第5話 並行時間等曲率漏斗
☆
就職を期に引っ越しをしたこのアパートに住みはじめてもう八年になる。
家賃も間取りも学生時代に暮らしていた部屋と大差はないが、沙織との思い出はひとつもない部屋だ。だからこそ、僕はこうして、のうのうと生きていられたのかもしれない。
玄関のわきにキッチンがあって、ふすまを隔てて十畳の洋間。ベッドとテレビとパソコンと、棚がひとつの色気もなにもない部屋。恋人のいない男の部屋なんてこんなもんだろう。
沙織が死んでから僕に恋人ができたことは一度もない。女性なんかを招き入れたことはない。いや、考えてみれば隣人の雫ちゃんは平気な顔でずかずかと入ってくるが、彼女は家族みたいなものだからカウントはしていない。
だから、唐突に女性を、しかも女の子を部屋に入れることになって僕は戸惑った。
『その少女をあなたの部屋で保護してほしいのです。期間は一ヶ月です。』
誰もいない噴水広場のベンチに突然現れた少女は、意識を失ったままで目覚めることはなかった。メールの指示に従う形で、僕は眠る彼女をタクシーで家に連れて帰った。不思議なことにタクシーの運転手は一言もしゃべらず、女子高生を背負う僕に質問のひとつも投げかけなかった。
『彼女は過去の世界からやってきた流川沙織です』
それが「大いなる意志」の忠実なる僕からの説明だった。何を馬鹿げたことを、と言いたかったが、眠る彼女の顔を見れば、その言葉が偽りでないことは明白だった。彼女は間違いなく、沙織だった。しかも高校生の頃の姿だ。
『彼女は時空の歪みによって、
聞いたことのない言葉だった。
『協力者であるあなたにはできる限り詳しく事情を説明したいのですが、そちらの文明レベルでは、こちら側の情報を共有することは困難なのです。わかりにくい点が多いとは思いますが、ご理解いただけたら幸いです。」
そう前置きして、長いメールが届いた。ここまで来たらどんな奇抜な話でも聞かざるを得ないだろう。僕は腹を決めて文字を追った。
『……とおい宇宙のとある時代、とある場所で「大いなる意志」が発生しました。
「大いなる意志」は数多くの宇宙群全体を認知するほどの存在でした。
ある時、とある宇宙の片隅に時空を蝕む歪みが生まれました。その歪みは小さく自然に淘汰されるような脆弱なものだったのですが「大いなる意志」の目の届かないところで、次第に大きな綻びへと進化していったのです。
そして、その綻びは無数に散らばる数多くの宇宙群を破滅に導く大きな存在になってしまいました。
そのことに気づいた「大いなる意志」は綻びを修復するために時間や宇宙を跨いで、様々なチャレンジを行いました。
いくつもの失敗と挫折を繰り返し、気の遠くなるような労力を費やし、数えきれないほどの犠牲を払い、未来と過去、枝分かれしたいくつもの時空を何度も行き来して、やっとの事でその綻びを解消することに成功しました。
しかし、修正された綻びの周囲に残留したエネルギーが周辺の宇宙群に
そして、その
なるほど。ぜんぜんわからん。
知らない言葉と理解しきれない世界の話だったが、それでも興味の一点は彼女についてだけだった。
『難しい話はよくわからないけど、ともかく過去の沙織がこの世界に迷い込んだってことなんだな』
『その認識で問題ありません。』
なら初めからそう言ってくれよ。肩が凝るような話にため息が出る。
しかし、にわかに信じがたいが、すやすやと眠る少女の顔は確かに高校時代の沙織そのものだ。
あり得ない事態に頭が混乱していて、あんなにも、もう一度会いたいと願った恋人がそこにいるのに、不思議なくらい感動はなかった。彼女の姿が女子高生という過去の姿だからだろうか。
『それで、この沙織は何年生の何月ごろの沙織なんだ?』
僕と沙織が急速に仲良くなったのは文化祭の実行委員に選ばれてからだし、僕が告白したのはクリスマスイブだ。目の前で眠る沙織が、それより以前、例えば四月に同じクラスになったばかり頃の沙織だったら、僕のことをどの程度認識しているかわからない。
『彼女は十八歳の誕生日を迎えたばかりです。』
『ということは、三月か。卒業間近かな。僕と付き合ってはいるね。というか、それより聞きたいんだが、彼女は元の世界に帰れるのか』
『安心してください。すでに「大いなる意志」が組みあげた時空修正プログラムによって、今回の問題は全て解決されています。ですが、あなたの宇宙にその解決プログラムが適応されるまでに少々のタイムラグがあるのです。誤差は地球時間で730時間、つまり一ヶ月です。その時間が経過すれば、流川沙織は自動的に元の世界へと送還されます。ですから心配はいりません。あなたにお願いしたいのは一ヶ月の間、流川沙織を保護して欲しいということだけです。この世界での流川沙織と親しい関係にあったあなたが一番の適任者なのです。』
『ちょっと待ってくれ。沙織は21歳で事故に遭って死んでしまうんだ。せっかく過去から来たんだったら、沙織に未来のことを教えて、事故を回避することはできないのか?』
『彼女の事故については調査済みです。あなたの希望もわかりますが、それはできません。と、いうよりは例え彼女に未来を教えたとしても、今あなたの世界に彼女がいないということは未来は変わらないということです。彼女が自分の未来を知ろうが知るまいが、歴史はそのように動いていきます。それが運命なのです。それなのに、彼女に未来のことを教えたいとあなたは思いますか?』
それは……。絶対に変えられない未来なら、なにも知らない方がいいかもしれない。
『そして、もうひとつ。もし、仮に、万が一、「大いなる意志」すら予測できない緊急事態が起こり、歴史が変わるということになれば、新たに時空の歪みが発生することになります。あなたの時代に流川沙織が存在しないのに、彼女がもし未来を変えて事故を回避したとなっては、歴史の流れが一致しないことになります。時空の歪みは本来生まれるはずのない並行世界を生むことになるのです。しかし、時空の歪みを原因として誕生する異常な並行世界では、その世界を正常に動かすためのエネルギーの供給が足りないのです。もし、世界が枝分かれしてしまった場合は、どちらの世界もその存在を正常に保てず自壊することになります。』
つまり、歴史は変えられない、ということか。
『わかったよ。だけど、目を覚ましたらどう説明すれば良い。ここが未来だって伝えるのか。てか、彼女全然目覚めないんだけど。大丈夫なのか』
『それについても、ご安心ください。そもそも彼女は「大いなる意志」の忠実なる僕によって仮眠状態に保たれています。この世界にいる一ヶ月の間、目覚めることはありません。栄養を取る必要もありませんし、排泄をする必要もありません。すやすやと眠っているだけです。ですので、目が覚めた場合の心配をする必要はありません。あなたに負担をかけることもないでしょう。不安になることを言いましたが、実際には彼女が未来を知ることもありえません。ですから、あなたにお願いすることは、彼女をあなたの部屋で一ヶ月の間、寝かせておいてほしい、ということだけなのです。どうかあなたの住む宇宙のためにも、彼女のためにもお願いします。』
僕にできることはなにもないということか。
すやすやと眠る沙織を見る。穏やかな寝顔だった。懐かしい顔だ。頬に触れたくなったが自制した。どうせ一ヶ月で消えてしまうなら、できるだけ関わらない方がいい。
『まとめると、僕は彼女を一ヶ月間この部屋で保護する。彼女は目覚めることはないから、特に世話をする必要もなく、ただ寝かせておくだけでいい。と、そういうことだね。』
『はい。ご理解いただきありがとうございます。「大いなる意志」の忠実なる僕を代表して、感謝の意を表します。」
『どういたしまして。ところで、ちょっと話は変わるけど、あなたは「大いなる意志」本人ではなくて、大いなる意志の忠実なる「僕」なの? それってのは個人名なの? 複数いるの? あなた自身の名前とかコードネームとか、そういうのあったら教えて欲しいんだけど』
人間らしさのないこのメールの相手を少し困らせてやろうと言う意地悪で聞いてみた。
『識別コードですか。なるほど。……わかりました。では、わたしのことは便宜上、タイタンとお呼びください。名前に別段深い意味はありませんが。』
意外とすぐに応じてくれて拍子抜けした。でも、ちょっと人間らしさを感じて親近感が湧いた気がする。
『タイタン。了解。一ヶ月の間よろしく』
『こちらこそ。何かお困りのことがありましたら、こちらに連絡をいただければ即座に対応させていただきます。我々は時間を点としてではなく俯瞰して観測していますので。』
『わかった。何事もなく一ヶ月が経つことを祈るよ』
そう返信して、長いやりとりを終えた。
色々と説明はされたが、理解の及ばない話のオンパレードで頭がついていかなかった。目の前に確かに見覚えのある過去の沙織がいるとはいえ、いまだに信じがたい気持ちもあるのだが、とりあえず今日は考えるのはよそう。
あまりに非現実的なことの連続に頭も体も異常に疲れていた。
夕食も食べていないが眠ってしまいたかった。こんなわけのわからない事態に巻き込まれても、明日の朝が来れば仕事にいかなければならない。それが社会人なのだ。
ふらふらとベッドに向かおうとしたが、すぐにベッドには沙織が眠っていることを思い出して立ち止まった。
目が覚めないとはいえ、同じベッドで寝るわけにもいかないだろうな。仕方がないけど一ヶ月の間は床で眠ることにしよう。さすがに彼女を床に転がしておくわけにもいかないし。
これからの一ヶ月のことを思うとため息が出る。
明日、目が覚めたら今日の全てが夢だったらいいのに。
床に寝転がってみると、いつもより少しだけ天井が遠い。そして、床は硬かった。
暇を見つけて敷布団だけでも買ってこよう。三十路を越して体の調子は下降気味だし、ぎっくり腰なんかも経験しているし、日々の疲れを取るのに睡眠は重要だ。目を閉じてもう一度深くため息をついた。
それにしても、高校生の頃の沙織か。もし起き上がって話をすることができたら、僕は彼女と何を話すだろうか。でも、余計なことを話さない方がいいんだろうな。とはいえ彼女が死んでからはずっと、まともに恋愛もしていないし、仕事以外に趣味もないし、友達もいないし、話すことなんてない。つまらない人生を送っている、と我ながら思う。けれど、沙織の死の原因を作った僕が楽しい人生を送る資格もないとも思う。
そんなことを考えながら目を閉じ、眠りに落ちそうになった時だった。
「ふああああ……あれ、ここどこ?」
頭の上から声がした。
まさか……嘘だろ?
血の気が引いた。
目を開ける。
恐る恐る身を起こす。
すると、ベッドの上で横たわっていたはずの沙織が身を起こしていたのだった。
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