と囁いて、くしゃくしゃと僕の頭を撫でた。彼女は僕のことをちゃんと光輔だと認識してくれたのか、不審がる様子もなく優しく包み込んでくれた。

 彼女の体温が、胸の鼓動が、彼女の手のひらの柔らかさが、優しい声が、僕の固く強ばっていた心を抱き締めた。

 彼女が死んでから今まで一度も出なかった涙が一気に流れた。息をするのが辛いくらい。僕は泣きじゃくった。

 沙織が生きている。生きて呼吸をして、僕の名前を呼んでくれる。それが、僕の心を激しく揺さぶったのだ。

 生きている沙織の体温に触れて、皮肉にも初めて僕は自分の大切な人が死んでしまったことを受け止めたのかもしれない。

 自分でも経験をしたことのないほどの、嗚咽混じりの号泣だった。


「光輔くん。どうしたのよ。赤ちゃんみたいになっちゃって」


 沙織の困ったような優しい囁く声が心地よく耳に運ばれる。

 なにかを言いたくて、でも言葉が出てこなくて、過呼吸になるくらい僕は彼女の胸で泣き続けた。

 本当に赤ちゃんに戻ってしまったみたいだった。でも沙織は黙って僕のことを抱きしめて何も言わなかった。

 しばらく彼女の胸にしがみついていた僕だけど、少しずつ呼吸は整ってきた。嗚咽を抑えるために何度も深呼吸をして、なんとか落ち着きを取り戻した。


 でも、ようやく冷静になってくると今度は気恥ずかしさがこみ上げてきた。こんなに我を忘れるほど泣いたのは初めてだったし、何より沙織の前で号泣してしまったのことが情けなかった。沙織の腕の中で照れ笑いで涙を拭った。沙織は僕のことを優しく抱きしめたまま何も言わない。


「……ごめん。あーびっくりした、僕なんでこんなに泣いちゃったんだろ。ごめん。驚かせちゃったよね」


 抱き締めてくれていた沙織の肩に手を置き顔をあげる。

 すると沙織は僕の体に腕を回したまま目を閉じていた。

「……沙織?」

 呼ぶが反応はない。僕に体を預ける形で、沙織はかくんと頭を落とし、すやすやと寝息をたてている。

「ねぼけてたのか?」

 寝息をたてる沙織は目を開けない。照れ臭くなって、鼻をすすった。

「まいったなぁ」

 僕は沙織の小さな頭を撫でた。艶のある黒髪。柔らかい頬。左頬の小さな可愛らしいホクロを指で触れる。

「……本当に、まいったなぁ」

 彼女の顔を見ていると、また涙が溢れてきた。僕はこんなに泣き虫だったのか。知らなかった。

 僕は意識を失っている沙織を抱き抱えベッドに運んだ。ベッドに寝かせて布団をかけて、僕は携帯電話を手にとった。

 そして、タイタンに沙織が起きたことを簡潔に打ち込んで送信した。

 だけど、これまでは即座に返ってくる返事がこない。ガラケー時代のメールだから、LINEと違って既読の表示もないし。じっと携帯電話を握りしめて、返信を待つが、うんともすんとも言わない。

 即座に対応をするっていっていたのに、言ったそばから連絡がとれなくなるなんて。

 新着メールの問い合わせをして、もう一度メールを送ってみようと文字を打ち込んでいると、肩をつつかれた。今、こっちは予期せぬ事態で精神が困憊状態だというのに、邪魔しないで欲しい。

「ちょっと待って、今忙しいんだよ」

 払い退けてメールの先を打つ。

「あの……」

「だから、ちょっと待って……って、うわぁ!」

 振り向いて飛び退いた。沙織が僕の横にちょこんと座っていた。

「ここはどこですか? あなた、光輔くんにとてもよく似ているけど……誰ですか?」

 口調がはっきりしている。つり目がちな瞳もぱっちりと開いている。完全に起きてしまったみたいだった。

「あっ、でも、光輔くんは父子家庭だし、兄弟もいないし親戚も近くにはいないって言ってたっけ……」

 小首を傾げて沙織は考えていたが、なにかを思い付いたのか、ハッと瞳を大きく開いて大声をあげた。

「もしかして、誘拐!? 監禁!? わたしが可愛いから!?」

「馬鹿! お前そうやってすぐ早とちりすんだから! 僕は光輔だよ!」

 とっさに言ってしまって、慌てて口を手で覆うが、時すでに遅しであった。

「どういうこと。ちゃんと説明してください。光輔くんがこんなおじさんなわけないよ」

 おじ……さん? 

「ま、まだおじさんって歳じゃないよ!」

 思わずムキにある。

「……やだ。そのすぐマジになる感じ。本当に光輔くんっぽい」

「だから、そうだってんだろ。……もう、ほら。これ見てみろよ」

 僕はどうにでもなれと言う気持ちで財布を取り出して免許証を出した。

「名前。ちゃんと雨宮光輔だろ? 顔だって、まあ老けてるだろうけど、見覚えあるだろ。高校はT高、担任は三年間ずっと髙村だったよ。ほら、英語の髙村。覚えてるだろ……って沙織は現役なんだっけ? まぁ、とりあえず。そうだろ?」

 免許証を押し付けると沙織の表情が変わった。

「……ほんとだ。雨宮光輔ってなってる。生年月日も……光輔くんとおんなじだ」

「そうだよ。で、いまは2019年なんだよ。君は時空を越えてここに来ちゃったんだよ」

 僕に隠し通す自信なんてないし、嘘もつけない。やけになって打ち明けてしまった。

「2019年……、嘘でしょ。証拠は?」

「証拠……か。えっと」

 僕は普段使っているスマホを取り出した。

「これ、なんだわかる? いま世界で普及している携帯なんだ。スマートフォンっていう」

「これが? ボタンがないじゃない」

「タッチパネルなんだ。もうボタンのある携帯電話なんて若者は使っていない」

 指で操作して画面を出す。スワイプしたり、電話帳を出したりして携帯電話であることを示した。それと、カレンダーで今日の日付も。沙織は目を白黒させて近未来の携帯電話を見つめていた。

「すごい……。どういう仕組みなの? これ、みんな持ってるの?」

「仕組みはわかんないけど、まあ若者はみんなこれだよ」

「……若者?」

 そう言って沙織は僕のことを指差した。

「だ、だから僕はまだおじさんって歳じゃないっ」

「ふふふ。本当に光輔くんなんだね。からかった時の反応が一緒だ」

 沙織に笑顔が戻った。

「……もう、やめてくれよ。」

 疲れた僕は床に腰をおろす。

「僕が光輔だってのは信じてくれた?」

「うーん。わかんない。でも、あなたが悪い人じゃなさそうってのはちょっとわかったかな。だけどさ、わたし別にタイムマシンなんか乗ってないよ? なんで未来なんかに来ちゃったの?」

「それは僕にもわかんないよ。心当たりはないの?」

 沙織は腕を組んで、うーんと唸った。

「わかんないなぁ。昨日わたしの誕生日で、光輔くんがお祝いしてくれたんだけど……。別にこれといって不思議なことはなかったような……。」

 記憶をたどる。高校三年生の三月。はじめての恋人の誕生日。10年以上前のことだ。詳細までは覚えていない。けど、どこに行ったかくらいは覚えていた。

「そういえば、沙織の誕生日。お台場に行ったよね。どこでごはん食べたのかは覚えてないけど。ピアスとかあげなかったっけ。ほら、受験が終わったらピアス開けたいとか言ってたもんね、それは覚えてるよ」

「……!? ほんとにあなた、未来の光輔くんなんだ」

 信じてくれたのか、僕の顔をじっと見つめる沙織。

「目が真っ赤だけど泣いてた?」

「泣いてないよ」

 慌てて目を擦った。

「ねえ。この時代のわたしは何してんの? 一緒に住んでないの? ……あ、もしかして別れちゃったの?」

「え、いや……その。」

 口ごもる。未来は教えない方がいい。大学を卒業することもなく死んでしまうなんて僕は言えない。

「……ま、そういうことは聞かない方がいっか。ごめんね」

 なにかを察したのか、沙織は声のトーンをおとした。

「ち、違うぞ。いまの沙織とは、遠距離になっただけだ。仕事の関係でちょっと遠方にいっちゃって。沙織は優秀だから忙しいんだよ。うん、それだけだよ」

 とっさに嘘が口から出る。

「そっか。そうなのね。まーわたし優秀だもんね。ふふ、なら良かった」

 笑顔を取り戻して沙織は顔をあげた。胸がチクリと痛むけれど、嘘だって悪いばかりじゃない。

「ねーねー、せっかく未来に来たんだったらさ。ちょっと世界を見て回りたいんだけど、案内してくれない?」

「そ、それは……」

 ちらりと携帯電話を見るが、タイタンからの返信はいまだにない。どうしたんだ。あれだけ見栄をきってサポートすると言っておきながら、なしのつぶてとは。

「不安じゃないの? 元の世界に帰れないかもしれないってさ」

「でも、この世界にもちゃんとわたしはいるんでしょ。ならわたしはちゃんと現代に帰れたってことじゃん。よくSF映画とかでそういうのあるけど、大体そんな感じでしょ。なら心配しないでこの世界を楽しんじゃってもいいんじゃないかなーって」

 話していると、忘れかけていた沙織の性格を痛切に思い出す。そうだ。彼女は好奇心も旺盛だし頭もいい。うじうじ悩むような僕と違って、「現状を楽しむ」ということを知っている。だから、いつでも彼女は人気者だったし、同級生だけでなく後輩からも教師からも好かれていたのだ。


「とりあえず、お腹すいたんだけどー。なんかない?」

 もう僕のことを自分の世界の光輔と同じ人間と認識したのか、尻に敷く気でいる沙織だった。

「そういえば、もう何年も料理してないな」

「へー。光輔くん、料理してたんだ!」

「あれ、ああ。大学になってからね。でも、社会人になると、作る暇もなくなるんだよ。お子ちゃまの沙織にはわからないかもだけどさ」

「あー、なにそれー。じじくさーい」

 軽口を言って笑うが、僕が料理を作らなくなったのは彼女が死んでからだ。食べてくれる人がいない料理を作るのは気が乗らなかった。

「じゃーコンビニでいいよ。apエーピーのジャージャー麺が食べたーい」

「エーピー!? うわ、久しぶりに聞いたな」

 懐かしい単語だった。僕たちが高校生の頃は「ampmエーエムピーエム」というコンビニがそこらじゅうにあって、そこのジャージャー麺が沙織はお気に入りだった。

「僕も久しぶりに食べたいけど、無理だよ。もう『ampm』はなくなっちゃったんだよ。」

「なくなった? なんで?」

「たしか、ファミマに合併されたんじゃなかったかなぁ。ちなみにサンクスもなくなったし、スリーエフももうないよ」

「ほんとに!? この前サンクスとスリーエフって合併するとかしないとかってニュースになってたけど……」


 沙織と僕との感覚のズレは大きかった。地続きで過ごしてきたからあまり変わっていないような気がするけど、13年という歳月はずいぶん社会を変えているんだな。


「ともかく、ここは君のいた時代とは違うわけだよ。だからあまり出歩かない方がいい。それに、制服を着た女子高生なんか連れてなんて歩けないよ」

「じゃあジャージとか貸してよ。それならいいでしょ」

 いくらダメだと言っても、こうなった沙織は止まらない。いつも僕が折れることになるのだ。情けないけど、なぜか少しだけ嬉しかった。

「……わかったよ。近くにコンビニがあるから、そこに行こう」

 僕はスウェットとパーカーと、それからキャップを沙織に渡した。

「あんがと」受け取った沙織は臆面もなく制服を脱ぎ始めた。

「ば、ばか。突然脱ぐなよ!」

「なんで? 別にいいじゃん。恋人同士なんだからさっ」

 シャツのボタンを外しながら沙織はにやっと笑う。もう僕は振り回され始めている。

「確かにそうかもしれないけど……でも、一応違う世界の二人なんだから、けじめはつけようよ」

「ふーん。変なの。別にすることはしてるじゃん。覚えてる? ……エトワール」

 不敵な笑みを浮かべる沙織。はっとした。遠い記憶がよみがえる。エトワールとは、僕が沙織とはじめて「休憩」した場所の名前だった。僕はガチガチに緊張してしまい、ずいぶんと醜態をさらしたのだ。

 完全に忘れていた遠い思い出だった。

「……ば、ばか! おまえ、そんな昔の話を蒸し返すな!」

「昔じゃないし、先々週だしー。可愛かったなー。初めての光輔くん。シャワーヘッドに頭ぶつけるし、小銭撒き散らすし」

「だー、もういい。お前だってはじめてだったくせに! 僕はシャワーを浴びてくるから、着替えて待ってろ!」


 初体験の苦い思い出が頭に甦って、顔を赤くしながら僕はシャワールームに逃げ込んだ。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る