現代の死神 ‐ローズレッド-

江渡由太郎

プロローグ

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本文

「誰か! 誰か! 助けて!」


 その叫び声は激しく打ち付ける横殴りの雨音によって掻き消された。


 夜空の三日月ように白銀に輝くその冷たい刃は、女のしなやかな肉体を羊皮紙のようにいとも容易く引き裂いた。


 ワイングラスへ注がれる深紅の葡萄酒のように女の傷口から鮮血が吹き出す。


 それは一瞬にして辺り一面を鮮やかな紅に染め上げた。


 その深紅の絨毯の上でまるで恋人同士抱き合っているかのようなだった。


 不適な笑みを浮かべながら男は女の腹部から柳場包丁を勢いよく引き抜いた。


 そこからは重量がある臓物がどっと女の足元へと流れ落ちた。


 薄れゆく意識と消えゆく命の灯火の渦の中で底なしの奈落へ堕ちるように、この憐れな女は己の臓物が広がる血溜まりの地べたへと顔面から崩れ落ちたのだった。


 全身黒一色の殺人気は煙が風に吹かれるように掻き消えた。


 闇と静寂の中には古びた一眼レフカメラが一つ残されていたのだった。


 この夏一番の不快な夜であった。


 朝から猛暑日の気温と台風接近のため、止むことを忘れた雨が常磐刑事を一日中苦しめた。


 額に大量の汗を滲ませながらその男の刑事は傘を握りしめてこの惨劇後を見詰めている。


 遺留品である古びた一眼レフカメラを回収したが、凶器とみなされる物はいまだに発見されていなかった。


 早朝になり放射冷却で少しは気温が下がったにもかかわらず、まだ真夏日の気温を維持している。


 それに追い討ちをかけるかのように長雨による非常に高い湿度であった。


 室内のエアコンで除湿を試みるも湿度90%以上あった。


 常磐は今日のこの地獄のような蒸し暑さから少しでも逃れたかった。


 昼前には涼むためにエアコンで冷えきった場所へ避難したいと考えていた。


 ここ最近は、電子書籍ばかりに慣れ親しんでいたため、書斎にあるいかにも難しくて読む気が失せる部厚い書籍に囲まれると圧迫感で嫌悪した。


 その星の数ほどあろう書籍が一体全部で何冊あるのか興味もなかった。


 常磐の目的は公立図書館で読書するのではなく、灼熱地獄から解放されることただこの一点あったのだ。


 公立図書館から地下鉄に乗ったのだが、地下の改札口のあるフロアー全面を濡れたモップで水拭きしたかのように濡れた状態であった。


 常磐が乗車した駅のみならず降車した駅でも同じ状態であった。


 いままでこのような体験をしたことがないため、いったい何が起こったのかそれを知りたいとさえ好奇心を駆り立てられた。


 駅員の事務所に足を運び質問を投げ掛けてみたが、常磐が得られた答えは単純明快なもので結露であった。


 これだけ蒸し暑く湿度が高いことがなかったので、熱中症の症状である頭痛と吐き気に見舞われたはじめていた。


 公立図書館へはまだ道程が続くこともあり途中で断念した。


 帰宅し暫くベッドの上で横になっていたが、しつこい湿度は常磐の体力を根刮ぎ奪っていくのだった。


「もう無理だ! 暑くて死にそうだ!!」


 自分以外に誰も居ない部屋で吐き捨てるように叫んだ。


 そうすることで少しは涼しくなるかと思ったのが間違いであり、余計に蒸し暑さをその身に感じることとなった。


 翌朝、激しく窓に打ち付ける雨音によって目を覚ました。


 リビングでは猫がテレビ画面を食い入るように見つめている。


「また、リモコンを踏んづけて電源を入れたな?」


 主人の声に我に返り猫は声の方へ振り返って一声鳴き声を発して返事をした。


「今週いっぱいは激しい雨が降り続け、川の水位も上がっているのか。隣町の河川が氾濫して地区一帯が浸水してるみたいだな。軽自動車も完全に沈んでしまってる」


 常磐はたった一晩の雨でここまで大災害に見舞われるとは信じがたい出来事であり、現実に今遭遇していることだとどうしても理解できずにいた。


 そこ後日、晴天の下で連日続いた猛暑日となった。


 茹だるような暑さの中で誰も日中の外出は避けたいと思わずにはいられなかった。




 自室にはエアコンがないため扇風機を使用して暑さを凌ごうと試みたが、その試みは脆くも崩れ去った。


 室内の温度計は三十八度を示している。


 実際の体感温度は四十度は越えているような熱気が室内に立ち込めているのだ。


 それはまるでサウナの中で衣服を身に纏いながら過ごしているに等しいのである。


 蕨野託生は熱中症にならないように努めて、水分摂取を欠かさなかった。


 どれくらいの量の水分を摂取したかは床に転がっている無数のペットボトルが物語っている。


 食欲もなく塩飴で塩分を摂取するのがやっとであった。


 眼球からも水分が蒸発しているのではないかという眼の痛みに、鏡で自分の姿を見てみると白目が真っ赤になっていた。


 水分を摂取しているうちに、吐き気すら感じるようになった。


「ヤバイ……熱中症かな!?」


 扇風機は室内の熱気を拡散してくれている気がしなかった。


 次の日、気温は少し和らいだものの真夏日であることにはかわりなかった。


 だが、一時的に天候が急転し、どしゃ降りの雨が外気温を下げてくれる役割を果たしてくれた。


 そのため幾分かは過ごしやすくはなった。


 その気温差のせいか前日の猛暑のせいかはっきりしないが、体調を崩してしまったのだ。


 咳とくしゃみが止まらず、喉からも鼻からも緑色の膿が出ていた。


 寒気が止まらず、歩けば宙を歩いているような脱力感がある。


 一日中毛布を被ったまま寝ていたが、翌朝になると瞼がが開けられなかった。


 まつ毛が接着剤で固められたように目やにで固まっていたのだ。


 ウェットティッシュで瞼を拭くと緑色の膿が付着していた。


 目頭の涙腺から膿が出てきており、指で触れるとベタベタした粘着力のあるものであった。


 その膿が眼球に膜を張るのか、託生の視界は白い靄がかかったようになり、目が見えずらくなっていた。


 洗顔をしたり、こまめに涙腺からの膿を除去しているうちに視界は回復した。


「何だろう!? 急性蓄膿症とかになったのかな!?」


託生は一晩で悪化した自分の体の症状に困惑していた。


 幼い頃より、この世の世界ではない者を見たり感じたりする力が少しだけあると母親から言われていた。


 それらと接触すると必ず託生は熱を出したり、火傷をしたりしていたというのだ。


 霊障ではないかと母親は心配して、託生に水晶の数珠のブレスレットを持たしたりしていた。


 今回は夏風邪なのか霊障なのか分からない。


 夏風邪であるならば、こんなにたちの悪いのは初めてである。


 風邪薬を服用しても効果が期待できなかった。


 それに凄い肩凝りもあり、頭痛が酷く、筋肉弛緩成分配合の薬や頭痛薬や痛み止めの薬を重複して飲み続けた。


 そして何とかまた眠る事ができたのだ。


 その晩、託生は睡眠中に無呼吸に陥った。


 鼻腔は鼻水で詰まり、口腔は扁桃腺が腫れているのか呼吸がしずらいうえに舌根が気道を塞いでしまったのだった。


 夢の中で息苦しさを感じているが目を覚ますことができずにいた。


 次第に苦しさが和らぎ、意識が遠退く心地好い状態になった。


 このまま何もかもが柔らかく包まれて真っ白な世界へ向かった瞬間に、自分自身の体に何かが落下した強い衝撃を受けて目を覚ました。


 思い出したように深く呼吸をした。


 胸の上に何かが落下した衝撃はあったものの痛みもなく、何が起こったのかも分からなかった。


 考えられることは一つしかなかった。


 肉体から魂が抜け出している途中で、再び魂が肉体へ戻った時の衝撃だったのではないかという考えが有力であった。


 その後、体調の悪さもあり直ぐに寝入った。


 暫くすると今度は何かの気配で目を覚ました。


 パンツとシャツの姿でベッドの上に仰向けで横になっていると、太股に息を吐く風を何度も感じた。


 犬が舌を出してゼエゼエ呼吸をしているあの息遣いである。


 ベッドの下で寝ている室内犬のチワワが夜中に目を覚ましたのかと思った。


 その他にまた一つ別の気配を感じた。


 頭の近くで犬が鼻を鳴らしている声が聞こえるのだ。


 太股では息遣いを感じて頭の近くでは鳴き声が聞こえるというだけで二匹の犬が同時に存在することになる。


 託生はこの世の犬ではないと判断し”去れ!!”と心の中で念じた。


 その瞬間、全てが消え去ったのだった。


 手元のスタンドタイプの蛍光灯をつけると室内は明るく照らされた。


 ベッドの下ではチワワはすやすやと快眠中であった。


「やっぱり、獣の霊だったんだ……」


 託生は先程の不可解な現象の結論を自分なりに納得した。


 そして、枕の近くに置いてある充電器で充電中の携帯電話へ手を伸ばした。


 液晶画面はいつもと違っていた。


 一度電源を落として再度電源を入れると四桁のパスワードを入力する画面が表示されるのだが、今その画面が表示される。


「電源に触ってないのに!?」


 電磁波の乱れで電子機器に不具合が生じることは知っていた。


 そして、霊もまた電磁波であることもである。

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